「分からない」ということについて、「このことは分かるけれども、このことは分からない。このことは半分分かる、このことはすべて分かる」というようなことは、本当ではありません。
「道」を求める人の心得として、「すべて分からない」ところから始めないと、いたずらに言葉数が多くなってくるということです。
私達は生まれてきた時に、何かしら目的を持って生まれてきたのではありません。
物心つく以前の自分がある時に「自分」を認めて、色々な考えを起こしたのです。
その全部が「自分」の所産なのです。「自分」の作るところなのです。
ですから、どうしてもその「自分の正体」というものを見極めないと「自分立場」というものを離れることは出来ないのです。
私達の本来の生活というものは “いつ、どこで、何をしていても” 「ものと一つになって」いなければならないのです。
「道」もなければ「法」もない世界が、いわゆる「今」という時です。「今の事実」です。
その「今」という、時間も場所も距離もない、その事実が「本来の自分の生活」です。
そういう何もない事実が「縁」により、ある時は「人」となり、又ある時は「山」となったりしているのです。
「縁」によってものが生じ、「縁」によってものが滅していくのです。
これが「正道 (しょうどう)」です。
そもそも我々は、「思考の次元」の中にはいないという「事実」に気付くべきです。
我々は「今」に存在している「今」から離れたことはありません。
「今」以外に存在することは出来ません。
ただその「自覚」失っているのです。
「道」を求める人の心得として、「すべて分からない」ところから始めないと、いたずらに言葉数が多くなってくるということです。
私達は生まれてきた時に、何かしら目的を持って生まれてきたのではありません。
物心つく以前の自分がある時に「自分」を認めて、色々な考えを起こしたのです。
その全部が「自分」の所産なのです。「自分」の作るところなのです。
ですから、どうしてもその「自分の正体」というものを見極めないと「自分立場」というものを離れることは出来ないのです。
私達の本来の生活というものは “いつ、どこで、何をしていても” 「ものと一つになって」いなければならないのです。
「道」もなければ「法」もない世界が、いわゆる「今」という時です。「今の事実」です。
その「今」という、時間も場所も距離もない、その事実が「本来の自分の生活」です。
そういう何もない事実が「縁」により、ある時は「人」となり、又ある時は「山」となったりしているのです。
「縁」によってものが生じ、「縁」によってものが滅していくのです。
これが「正道 (しょうどう)」です。
そもそも我々は、「思考の次元」の中にはいないという「事実」に気付くべきです。
我々は「今」に存在している「今」から離れたことはありません。
「今」以外に存在することは出来ません。
ただその「自覚」失っているのです。