活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

唯務(ただつとめる)3

2019年02月26日 | 

「唯務(ただつとめる)」の「唯」は、「唯」が先にあるのではありません。

後にあるものでもありません。


何かを完全に務めている時には「唯」も何もありません。


たとえば、苦いものと辛いものを口にすると「苦い」とか「辛い」とか

いいますが、それは過ぎてしまった知覚(認識)で分かることです。


つまり、全部過ぎたこと(過去)だから分かるのです。

その中にいる間は分からないのです。


分からないくらいに「真実(事実)の中」にいるのです。


私たち衆生の日常生活の様々な状態も、いつも自分というものが判断したり

考えたりしていると思いますが、様々に変化している自分というのは嘘でも

本当でもない、「それだけの因縁」によって現れているだけのものであって

私たち衆生はいつも「何もない世界」にいるのです。