活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「坐禅は坐禅なり」とは2

2021年06月26日 | 坐禅

道元禅師は「本来本法性天然自性身(ほんらいほんぽっしょう てんねんじしょうしん)」(本来、今のまま、現在のままで満足に思うならば、何故歴代の祖師といわれる方々はご修行なさったのだろうか」という事について疑問を持たれたのです。

 

そして中国に渡り「身心脱落」をなさったという事があります。

 

この「身心脱落」というのは「ものに成り切って自分を忘れる」という事です。

 

「坐禅に成り切って坐禅に成る」ことを「坐禅は坐禅なり」と示しているのです。

 

「坐禅は坐禅なり」というのは「身心脱落」をなさった道元禅師のお言葉です。

 

ですから「身心脱落」を未だ経験していない人は、「坐禅は坐禅なり」という言葉を発する事は少々無理な話だと思います。

 

「私が坐禅をしている」という「”私”という介在がある」という事を知って頂かなければなりません。

 

「坐禅」というのは「坐禅に因って坐禅を完全に忘れ尽くすために坐禅をする」という事です。

 

「坐禅は坐禅なり」、極単純に「その事だけ」で足りるように務めて頂きたいと思います。

 

この事を「唯務(ゆいむ)」といっています。

 

「唯務」は坐禅だけのことではありません。

 

仕事においても、日常生活においてもそうです。

 

「そのものの為にそのものを行する」、「その事でその事が了っている(一切の意味付けや意義付けを行なわない)事です。