活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

不殺生戒・破戒2

2019年02月18日 | 仏教

仏法からいえば「煩悩を滅する、迷いから離れる」ということは

「殺生(破戒)」なのです。


「不殺生戒」というのは色々な生き物を殺すということだけではありません。


心中に湧き起こる自分の思想も排除しようとすることも「殺生(破戒)」だと

いうことです


「殺生(破戒)」しているから「悟り」を得ることは出来ないのは当然なのです。


要するに護るべきものを他所に立ててそれを護っていこうとする姿勢はことごとく

戒を傷つける(汚す)破戒なのです。


ですから、「煩悩を失くして菩提を得よう」と思うことは、それはすでに破戒だと

いうことをよく承知しておいてもらいたいと思います。


その辺のことはおシャカ様は「煩悩即菩提(煩悩の外に菩提はありませんよ)」と

おっしゃっておられるのです。


「おシャカ様の教え(仏教、仏道、仏法)」は「戒そのものである」ということです。


不殺生戒、破戒1

2019年02月17日 | 仏教

「不殺生戒」の「殺す」ということは、相手を認めることに因り

起こる言葉です。


「殺す」といっても、取捨の念を起こして殺すことを止めることも

「相手を認めた二元論」ですから「殺、不殺(さつ、ふさつ)」ともに

罪悪なのです。


「おシャカ様の教え(仏教)の不殺生戒(ふせっしょうかい)」とは、

本来全てが一つのもの(始めより宇宙と一体なもの)ですから殺しようが

ないのです。


相手がいないから、手を汚すことは出来ないのです。


ですから「不殺生戒」を「殺す人もいなければ、殺される相手もない」

というふうに受け取って頂きたいのです。


仏法でいうところの「殺生」と、普段言っている「殺生」とはまったく違うものです。


異名同体2

2019年02月16日 | 法理

ですから「今の事実そのもの」は前稿で掲げた言葉、即ち

「法、道、禅、空、如是」と名称は異なりますが全く同じものなのです。


それを「異名同体(いみょうどうたい)」といいます。


「法、道、禅、空、如是」というものは「同じ事実(一つのもの)」を

様々な言葉で表現したものです。


誰一人として生まれながらにして「覚者である自覚のある人」はいません。


「真理」は誰のものでもありません。

ですから、私たち衆生は「自分で自分自身に目醒める」必要があるのです。


異名同体1

2019年02月15日 | 法理

世の中では「真理(自分をも含めて一切のもの)」を多くの方々が

色々な言葉を用いて説明しています。


代表的な言葉として一例を挙げれば「法、道、禅、空、無、如是」

などです。


「真理」は何時でも何処ででも何をしていても「人種、文化、思想、言葉」

に左右されることがあってはなりません。


「真理」は片寄り様がなく、汚れることもなく、生まれることもなく

滅することもないものでなければ「真理」とはいえないのではないでしょうか。


人類史上始めてその「真理」に目醒められたお方がおシャカ様なのです。

私はおシャカ様の目醒められた様子を「今の事実が真理そのものである」

皆さんに提示したのです。


疑問について4

2019年02月14日 | 法理

決して自分自身の心を費やして「波」を抑えようと思ってはいけません。


そこには、多少の「時間」というものが必要ではありますが、そうでなければ

「絶対の安心(あんじん)」というものはありません。


私たち衆生の「今の状態」というのは、みんな「自分の事実の上(不安のまま、

焦りのまま、落ち着かないままの状態)に立っているのではありませんか。


「その事実をその事実のまま」に自分のものにするというのが「本当(本来)の修行」

のあり方なのです。


疑問について3

2019年02月13日 | 法理

「波(不安とか焦りとか落ち着きがないという)そのもの」に成れば

波それ自体は自分が動いているということに自分自身では気が付きません。


難しいことではありますが、「自分が波に成ってみる必要」があるのです。

波に成れば「此岸、彼岸」というものはありません。


ですから「此岸、彼岸」ということを取り違えると大変な問題になるわけです。

ですから、不安のままの状態に、焦りのままの状態に、落ち着かないままの状態に

「自分がいかに成り切れるかどうか」です。


それが「そのものの事実」ということです。


疑問について2

2019年02月12日 | 法理

それでは具体的にどのように修行したらよいのかという疑問が

生じると思います。


「彼岸と此岸」の譬えで説明したいと思います。


彼岸と此岸の間が非常に「波立っている」とします。

ちょうど私たち衆生の感情と同じことです。


「波立っている時、波の間は岸がありません」

「波という事実だけ」があるということです。


私たち衆生が「不安とか焦りとか落ち着かない」というそういう

事実が「波」に成ってあるということです。


彼岸を求めるからますます悩みが深くなるのです。


では、「どこに目的をおいて(目的を持って)修行したらいいのか」

ということが問題になってくるのです。


そこで指導者は「波に成りなさい(波そのものに成って下さい)」

というのです。


疑問について1

2019年02月11日 | 法理

疑問があるから、疑問をなくす為に修行しなければならないと

考える方が大部分ではないかと思います。


「自分の疑問」というのは非常に大切なことですかれども、しかし、

そうではありません。


どんな「問題」が出て来ても「善ければ善いままに何故だろうか」、

「悪ければ悪いままに何故だろうか」と、そういう疑問を持つことが

非常に大切なことなのです。


修行する上においては「無駄なことは」何もありません。


「疑問の解決(疑問を疑問として疑問ながらに疑問ではなくなるまで)」

に全力投球して頂きたいと思います。


人の死

2019年02月10日 | 法理

「死というものが怖い」という人がいます。

これは自分というものを持って亡くなったことを想像するからです。


「人の死」でも同じことが言えます。


「此の物全体」が死ぬのですから、「自分が死ぬ」という事は分かるはずが

ないのです。


所謂、人の死は死だけではありません。


私たち衆生は今こうしているうちにも「生死(しょうじ)」というものを

繰り返しているのです。


いつでも生死を繰り返し繰り返し、しているのですから間違っても

概念的に人の機能が働かなくなって冷たくなった様子だけを「人の死」

と思わないようにしないといけません。


悟りの様子3

2019年02月09日 | おシャカ様

それでは何が私たち衆生の悟りの縁を妨げているのかというと、それは

「我見」というものです。


私たち衆生の側に「善悪」とか「好き嫌い」を分別する心というものが

あることを忘れて、対象になるものの方に「善悪」とか「好き嫌い」と

いうものが、あたかも存在するように思っているのです。


これを「我見」といっています。


私たち衆生の側に分別心があるうちは、いくら目醒める縁があっても

目醒めることは出来ないのです。