修行すればだんだん落ち着いてきて、葛藤がなくなり、雑念、妄想、分別が
出なくなると考えがちです。
しかし、そういう状態を描いて考え、望んで修行してもそれは駄目なのです。
何故かというと、葛藤そのもの、雑念、妄想、分別そのものが「もうすでに
脱落している(解決済み)」からです。
「唯務(ただつとめる)」とは、どんな状態にあっても唯(ただ)それを務めている
ということです。
別の言葉で言えばそのものの中に自分の身を沈めて、一切自分の考えというものを
出さないということです。
「坐禅は坐禅なり」ということです。
そのこと(今の事実)以外に脱落の状態、悟りの状態、涅槃の状態というのは
ないのです。