そもそも「平和」というのは、一つにならなければ本当に「平和」にはならない。
「相対的な人の考えでつくった約束事」で「平和」だということであれば、いつか壊れることがある。
「永遠に続く(平和)」というものはないわけだ。
一つにならない限りは本当の「平和、永遠」というものはない。
極端な話をすると、戦争の時は人を殺すことが「善」になり、平和な時はそれが「悪」になる。
戦いというのが、全部「聖戦」になっている。
「悪い戦争」をしている人は、一人もいない。
全部「いい戦争」をしていることになっている。
「絶対」というものは【自分】しかないのだ。
それに「神」までもいては、とんでもない話になる。
自分がしっかりしなければいけないところだ。
「神」がある以上、「絶対のものは【自分】だ 」ということに気がつかない。
自覚というものは、教わるものではなく、自分でやらなければならない。
覚者の教えは、「人の考えを離れたところ」から説いている。
それを「人の教え」で読んだり聞いたりして解釈されてきたことで、大きな「相違」が出来てしまった。
一度、【自分の考えを離れた自分】を 自覚する必要がある。
「相対的な人の考えでつくった約束事」で「平和」だということであれば、いつか壊れることがある。
「永遠に続く(平和)」というものはないわけだ。
一つにならない限りは本当の「平和、永遠」というものはない。
極端な話をすると、戦争の時は人を殺すことが「善」になり、平和な時はそれが「悪」になる。
戦いというのが、全部「聖戦」になっている。
「悪い戦争」をしている人は、一人もいない。
全部「いい戦争」をしていることになっている。
「絶対」というものは【自分】しかないのだ。
それに「神」までもいては、とんでもない話になる。
自分がしっかりしなければいけないところだ。
「神」がある以上、「絶対のものは【自分】だ 」ということに気がつかない。
自覚というものは、教わるものではなく、自分でやらなければならない。
覚者の教えは、「人の考えを離れたところ」から説いている。
それを「人の教え」で読んだり聞いたりして解釈されてきたことで、大きな「相違」が出来てしまった。
一度、【自分の考えを離れた自分】を 自覚する必要がある。
しかしながら心の癖を修復するのが人生であれば、真の平和は恐らく実現不可能かと思えています。
だからこそ私たちは規律により、平和構築に努めて生きようとしています。
善悪の基準につきまして、個人が取り違うために必要ないものとする話にあるかと存じますが、人を殺すことが「善」であると認識してしまうこと自体が、そもそもの言語表現の相違と違和感です。
元来善悪という言語は、平和目的に必要とされて来た言葉のはずでありまして、人類規模で周知された平和目的に極めて便利な言語は意味合い的に消え失せることはありません。
また人類基準の善悪は実在しているものでありまして、例えば人類基準では殺人行為は常に「悪」なのです。
そうした戒律や規律の教えを説く手段の一つとしてある仏教と思うのです。
ですから安易に善悪がないと言われてしまえば、混乱をきたすのではないかと思われるのですが、如何思われるものでしょうか?
そのように思っております。
ありがとうございました。
そこに善悪の有無を問わない場所があり、その場所は無であり仏の境地なのでしょう。
しかし人は仏としては生きていけません。
だから善悪の有無を説くのでしょうが、無とは、それさえを問わない境地と思っています。
完全な無と思える癖のない強靭な心を体得したとき、欲望があっては無ではありません。
各々の生かされる環境で生きて、その御縁により事象が引き起こされます。
私は善悪がないとあれば、善悪があるとしなければなりません。
過去と結果には拘りません。知識として残るだけです。
人生を噛み締め理解するために生き、生き続けている人間なのです。
仏ではなく、今を生きる人間なのです。
ご理解くだされば、大変に幸甚に思うことでございます。
この度の御縁には深謝いたしております。
確立した信心があるなら同意できないときでも、笑顔でさらっと受け流せるようでなければならないのでしょう。
ただ、どんなときでも自分は確りと自覚をもって確立していなければならず、それは自ずと善の姿勢にあり。
そのような善の気持ちの赴かないところに力を注ぐのは、そもそもの間違えである。
どんなときも、それができない心では未熟であるが容易いことではない。
流石に和尚は上手くかわされますが・・。
これでは、いかがでしょうか?
大変、ありがとうございました。
毎回大変勉強になっております。
今後とも宜しくお願いします。