活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

人の世 1

2015年03月10日 | 仏教
“わかる・わからない、信じる・信じられない、正しい・正しくない、合う・合わない、善い・悪い、好き・嫌い、許す・許さない、生・死”等々。

ありとあらゆる存在はそれはそれとして存在しているだけで、あり続けているのです。


存在そのものは何ものでもありません。自分は何様でも、何ものでもないのです。

自分がありとあらゆるものとの、結び目を無くするように努めていくことが修行の要です。

素朴な疑問

2015年03月09日 | 法理
私は、折に触れて「道」を求める上での質問を受けることがあります。

次のように考える方や傾向が多いように感じます。


1. 今、今がいちいち結果であると示すと、いつでもどこでも、何をしていても結果だろうという事で、安易に自己満足の状態で終わってしまう。

2. 信仰は、例えばキリスト教の教えに求める。しかし、修行は東洋の「道」に求める。

3. 「道」を宗教とは別のものだと思っている。

4. 「そのまま」と言えば「このままでいいのか」という考えを起こす。

5. 「今の事実」に善悪はないと言えば「そんなことはない。悪いものがあれば、善いものがあるに違いない」という考え方を起こす。

6.「このままでいいというのなら、何故修行しなければならないのか」という疑問を起こす。

7.「私がないのに、何故自己の正体を見極めなければならないのか」という疑問を起こす。




おシャカ様をはじめ覚者の説かれた教えというものは、「人間界」を離れたところから説いているのです。

それを「人間界の見(けん)」を立てて、読んだり聞いたりして解釈すれば大きな誤りが生じます。


「人間界の衆生」が求める「道」と、人類史上始めて「覚者(ブッダ)」になられた おシャカ様の「道」とでは比較にならないのです。

「人の言葉の中での修行」、「自分の考えを先に入れて考える習慣」があるのでは「自分の考えを起こす以前の状態」を気付けません。


「わからない事が知りたい」という事だけでは「問題が自分の問題になっていない」という感じを受けます。


「道」とは【自分自身】の事です。

質問に答えて 4

2015年03月07日 | 法理
「覚者」は、一切の存在と自分との間に全く結び目がない状態が、本来の自己の姿であると説いています。

ですから、“修行の結果”、自分は悟りを開きました、“修行の結果”、自己に目覚めましたというのは、未だ本当ではないということです。

「修行の結果」というものがあってはいけないのです。

ですから、よく云われるように、その時に何々の経験をしたとか、宗教的な体験をした、神秘的な体験をした、宗教的な何々を得たという経験ではありません。

修行する以前から、自分というものは本当にすべてのものと結び目のない状態にあったという事に、自分が目覚めることです。


なぜ、「覚者」の教えが正しいといえるのかといいますと、私達自らが「正しい教えである」と「証明」することが出来る教えだからです。

それでは誰が「正しいと証明」するかという事が問題になってきます。

それは【皆さん自身】が「証明」するのです。

弟子が師匠の「道」を「証明」するという事です。


理論上では誰もその正しさを「証明」することは出来ません。

それが学問の限界なのです。

これが「覚者」の示された「活かして生きる (道) 」です。

「道」は、“知にも属せず不知にも属せず ” というところです。


質問に答えて 3

2015年03月06日 | 法理
解釈や意味、意義をつけて納得するという作業は、潜在意識 (記憶) に操作されているのです。

大切なことは「わかろうとしないこと」「手放すこと」です。

あるけれども実体がないということが、人も含めて万物の様子なのです。


問題は「自分」というものを土台にした考え方です。

もともと「自分」と認めるものは存在しないから、〈ある〉と思っているのは間違いなのです。

ですから、間違いの上に立った考えというものは、すべて間違いです。


「今の事実」とは、「今の事実」という言葉はあっても実体はありません。

「今の事実」という言葉を使いながらも、実体のない「今の事実」というものを自分のものにする以外に「道」はないのです。


自分で自分を認めて、考えを巡らして、“善い方”に “善い方” にと自分を向上していこうとするようなことは【実は間違いです】。


「覚者」の願いは、救いを求めて集まった人たちが、自らが「覚者」になる「道」を歩み、それぞれが「覚者」になってもらうことだったのです。

質問に答えて 2

2015年03月05日 | 法理
「道」と名の付くものは悉く、「自分を滅する」一つの方法としてある訳です。

確かにそういう「道」によって「自分を滅する事」が出来る。

「道」とはそういうものですけれども、肝心の「指導者」が少ない。

私が「末法」を深く感じるところです。

その為に「道」はあってもどのようにして「道」に到達するという「方法とか手段」が教えられていないという非常に寂しい事情があります。


故人曰く、“人の不幸は早く人の師となるより甚だしきはなし” と。

自分で腑に落ちていないのに、それが自分のものの様に、事実であるかのように話すことは注意が必要です。

自分で実感してないことを知ったかぶりしないこと。そうでないと知識が智慧になっていかない。

「無知の知」の大切なところです。


刑 期 干 無 刑 (けいはけいなきをきす)

刑罰は、刑罰を用いないですむようにすることを目的としているのです。

人としてその国に住んでいる以上、その国の刑法に従うのは当然です。


日常において「刑法」「道」を意識して生活している人は、誰一人としておりません。

「あってもなきがごとし」とはそういうことです。


折に触れて「戒」については論を進めていきたく思います。

質問に答えて 1

2015年03月04日 | 法理
「分からない」ということについて、「このことは分かるけれども、このことは分からない。このことは半分分かる、このことはすべて分かる」というようなことは、本当ではありません。

「道」を求める人の心得として、「すべて分からない」ところから始めないと、いたずらに言葉数が多くなってくるということです。

私達は生まれてきた時に、何かしら目的を持って生まれてきたのではありません。

物心つく以前の自分がある時に「自分」を認めて、色々な考えを起こしたのです。

その全部が「自分」の所産なのです。「自分」の作るところなのです。

ですから、どうしてもその「自分の正体」というものを見極めないと「自分立場」というものを離れることは出来ないのです。


私達の本来の生活というものは “いつ、どこで、何をしていても” 「ものと一つになって」いなければならないのです。

「道」もなければ「法」もない世界が、いわゆる「今」という時です。「今の事実」です。


その「今」という、時間も場所も距離もない、その事実が「本来の自分の生活」です。

そういう何もない事実が「縁」により、ある時は「人」となり、又ある時は「山」となったりしているのです。

「縁」によってものが生じ、「縁」によってものが滅していくのです。

これが「正道 (しょうどう)」です。


そもそも我々は、「思考の次元」の中にはいないという「事実」に気付くべきです。

我々は「今」に存在している「今」から離れたことはありません。

「今」以外に存在することは出来ません。

ただその「自覚」失っているのです。



相違について 5

2015年03月03日 | 法理
何千何万という数の宗教 (教え) がある。

それぞれその教えを信じてやっておられると思う。


私は、そういうことを否定する訳ではない。

自分の信じる宗教 (教え) の中で、私が申し上げているような「活かして生きる “道”」を取り入れて頂ければ、みんな【道にひとつ】になると思うのだ。


そして、皆それぞれの宗教の教えによって、本当に平和な自由な人になれるということだ。

どうか充実した【生活】を送っていただきたいと切に願う。



存在の発生の元は何だろうと考えてもわからない。

何故なら「ない」からだ。

自分がみんなつくっているからだ。


結果は一つしかない。

「今の事実」、「今の自分の様子」、「今」を【自分のものにする】かどうかの問題だけだ。

我 (が) 無くては成らず、在ってはならない道理。

相違について 4

2015年03月02日 | 法理
そもそも「平和」というのは、一つにならなければ本当に「平和」にはならない。

「相対的な人の考えでつくった約束事」で「平和」だということであれば、いつか壊れることがある。

「永遠に続く(平和)」というものはないわけだ。


一つにならない限りは本当の「平和、永遠」というものはない。


極端な話をすると、戦争の時は人を殺すことが「善」になり、平和な時はそれが「悪」になる。

戦いというのが、全部「聖戦」になっている。

「悪い戦争」をしている人は、一人もいない。

全部「いい戦争」をしていることになっている。


「絶対」というものは【自分】しかないのだ。

それに「神」までもいては、とんでもない話になる。

自分がしっかりしなければいけないところだ。


「神」がある以上、「絶対のものは【自分】だ 」ということに気がつかない。

自覚というものは、教わるものではなく、自分でやらなければならない。


覚者の教えは、「人の考えを離れたところ」から説いている。

それを「人の教え」で読んだり聞いたりして解釈されてきたことで、大きな「相違」が出来てしまった。


一度、【自分の考えを離れた自分】を 自覚する必要がある。

相違について 3

2015年03月01日 | 法理
人の考える「ない」ということは、「ある」ということに対しての「ない」だ。

そもそも人間がどうして出来たということは、誰にもわからない。

わからないのに「物心」がついてから、「これが自分だ」と思い込んでしまったところから【すべて自分が『基準』】になってしまった。

そして、活かして生きる 「道」の他に【人の考えた「道」】が出来てしまった。


言葉や文章にあらわせば、必ず何か出てくる。

「こうしなければならない、ああしなければならない」と。


一度自分の中で「正しい教え」というものに疑いを持って頂きたい。

自分の考えでつくった「道」を自分でいいと思ったり、自分でよしとしているだけでは駄目なのだ。