みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Natural Energy In The Work Of God, #12

2016年07月23日 | 聖書研究・信仰
かつて、若い兄弟と会ったことがある。

若い、つまり、年齢的にはそうだが、主に関して多くのことを学んできた男だ。

ご自身のことを学ばせるために、主によって、彼は多くの艱難を経験した。

その彼といろいろな話しをした。

「兄弟、昨今、主はあなたに何を教えておられますか」

彼は言った。

「たったひとつのことだけ」

「主から離れては何もできないということです」

私は聞いた。

「何もできないとは、どういう意味ですか」

彼は答えた。

「私はいろんなことができます」

「実際のところ、それが私の悩みの種となっているんです」

「ええ、私はいつも自分にはかなりの自信がありました」

「たくさんのことをうまくやりこなせるんです」

そこで、私は尋ねた。

「主から離れて何もできないと言う時、あなたの言いたいことは何ですが」

彼は答えた。

「私は何でもできることを、主は示してくださいました」

しかし、彼は続けてこう言った。

「私から離れて、あなたは何もできない」

つまり、こうだ。

「主から離れて自分がやってきたこと、そして主から離れて自分でできることは、一つ残らずチリあくた!という意味です」




Natural Energy In The Work Of God, #11

2016年07月22日 | 聖書研究・信仰
簡単に自分の改心の話しをした後、あの村々へと宣教活動に出かけた。

自分で言うのも何だが、私は教育を十分に受けた経験がある。

また、聖書に関しても大変良く研究を積んでいる。

それで、村民たちを指導する任務に十分耐えうるものと考えていた。

村民たちの中の婦人の多くは無学であった。

何度か訪問して、次のことを見出した。

無学にもかかわらず、彼女たちは主に関する深い知識があった。

彼女たちはつっかかりながらも聖書が読めることを知った。

彼女たちは聖書が話すお方を知っていた。

一方、私は肉において多くを知っていた。

彼女たちは霊において多くを知っていた。

今日、かなり多くのキリスト教指導者たちは、かつての私のような教え方をしている。

肉の力に頼って教える仕方によって。




Natural Energy In The Work Of God, #10

2016年07月21日 | 聖書研究・信仰
生まれながらの才能と霊的才能の違いが分かっただろうか。

祈ることなしにうまくやれることや神に依存することなくできることは何であれ、生まれながらの命がその源である可能性が高いか、或いはその疑いがある。

この点を明らかにしておく必要がある。

もちろん、生まれながらの才能を欠くような人々が就くといった特殊な仕事は例外だ。

ポイントはこうだ。

生まれながらに恵まれているかどうかではなく、キリスト者なら生来に関するすべてに、主の十字架のタッチを知る必要がある。

加えて、復活の神への完璧な依存をも知る必要がある。

あまりに軽率に、ずば抜けた生まれながらの才能を持つ隣人を妬む。

そして、主の十字架の業をそっちのけにし、自分にもそのような才能があることを理解しようとしない。

そして、神がうちに現わそうとしている何かに対して、自ら壁を作っていることが分からないのだ。




Natural Energy In The Work Of God, #9

2016年07月20日 | 聖書研究・信仰
さて、仮に次のようなことを考えてみたい。

この2人にプレゼンテーションをするのではなく、私は集会業務のまとめ役をするようにお願いをした。

何が起きるだろうか。

組織運営となれば、とたんに2人の立場は逆転する。

一生懸命祈る番は、今度はA氏となる。

何故なら、組織をまとめる才能がないことを彼は十分に承知しているから。

もちろん、B氏も祈りだろう。

しかし、恐らくA氏のような緊迫感はまったくないだろう。

何故なら、彼は主の必要を知ってはいるが、A氏とは違って、組織運営については意識する必要がないからだ。




Natural Energy In The Work Of God, #8

2016年07月19日 | 聖書研究・信仰
さて、何が起きるだろうか。

2人に全く同じ質問をした。

どちらが一生懸命祈るだろうか。

もちろんB氏だ。

何故?

何故なら、彼は話さないから。

プレゼンテーションという点については、彼は頼るべきパワーの源がない。

だから、彼は祈る。

「主よ、このことについて私にパワーを下さい。さもなければ、私にはできません」

もちろん、A氏も祈るだろう。

しかし、恐らくB氏とは同じではない。

何故なら、プレゼンに関して、彼は頼るべき生まれながらのパワーの源がある。




Natural Energy In The Work Of God, #7

2016年07月18日 | 聖書研究・信仰
次のような仮定を設けて、我々の議論の正当性を検証してみたい。

A氏は、大変プレゼンテーションが上手い。

実に流調に話し、どんなテーマでも説得力がある。

しかし、実生活面はまるでダメな男だ。

一方、B氏はプレゼンが上手くない。

正確に説明できないし、つい話題の中心から逸れてしまい、話が定まらない。

しかし、彼は素晴らしい経営者だ。

ビジネスのあらゆる分野において手腕を発揮する。

この二人が改心した。

どちらも熱心な信徒となった。

さて、私は彼らを呼んで、改心した時のことを証しするようにお願いをした。

どちらも快く引き受けてくれた。




Natural Energy In The Work Of God, #6

2016年07月17日 | 聖書研究・信仰
我々は、ワーシップの中へいろいろなものを持ち込む。

「雄弁」について考えてみよう。

彼らは言葉巧みに、あのことを紹介する。

改心した時のことだ。

霊的なことに関して立つべき場所にも関わらず、我々に聞きもしないで、壇上に上がって説教を始める。

我々もまた、説教のために生まれながらのパワーを使うよう勇気づける。

話題はこれまでとは違うが、やはり同じパワーだ。

我々はすっかり忘れてしまっている。

神の事々の取り扱い方に関して問題となるのは、価値の違いではなくパワーの由来だ。

そのパワーの源は何処から来るのか。

我々の行為ではなく、その行為のパワーが何処から来るのかが問題なのだ。

我々はエネルギーの源にはあまり関心がない。

そのエネルギーの行く末についても、あまり考えない。

神はそのやり方を決して善しとはしないことを忘れてしまっている。




Natural Energy In The Work Of God, #5

2016年07月16日 | 聖書研究・信仰
生まれながらの傾向とはこうだ。

以前は、歴史、ビジネス、化学、世界情勢、文学や詩について読書に耽るため、私は自分のマインドを使っていた。

これらの勉強から最高のものを得るために、自分の熱心なマインドを使っていた。

しかし、今や自分の願いは変わった。

その後も、神の事々において同じマインドを用いている。

一方、興味の対象が変わってしまっている自分がいる。

しかし、作業をこなしていく手段を敢えて変えてはいない。

ここに重要なポイントがある。

私の興味は、完全に変わってしまった(そのこと故に、神に感謝します)。

しかし、コリント書やエペソ書を勉強するのに、同じパワー(エネルギー源)を利用している。

しかし、そのパワーは神からのものではない。

我々キリスト者の多くが抱える問題はこうだ。

我々のエネルギーが向かうべき方向の変更は完了した。

しかし、そのエネルギー源そのものを変えるのを忘れている。




Natural Energy In The Work Of God, #4

2016年07月15日 | 聖書研究・信仰
「思い」を例にとってみたい。

生まれつき、自分には強いマインド(思い)がある。

新生する前には、生まれてから今まで培ってきた何かとして、強いマインドを持っていた。

問題はこのことから起きる。

私は改心した。

私は新しく生まれた。

私の霊の中で、何か神秘的な業が成されている。

神との一体化は、私の霊の中で構築された。

しかし、同時に、私は、生まれながらに持っている何かを自分とともに負っているのが分かる。

さあ、一体どうすれば良いのか。



Natural Energy In The Work Of God, #3

2016年07月14日 | 聖書研究・信仰
魂のパワー、すなわち生まれながらのエネルギーについて話している。

この生まれながらのエネルギーとは何だ。

単純に、自分でできること、ということ。

独自の自分であること。

自分が受け継いだもの。

生まれながらの才能と能力。

魂のパワーがなければ自分ではない。

最初に必要なことは、魂のパワーとは何かを理解することにある。