活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

質問に答えて 1

2015年03月04日 | 法理
「分からない」ということについて、「このことは分かるけれども、このことは分からない。このことは半分分かる、このことはすべて分かる」というようなことは、本当ではありません。

「道」を求める人の心得として、「すべて分からない」ところから始めないと、いたずらに言葉数が多くなってくるということです。

私達は生まれてきた時に、何かしら目的を持って生まれてきたのではありません。

物心つく以前の自分がある時に「自分」を認めて、色々な考えを起こしたのです。

その全部が「自分」の所産なのです。「自分」の作るところなのです。

ですから、どうしてもその「自分の正体」というものを見極めないと「自分立場」というものを離れることは出来ないのです。


私達の本来の生活というものは “いつ、どこで、何をしていても” 「ものと一つになって」いなければならないのです。

「道」もなければ「法」もない世界が、いわゆる「今」という時です。「今の事実」です。


その「今」という、時間も場所も距離もない、その事実が「本来の自分の生活」です。

そういう何もない事実が「縁」により、ある時は「人」となり、又ある時は「山」となったりしているのです。

「縁」によってものが生じ、「縁」によってものが滅していくのです。

これが「正道 (しょうどう)」です。


そもそも我々は、「思考の次元」の中にはいないという「事実」に気付くべきです。

我々は「今」に存在している「今」から離れたことはありません。

「今」以外に存在することは出来ません。

ただその「自覚」失っているのです。



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