活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「了」とは

2021年06月18日 | 坐禅

「了」というのは、もう終わってしまったものということです。

 

例えば、行き着くところまで行ってしまったということです。

 

一例を挙げれば、人は水に中にあって、水を探すという愚かな事はしないはずです。

 

水は、「水だ」とは言いませんが多くの人が水というものに使われるということがあります。

 

「不思議」なことですかれども、水の中にあって「これが水だ」というようなことを言えば、水に使われるということになります。

 

本来すべてのものは了(終)わりの中に有(存)り、自分で「了(終)わったんだ」などと言うのはおかしいといっている言葉です。

 

これは、「坐禅は坐禅なり(修行は修行なり)」と同じです。

 

「坐禅(修行)をしながら、私は今、坐禅(修行)をしています」というのはおかしいことです。

 

本当に「坐禅は坐禅なり(修行は修行なり)」に徹していれば(三昧に成っていれば)、「私は今、坐禅(修行)をしています」と表現することは、坐禅(修行)に使われているということになるのです。

 

それでは、坐禅(修行)を説明している人だけが「坐禅(修行)の外に有(在)る」ということです。

 

ですから、「坐禅(修行)」に使われなくなれば「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)が坐禅(修行)だ」という「何時何処で何をしていても坐禅(修行)だ」ということに成らないといけないのです。


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