昔は只(ただ)「兀兀(ごつごつ)」に打坐して身心脱落を期しました。
「兀兀」とは、「一心に努力するさま、勤苦するさま」を言います。
曹洞宗にも、今もこの風が残ってます。
しかし、「兀兀打坐」は曹洞宗に限ったことではありません。
「仏祖入仏の通規」です。
臨済宗はこの事を変形して「公案」を用いる事となったのです。
何故かと言えば「人の根気」が弱くなり、何か頼るものを求めるようになったからです。
ですから「坐ばかりの坐禅」はもう今は無くなったといってもいいかもしれません。
「坐禅する」この事は善いことです。
どこまでも善い事なのですが、悲しい事に「坐禅その物(公案その物)」を汚してしまいました。