「箇事究明(こじきゅうめい)」というお言葉が在ります。
心理を究め尽くすという事です。
箇事究明から見れば坐禅するすら余計な事なのです。
まして「公案」をや、です。
そこのところを禅語では「大抵は他の肌骨(きこつ)の好きに還へす、紅粉を塗らざれども自ずから風流」と在ります。
もし病があれば薬は必要です。
病が多くなれば薬も多くなります。
とにかく坐禅は閑あればせねばなりません。
「修行者の命脈」はこの事に因って維持されるのです。
「一坐 坐れば一坐の仏」というお言葉があります。
「分からぬ者は仏語を信ぜよ、仏に妄語 無ければなり」です。
今や求道者の様子を見れば、「公案禅」も認めない訳にはいかなくなった世の中に成りました。