みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#515 神の法第五戒

2020年04月05日 | 創世記
第5戒
命の約束
 
p169~
The Promise of Life
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

命の直近の源(両親)を敬うための命の約束は、申命記22:6,7とレビ記22:28にも同様に書いてある。

レビ記22:28
しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。

申命記22:6~7
たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。

 同様の法が出エジプト記23:19にも書かれている。

出エジプト記23:19
あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。 

ここに見られる約束は、第5戒にあるみことばと結びついている。

申命記22:6、7に関して、注目すべき点がある。

両戒めに共通する前提により従順を強調することによって、この戒めが両親と関係する戒めと同列に置かれているということ。

否、同列以上のものがある。

実際、ひとつの基本的法が含まれているということを示す。

W.L.Alexanderは言っている、「このような訓示は下等動物に対する感情を育成するようデザインされた」

しかし、そうではないだろう。

基本となる前提は第5戒において断言されている。

鳥や牛、雌羊、そしてその子らを取り扱うこれらの法において、その法が最大限及ぶ範囲を例示するために、最小限の例を用いて断言し、例示されている。

地は神のものであり、すべての生命は神の作品。

如何なる場合においても、人は神の法によらずに生命を取り扱うことはできない。

ある時代の虐げられたペルシャ人の有名な叫び。

「われわれも人間であるなら、法を持っているはずではないか」

人には神の法が必要。

主の法は、われわれに遺産相続に敬意を表することをあらゆる面で要求する。

遺産相続を台無しにすることは、動物界においても家族のレベルにおいても、生命を否定することを意味する。

神を弄ぶことと同義。

自分を創り出すことができ、この世界をリメイクできると豪語すること。

パウロは子らに、両親に従うよう命じた。

エペソ6:1
子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

「これは正しいこと」とあるが、本来義務であり、かつ適切な命令。

コメント:

ディスペン神学の誤謬(というより、魔性)をさらに掘り下げていく。

今のクリスチャンは知らずにバビロン神秘思想に汚染されている

ディスペンセーション主義の無律法主義が産む悲劇

注)
第1コリント9:20
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。 

上の聖句において、「私自身は律法の下にはいませんが」とあるが、この文章は原典には存在しない。
「律法」と訳されているが「旧約律法」という意味ではない。
「ニセ律法」「律法学者の律法」という意味で捉えるのが正しい。