活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

兀兀打坐2

2021年06月04日 | 法理

「箇事究明(こじきゅうめい)」というお言葉が在ります。

 

心理を究め尽くすという事です。

 

箇事究明から見れば坐禅するすら余計な事なのです。

 

まして「公案」をや、です。

 

そこのところを禅語では「大抵は他の肌骨(きこつ)の好きに還へす、紅粉を塗らざれども自ずから風流」と在ります。

 

もし病があれば薬は必要です。

 

病が多くなれば薬も多くなります。

 

とにかく坐禅は閑あればせねばなりません。

 

「修行者の命脈」はこの事に因って維持されるのです。

 

「一坐 坐れば一坐の仏」というお言葉があります。

 

「分からぬ者は仏語を信ぜよ、仏に妄語 無ければなり」です。

 

今や求道者の様子を見れば、「公案禅」も認めない訳にはいかなくなった世の中に成りました。