活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

迷いを離れた世界

2015年03月20日 | 仏教
先般、迷いを離れた四つの世界があることを説明しました。

すなわち、「仏界、菩薩界、声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界」です。


1. 縁覚界 ー 縁起の法を信じている世界

2.声聞界 ー 自分の利益だけを考えている世界

3.菩薩界 ー 仏の教えを行ずる世界

4.仏界 ー 仏の世界


1.2.に属する衆生は信じる度合いが強い為、迷いの世界には落ちません。しかし、未だ信じるものが残る(信じたものが在る)状態です。

3.に属する衆生は、人々の救済のみに生涯を過ごす衆生です。しかし、これも【人々の救済】という、いまだそこに助けなければならない【相手】が在る状態です。

4.の世界は、全てのものに対して一切手を下すことのない(なにもしない)世界です。「仏」とは「ものの本質」を言います。すなわち、仏の世界とは「本質だけの世界」です。


先般、衆生は縁に因って何にでもなれると説明しました。

しかし、普通の人間(にんげん) の求めているものは、この十界(仏界、菩薩界、声聞界、縁覚界、天上界、人間界、修羅界、餓鬼界、畜生界、地獄界)の内の「天上界」です。


例えば「天上界」でも、始終とどまらない六道なのですから、喜びの世界の中に居続けることは出来ません。俗に言う「果報が尽きる」ということです。

ですから私達は、良い縁に遇って修行しなければならない道理があるのです。


「仏」になるべき性質を持っていても、良い縁に遇わなければ「修羅、餓鬼、畜生、地獄」の世界に低迷しなければならないのです。

これを因縁説 (いんねんせつ) と言っています。




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彼岸について 2

2015年03月19日 | 仏教
「彼岸(ひがん)」に対して「此岸(しがん)」というものがあります。

一般には、こちらの岸(此岸、今) が現実の迷いの世界で、彼の岸(彼岸) に悟りがあるようにとらえられています。

しかし、そうではありません。


私達はいつでも「彼岸」という結果 (悟り) にいるのだという事です。

ところが、私達は今自分が「彼岸」にいるという事をどうしても信じる事が出来ないものです。



「覚者」は「あなた達はもうすでに、いつでも彼岸に到っているのです。【今が彼岸】なのだから、今の他に彼岸を求めてはいけません。」と、話しているのです。

しかし、私達は「今、すでに彼岸にいる」という事を、なかなか信じることが出来ないものです。

何故かというと「自我」というものがあるからです。





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彼岸について 1

2015年03月18日 | 仏教
彼岸とは仏教用語です。

広辞苑によれば、

ひがん [ 彼岸 ] (仏) 河の向こう岸。生死の海を渡って到達する終局。理想、悟りの世界。涅槃。⇔此岸(しがん)

と、表記されています。


しかし、こちらの岸(此岸) と、あちらの岸(彼岸) というものをたてることは間違いです。

彼岸とは、正しくは「到彼岸、事究竟 (とうひがん、じくぎょう)」といいます。

「事究竟」とは、「事がそれで終わっていること」ということです。


本来、私達の日常生活は「事がそれで終わっている」ということでないと、本当ではありません。


「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。

「未熟だから完成させよう」と、考えるのは間違いです。

皆それぞれに一杯一杯なのです。


しかし、私達は理屈ではわかっていても「事実」がなかなか伴わないものです。

そこで【やむおえず】修行する必要があるのです。


「修行するということ」は、「傷をつけるということ」です。

本来、傷がつくべきものではないのに、自ら傷をつけて修行するのです。


もう一度言います。

【「やむおえず」修行しなければ「彼岸」の意味は分かりません。】


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正 (しょう) について

2015年03月17日 | 法理
正とは、一という字と、止という字から成り立っています。

一「ひとつ」を守って、止(とど) まるという意味です。

止まるとは、成り切る事です。

おシャカ様の説かれた八正道 (はっしょうどう) の中の一つ「正見 (しょうけん)」を例にとれば、見るものそのものに成り切ってしまうという事です。

それが正道の世界に至る正しい「道」なのです。





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自我について

2015年03月16日 | 仏教
私達は、自分は生まれた時から、もうすでに「太郎」とか「花子」という名前がついているように考えています。

しかし、「太郎」や「花子」という名前は後からつけられた「象徴」にすぎません。


生まれたことを知らない自分。

いつの間にか「太郎」や「花子」と名前をつけられている自分を自分だと思っている自分。

その自分と自分の、二人三脚の生活を送っているのです。


「象徴」にすぎない「太郎」「花子」を認める心の働きを【自我】と言います。





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衆生(しゅじょう)について1

2015年03月15日 | 法理

衆生(しゅじょう) とは、仏教語であり、広辞苑によれば、

しゅじょう (衆生) [仏] いのちあるもの。生きとし生けるもの。一切の生物。一切の人類や動物。六道を輪廻する存在。有情(うじょう)。

と、記されています。


私達は、元々一つの種があって、それから生まれてきたものではありません。

ものの実体というものは、色々なものが集まって出来たものですから、元々あるはずがないのです。


「此の物 (このもの)」というのが一番適切な表現だと思います。

私達は、「此の物」を「人」と言いますが、「此の物」は「人」ではありません。

「衆生」なのです。つまり、本来「すべてのものと同じ」なのです。

「人」と認めようのないものです。

始終変化し続けている訳ですから、実体が無いということです。

ある時は縁に応じて色々なものに姿や形が変化するということです。


有名な御言葉を紹介します。

“衆生本来仏なり”


私達は本来「仏」そのものであり、それは「今の自分自身」であるという事です。

ですから、もっと大きく活かして生きなさい と言っているのです。

おシャカ様の教えの中で言う「仏」というのは、人間 (仏教では“じんかん”と言います) の世界の中でなければ生まれて来ないという事です。


「此の物が此の物」に成った時、「衆生が衆生」に成った時を「成仏 (じょうぶつ)」、「成道 (じょうどう)」、「仏」と言います。

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人の世 5 ~善因善果~

2015年03月14日 | 仏教
迷いの世界を離れた世界があります。

「仏界、菩薩界、声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界」です。

階級があるわけではありません。

ものは、いつでも同じ状態にあり得ませんから、私達は修行によって「仏界、菩薩界」に入ることが出来るのです。


善因善果と云って、善い縁に会えば「仏界、菩薩界」に生じる事が出来ます。

又、悪因悪果と云って、悪い縁に会えば「地獄、餓鬼、畜生、修羅」という状態に堕ちなければなりません。

ですから、出来るだけ善い縁に会うように努めなければいけないという事です。




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人の世 4 ~六道輪廻~

2015年03月13日 | 仏教

「迷いの世界」を六道と言い、その六道をぐるぐる巡っていることを「六道輪廻 (りくどうりんね)」と言います。

六道とは、次のような世界の事です。

1・天上界......幸せだけあって苦しみのない世界。地獄界の反対です。

2・人間界......悩んだり、安心したり、悲しんだり、喜んだりの生活を繰り返している世界。

3・修羅界......争いの世界。戦争は修羅の世界と言えます。

4・畜生界......ものの道理が理解出来ない自分本位の世界。

5・餓鬼界......満たされない状態。すなわち満足ということが無い世界。

6・地獄界......苦しいということだけの世界。天上界の反対です。


多くの人は死後の世界のように想像していますが、実際は現実の私達の「今の生活」そのものを言っているのです。

私達の目の前にある一切が縁によって生じ、縁によって滅する、その繰り返しです。

私達すべてが縁によって成り立っているものですから、修行することによって「覚者」にもなれれば「地獄、餓鬼、畜生」にも堕してしまうこともあるということです。

何か ふとした縁によって、修羅になったり地獄の人になったりするということは、当然のことなのです。


ですから、「活かして生きる(道)」という縁に会うことによって「道の人」に成るべく努めて精進していただければ「迷いの世界」、「六道輪廻」から離れる事が出来る道理なのです。


私達の一日を振り返っても、私達はいつでも同じ状態にはあり得ません。

縁によって自由自在に天上界から地獄界までを輪廻転生 (りんねてんしょう) しているという事です。


私達は「自分が認めたもの」によって様々な考えを起こしながら、その考えを自分自身で処理 (解決) することが出来ません。

何故なら、「他からの縁によって」自分が苦しめられているのだという考えから離れることが出来ないからです。


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人の世 3

2015年03月12日 | 仏教

人の世に正しいもの、真実のものがあるのだろうかという考え方を起こしたとします。

何か正しいものがあるのではないだろうか、という「ものの見方・考え方」。

その、「ものの見方・考え方」を対象として、又更に「ものの見方・考え方」を起こすという事を知っておいて頂きたく思います。


意識とは働きです。

「人」の中にあるものではありません。

「人」というものは、【自分が認めた存在】なのです。

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人の世 2

2015年03月11日 | 仏教
「真」といのは、「今の自分の状態」です。

仮にそれがどんな状態であっても「真実」なのです。

ただ、自分がそれを「真実」だと気が付かない為に、他に求めてしまうのです。


今の状態の他に「真実」というものは、あるはずがないのです。

そういう「見 (けん)」という、自分を中心としたのものの見方・考え方を除きさえすれば、そこには「真」だけしかありません。


ですから、自分を中心としたものの見方・考え方をやめさえすれば「真」を求めようと思わなくても、自ずから「真」が現前している訳です。