「修行(坐禅)」は止められる事ではありません。
「自分のこと」ですから、もし「自分はとてもそういう修行(坐禅)というような事は難しい事だから止めよう」と思う人は自らの目を閉じる事、自らの耳を塞ぐ事になります。
「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を全部閉鎖してしまう事になります。
そういう事を考え合わせて「修行(坐禅)というものは止められるものではないんだ、しかも手段や方法を用いられるものではないんだ」という事を思って頂きたく思います。
「修行(坐禅)」が出来るとか出来ないとか、分かるとか分からないとか、是非善悪とか、そういうものは出て来てはいけないのです。
本当に「修行(坐禅)だけに成る」というように務めていただきたく思います。
「修行、坐禅、法、道」という言葉にとらわれると、何か特別な事をするように考えがちですが、そういうものではありません。
「六根の働き」を全て「眼」という言葉で表現すれば「この物(自分自身)の働き」は「眼 その物」です。
「眼」はきれいだとか汚いとか判断をするものではありません。
「只(ただ)映す(見る)」だけです。
耳も鼻も舌も同様です。
あらゆる物が「六根の働きを縁にしている」のです。
ただ「自分の心の中」で好きとか嫌いとか「分別」を起こすのです。
ですから「意(心)」は分別を起こす道具にすぎないのです。
「自分自身(このもの)」は「一切の有形無形の物(このもの)」を正しく見る(映す)「眼 その物」だということです。