活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

相違について 4

2015年03月02日 | 法理
そもそも「平和」というのは、一つにならなければ本当に「平和」にはならない。

「相対的な人の考えでつくった約束事」で「平和」だということであれば、いつか壊れることがある。

「永遠に続く(平和)」というものはないわけだ。


一つにならない限りは本当の「平和、永遠」というものはない。


極端な話をすると、戦争の時は人を殺すことが「善」になり、平和な時はそれが「悪」になる。

戦いというのが、全部「聖戦」になっている。

「悪い戦争」をしている人は、一人もいない。

全部「いい戦争」をしていることになっている。


「絶対」というものは【自分】しかないのだ。

それに「神」までもいては、とんでもない話になる。

自分がしっかりしなければいけないところだ。


「神」がある以上、「絶対のものは【自分】だ 」ということに気がつかない。

自覚というものは、教わるものではなく、自分でやらなければならない。


覚者の教えは、「人の考えを離れたところ」から説いている。

それを「人の教え」で読んだり聞いたりして解釈されてきたことで、大きな「相違」が出来てしまった。


一度、【自分の考えを離れた自分】を 自覚する必要がある。