小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

苦悩する能力

2015-05-17 16:07:38 | 考察文
昨日の続き。

世の中の人間を見ていると、太宰治の言う、「苦悩する能力」が欠如した人達ばかりだと、つくづく、感じる。
その一例。
僕の母校の大学では、二年(教養)から、三年(基礎医学)に進学する時、の試験を厳しくしていた。僕のクラスの時は、20人くらい落とされた。
入学した時から、二年間、の付き合いが出来ているので、友達の関係が出来ている。
落とされたら、せっかく出来た友達と、離れ離れになってしまう。落ちた人は、みじめでもある。
なので、みな、進級試験では、頑張った。
僕は、友達が少なく、過去問も、あまり、手に入らないのに、通った。
あるSという生徒がいた。彼は、真面目な性格で、試験の時、「落ちたら嫌だな」と言っていた。もちろん、誰だって、落ちたくはない。彼は、真面目なので、カンニングなどは、しない。しかし、二年から三年への、進級試験で落ちてしまった。とても、かわいそうに思った。
三年になった、はじめの頃である。Kという生徒が、進級試験の時、カンニングしたことを、笑って自慢していた。彼は、性格は悪くない。しかし、無神経なヤツだなー、と僕は、思った。カンニングは、悪いことである。もちろん、僕は、人生で一度も、カンニングなどという卑怯なことは、したことがない。千歩、譲って、どうしてもカンニングしなければ、ならない場合(どういう状況が、それに当たるのかは、わからないが)は、カンニングという行為、自体は、殺人とか、窃盗、とか、いじめ、とかに、比べたら、それらよりは、悪い行為ではない。と僕は思う。
しかし、カンニングして通ったKは、カンニングせずに、落ちたSに、対して、何の、申し訳なさ、も、罪悪感も、感じていないのが、無神経だなー、デリカシーのカケラもないなー、と思うのである。あれが、一般の人間の感覚なのだ。友情に対する裏切り、という行為になっているのに、それに気づいていないのである。友情に対する裏切り、という行為は、カンニングという行為、より、はるかに悪質だと僕は思う。

僕は、何事にも、優劣をつけたがることも、大嫌いである。し、人を蹴落としてまで勝者になる、ということも嫌いである。
優劣を競うスポーツ(世の全てのスポーツ)では、どうしても、勝者と敗者ができてしまうのである。それが嫌なのである。特に、高校野球などの、団体競技で、勝ち抜き戦の場合。負けて泣いているチームの目の前で、喜んで、はしゃいでいる、勝ったチームの、選手達や、応援してる人達の気持ちが僕には、わからない。プロ野球でも、リーグ戦なので、1位から6位まで、順位が出来てしまう。僕の感覚では、どのチームも、1位にしてやりたい。
だから、僕にとっては、スポーツとは、如何に、技が上手いか、どうしたら、技術を上げられるか、という運動のメカニズムに関心が向き、スポーツは、健康の向上のためにやるものであり、どっちが、勝っただの、負けただのには、全く興味がない。のである。

僕は、無神論者だが、聖書の、タラントの喩え話が好きだ。人は、自分に与えられた能力を、どこまで、頑張って使い切ったか、が、大切なことだと思っている。

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