活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「坐禅は坐禅なり」とは1

2021年06月24日 | 坐禅

仏法(仏道)の真骨頂は、先ず「ものは一つ物である」という事です。

 

この事は是非理解して頂きたく思います。

 

私たち衆生は「分別」して「ものを二つに見る癖」が付いているのです。

 

「癖」というのは「我(が)、自我」というものです。

 

「癖と自我」は同じ物です。

 

「修行(坐禅)をする」とは、その「癖(自我)」を取る事です。

 

即ち「自己を忘ずる事」です。

 

ですから「今の事実(修行、坐禅)その物に成る」という事意外にありません。

 

道元禅師「坐禅箴(ざぜんしん)」に曰く「坐禅は坐禅なり」と。

 

「今の事実(修行、坐禅)その物になりさえすれば、ものは一つ物である」という事が、本当に明白(めいびゃく)に成ります。

 

それはそうだと思います。

 

「今の事実(修行、坐禅)」というのは「我(が)」というものも無ければ、癖(自我)も無ければ、迷いとか悟りとか、凡だとか、聖(しょう)というものではありません。

 

「人も法(道)も何も無い、只 今の事実(修行、坐禅)だけが有(在)る」のですから「今の事実(修行、坐禅)」に徹しさえすればたしかに「ものは一つである」という事が分かります。

 

「坐禅は坐禅なり」とは「坐禅の先生は坐禅である」という事です。

 

「坐忘して下さい」「坐り尽くして下さい」

 

「坐忘」とは「坐して坐る事を忘れる」という事です。

 

「坐禅箴」に曰く「坐禅を坐禅なりと知れるすくなし」と。

 

道元禅師の師、如浄(にょじょう)禅師のお言葉で「坐禅を坐禅とする人稀なり」とも述べられております。

 

お二人の真意は、「坐禅を手段や方法としてものを求める人」は多いけれども「坐禅が坐禅で了ってしまっている人は非常に少ない」という事です。

 

道元禅師の場合「自分というものを認めてしまった」ために、それが「無明」と成ってしまったのです。