おシャカ様の教えに「一切のものはひとつのところに帰る」すなわち
「一切のものは、自分に帰る 自分は一切のものだ」というものがあります。
そういう二千五百余年ほど前のおシャカ様のお悟りは、ただ単に二千五百余年前の
経験としてではなく、そのことが「私たち衆生の一人一人の今の様子」なのです。
私たち衆生はいつでも、おシャカ様と同じように「縁(おシャカ様の場合は星を見て)」
に因って悟ることが出来るのです。
いつでも悟りを開く「縁」が四六時中、私たち衆生には具わっているのです。
おシャカ様の教えに「一切のものはひとつのところに帰る」すなわち
「一切のものは、自分に帰る 自分は一切のものだ」というものがあります。
そういう二千五百余年ほど前のおシャカ様のお悟りは、ただ単に二千五百余年前の
経験としてではなく、そのことが「私たち衆生の一人一人の今の様子」なのです。
私たち衆生はいつでも、おシャカ様と同じように「縁(おシャカ様の場合は星を見て)」
に因って悟ることが出来るのです。
いつでも悟りを開く「縁」が四六時中、私たち衆生には具わっているのです。
伝光録に曰く「我と大地有情(うじょう)と同時に成道す」と。
ここで私たち衆生が注目しなければならないことは、おシャカ様が
「大地有情(すべての衆生とともに)」とおっしゃっていることです。
ですから、おシャカ様は「私一人」が悟りを開いた、「私一人」が自分の本当の
姿を見た、「私一人」がそういう状態に成ったというのではありません。
「すべての衆生とともにそういう目醒めがあった」といっているのです。
それでなければ「本当の目醒め(悟り)」ということはあり得ないという事なのです。
私たち衆生は今、「おシャカ様の悟りと全く同じ結果」にあるのです。
この事実を本当に知(識)る、別の言葉でいえば「結果と一つに成る」ということが
私たち衆生の修行の課題なのです。
「修行によって自分が無になった」とか、「坐禅によって空になった」
というような事がよく言われますが、それは間違いです。
元元無であり、空なのです。
「空」というと、有(在)るものが有る時において或る縁に因って欠落した
と考えられがちですが、そうではありません。
「空のままにものが有(在)る」ということです。
今のこの諸法は「差別(しゃべつ)」の状態です。
「空のなかにものが様々な“法”として現成(げんじょう)している」ということです。
これを「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」といいます。
いちいち(個個)の解脱だといわれています。
ですから、それぞれのものがすべて「空」のままに、無いながら有(在)る状態を
仏教では「空」と説明しているのです。
これは身心を解放して「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」の作用(働き)に
任すことに因って、「自己の正体」を見極めることが「学と無学、経験の
深浅」に関係なく出来ることを示されたのです。
「この身の内にこの身を支配する何物か(霊魂)」が有(在)るように妄想を
起こして一つの物を二つに見るのです。
これを無明といっています。
達磨大師の弟子の波羅提尊者(はらだいそんじゃ)は「仏性というものは、
八つの作用、働きに在り」と示されました。
第一に、胎に在っては身と為り...体ということです
第二に、世に処しては人と成り...社会に出て人間の仲間に入ることです
第三に、眼に在っては見ると云う....眼は物を映じてきちんと分かるという
ことです
第四に、耳に在っては聞くと云う...耳は音をきちんと分かるということです
第五に、鼻に在っては香を弁じ...「弁じ」とは分かると区別するということ
です
第六に、口に在っては談論し...お互いに話をするということです
第七に、手に在っては執捉(しゅうそく)し...物を掴む、握るということです
第八に、足に在っては運奔(うんぽん)す...足を運ぶということです
「識る者」は此れを「仏性」と知り、「識らざる者」は喚んで精魂(せいこん)
と作(な)す
要は「法(道)」というものは、知(識)るとか知(識)らないという人間(にん
げん)の意識(考え方)を越えたところにあるということを「理」として
十分承知していないといけないのです。
今、今です。
「今」に満足しなければならないのです。
絶えず外に向かって自分の考えを働かせる人が非常に多いと思います。
しかし、十分承知をしていながらもその道理を掴んで、その道理に因って
自分自身を当てはめようとするから、道理から離れることが出来なくなっ
てしまう訳です。
ですから、善くても悪くても「今」で足りるのです。
「今の事実」です。
この外にないのです。
更に別の観点から「三つの考え方」について言えば、一つ目は「色々と
知(識)らないものが有(在)るから、坐って知(識)らなければならない」。
二つ目は「じぶんは知(識)り過ぎているからそういうものを離さなければ
ならない」。
三つ目は「現在の自分の様子は不完全だから完全なものへと移り変わって
行かなければならない」。
そのように知(識)らないものから知(識)るものへ行く途中とか、「法(道)」
の中にいるのだから、知(識)っているものを離すとか、常に不完全から
完全に移り変わろうとする過程にあると考えている人が多くいます。
そういう人達は絶えず「出発とゴールの二点の間を行きつ戻りつしている」
という状態なのではないでしょうか。
多くの人がみんな教えの中で「分かった、分からない」とか「悟った、悟
らない」ということを言われるのでなかなか「法(道)」に到ることが出来
ないのです。
「法(道)」とは「教え」という範疇で分かった分からない、悟った悟らな
いという事に終始するものではないことを先ず「理」として十分に理解し
なければなりません。
このことを禅宗の特色である「教外別伝(きょうげべつでん)の法」といい
ます。