活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

禅病

2021年06月10日 | 法理

仏教で「空、無、本当の事、真意、深意」という言葉は特に「禅」で「禅病に成る処」です。

 

一番治り難い禅病というのは「空、無」です。

 

「空に成ろう、無に成ろう」として坐る、そういう「仏教の概念の中」で坐ることは一番悪い事です。

 

従って、「坐禅は坐禅なり」というお示しから言えば大変な間違いであるという事です。

 

それと反対に「何を思ってもいいのか、何を考えてもいいのか」という考えを土台にして坐れば何処までいっても「自分の考えの中で坐っている」ということになります。

 

ですから、これらは全部間違いという事です。

 

考えながら坐っている事は、本当につまらない事です。

 

「どんなに考えても自分の考えの中での事」だからです。

 

ですから「自分の思惑の中で坐らないようにする」という事です。

 

「坐禅は坐禅なり」という事です。

 

 


心病

2021年06月08日 | 法理

自分自身の上に矛盾があると、物事に対して是非の念が起きて来ます。

 

それを「心病」と言います。

 

つまり自分自身の心の上に「病」が生じるのです。

 

「この病」は習慣ですから必ず取れます。

 

「この病」は取らなくてはいけないのです。

 

それでは、「この病」を取るには如何したら善いのかというと、どんな事でもよいのですが、

「有(在)る物が、只(ただ)有(在)った」のです。

 

それが私たち衆生の「今の事実」です。

 

その他に有(在)るのではないのです。

 

ですから「今の事実」が本当に分かれば良いのです。

 

そうすれば「心」をどうにかしなければならないという事がなくなります。

 

「自分の真実のあり方、“実の事実”」がはっきりしないと、どうにかしなければならないという事が起きて来るのです。

 

それが起きて来ると、それに囚われてどこまでも追いかけて行き限り無しに成るのです。

 

それですから「自分の真実のあり方、”今の事実”」を見極めようと思ったら「今の事実をそのまま手を付けない事」です。

 

それで宜しいのです。

 

何故かというと、「今の事実」はその通りに(そのままに)全身を挙げてそういう活動をしているからです。

 

そういう「真意(深意)」を知(識)って修行(坐禅)を行じて頂きたく思います。


兀兀打坐3

2021年06月06日 | 法理

「万里一条の鉄」というお言葉が在ります。

 

一条の鉄を以って万里を貫くという意味です。

 

「済家(さいか)」で言えば、万里は千項目の公案、一条鉄は一則の公案という事です。

 

しかしこの事も「坐の上から言えば途中の事」です。

 

転(うた)た悟らば 転た捨てよ」というお言葉が在ります。

 

「残り物(悟り)」が在っては自由が利かないのです。

 

「公案禅の弊害」は悟りを固持する処にあります。

 

学人が「無眼子(むがんす)」の為に「公案」を尊重して指導者の為すがままに成ってしまうのです。

 

不尽


兀兀打坐2

2021年06月04日 | 法理

「箇事究明(こじきゅうめい)」というお言葉が在ります。

 

心理を究め尽くすという事です。

 

箇事究明から見れば坐禅するすら余計な事なのです。

 

まして「公案」をや、です。

 

そこのところを禅語では「大抵は他の肌骨(きこつ)の好きに還へす、紅粉を塗らざれども自ずから風流」と在ります。

 

もし病があれば薬は必要です。

 

病が多くなれば薬も多くなります。

 

とにかく坐禅は閑あればせねばなりません。

 

「修行者の命脈」はこの事に因って維持されるのです。

 

「一坐 坐れば一坐の仏」というお言葉があります。

 

「分からぬ者は仏語を信ぜよ、仏に妄語 無ければなり」です。

 

今や求道者の様子を見れば、「公案禅」も認めない訳にはいかなくなった世の中に成りました。


兀兀打坐1

2021年06月02日 | 法理

昔は只(ただ)「兀兀(ごつごつ)」に打坐して身心脱落を期しまし

 

「兀兀」とは、「一心に努力するさま、勤苦するさま」を言います。

 

曹洞宗にも、今もこの風が残ってます。

 

しかし、「兀兀打坐」は曹洞宗に限ったことではありません。

 

「仏祖入仏の通規」です。

 

臨済宗はこの事を変形して「公案」を用いる事となったのです。

 

何故かと言えば「人の根気」が弱くなり、何か頼るものを求めるようになったからです。

 

ですから「坐ばかりの坐禅」はもう今は無くなったといってもいいかもしれません。

 

「坐禅する」この事は善いことです。

 

どこまでも善い事なのですが、悲しい事に「坐禅その物(公案その物)」を汚してしまいました。