趙州和尚はある時に修行僧たちに「各自に禅あり」と垂示(すいじ)をされました。
「皆さん方は今、なさっている事がそれぞれみんな禅ですよ」と。
「又、各自に道あり」そのものが道ですよ、と。
そこでたちまち「如何なるか是れ禅、如何なるか是れ道」と尋ねる人があったならば、あなた達はその人に対して何と答えるかと。
「既にそれぞれの人が禅であり、道であり、法であるならば、今更答える必要があるでしょうか」と修行僧は答えました。
この事は「落とし穴」なのです。
どういう「落とし穴」かというと、答えている人自体に問題が在る訳です。
それぞれの人がみんな禅、法、道であると今、聞いてなるほどとうなずいた訳です。
そして又、同じ人から「では、どのように言ったら善いのか」と尋ねられたら「既にそれぞれの人が禅であり、道であり、法であるならば答える必要がないじゃありませんか」と。
この事を「鑑覚の病」と言っています。
「肯心自ら許す」と同じ事です。
なるほど、修行僧は「既にそれぞれの人が禅であり、道であり、法である」という事を知(識)ったために「なぜそういう話をする必要があるのですか」と思ったのです。
ですから、「自分で言っている事自体」が「禅であり、道であり、法である」という事を知(識)らないのです。
そういう大きな「鑑覚の病」というものに自分で気が付かなければいけません。
そうすると趙州和尚が「汝が遊魂(ゆうこん)の為に」、すなわち「お前の魂は何処かに遊びに行ってしまっているぞ」と。
すると又、この修行僧は「未審(いぶかし)何としてか人の為にせん」。つまり「それでは如何したら人の為に宜しいのか」と尋ねました。
「みんなそれぞれ持っているものならば、人の為にする事は何も無いじゃありませんか」と。
すると趙州和尚は何も話さずに身を退いて帰って行かれました。
この修行僧の問いに対して「禅道の真っ只中に居るので話を弄(もてあそ)ぶ必要は無い」と身をもってお答えになったということです。
「問う者は知らない、知る者は問わない」という事で、道の中にありながら道を探すというような愚かな事をしてはなりませんよという意味での話頭(わとう)です。
※「鑑覚(さとりをかんがみる)」とは、覚りと比べ合わせて考える事です。