みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#641 神の法第六戒

2021年06月13日 | 神の法
第6戒
ハイブリダイゼーション(交配)と法

254~
Hybridization and Law
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

つまり、それがすべての問題、すなわち曲解、犯罪、異端、そして他の凡ての事柄に対する答えだ。

愛が答えである所では、すべての法と秩序は、愛の威厳に道を譲れなければならない。

愛は万能薬、とは実に広く信じられている。

このことは、カリフォルニア州ベル・エア市で行なわれた裁判においてよく表われている。

修道院クラブのトランプ詐欺事件に関与した一人の内科医が、起訴されたが裁判とならなかったが、1964年の所得税申告書における偽証罪に関して次のように言明した。

ランズ医師は、判事グレイに対し、「私を私の家族と私の愛犬の下へ差し戻して下さい。少なくとも愛犬は私のことをとても愛している」と弁明した。
この内科医は、「私は、愛されず、望まれない母なし子のようだ」と訴えた。

法のない愛は、あまりにも寛容すぎる。

より高度な方法を選択するという意味において、それは究極的に善悪の否定を意味する。

愛の道徳原理は、状況に応じた道徳に通じる。

神の絶対的法によるのではなく、状況に応じた道徳は、状況そのものやそれが要求する愛の行ないによって決定される。

法が否定される所は何処でも、法の支配が生命や思考において担保されていない場合、そのような立場における論理は、必然的に状況に応じた道徳へとつながっていく。

法を否定はするが、状況に応じた道徳にはまだはまってはいない福音主義的サークルは、発展が阻まれたまれなる事例だ。

行政命令は、ローマ教皇の回勅のように、状況に応じた倫理への進展を遮断する。

かくして、法は必然であり、聖書信仰の基本である。

聖書的考え方によれば、愛とは超道徳的観念ではない。

それは、法の成就(完成)である(ローマ13:8~10)。

ローマ13:8~10
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。 
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 コメント:

ここにおいて、Rushdoonyは愛とは超道徳的観念ではないと主張する。

イエスキリストの愛はモーセ律法の中にルーツがある。

愛は法を成就する。

法のない愛は全的寛容(あまりにも寛容すぎる)。

ディスペンセーション主義とは相反する事実の一つ。


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