私たち衆生の一人一人がどんな考えを持って、どういう坐禅の状態で在っても、みんな「今」の事です。
何も無い処に居ながら、何かに偏っていたり、「位(くらい)”場所、地位”にいる」という事ですから、そのほかに求める事がないようにしないといけないという事です。
「祇管(ひたすら)に坐る」という事が間違えられて、「祇(只)管打坐(しかんたざ)」という一つの「坐禅形」を認めるようになってしまいました。
そして「悟るものも、得るものも在ってはいけない」という「無所悟、無所得」が強調されその結果、
「祇管(ひたすら)に坐る」という事からもう一つ意識が沿って「只管打坐をすれば善い、坐れば善い」というようになってしまいました。
この事はあくまで「結果から見たお言葉」です。
確かにその通りなのですが、残念ながら「只(ただ)」というものが如何しても残って行き詰ってしまうのです。
「只、只」とそれだけなのです。
それでは、いわゆる仏教で言う所の「空」でもなければ「無」でもありません。
「只というものを自分で取り扱って何時もきれいな処に居る」という事になります。
この事を「浄潔(じょうけつ)の病」と言います。