「覚者」は、一切の存在と自分との間に全く結び目がない状態が、本来の自己の姿であると説いています。
ですから、“修行の結果”、自分は悟りを開きました、“修行の結果”、自己に目覚めましたというのは、未だ本当ではないということです。
「修行の結果」というものがあってはいけないのです。
ですから、よく云われるように、その時に何々の経験をしたとか、宗教的な体験をした、神秘的な体験をした、宗教的な何々を得たという経験ではありません。
修行する以前から、自分というものは本当にすべてのものと結び目のない状態にあったという事に、自分が目覚めることです。
なぜ、「覚者」の教えが正しいといえるのかといいますと、私達自らが「正しい教えである」と「証明」することが出来る教えだからです。
それでは誰が「正しいと証明」するかという事が問題になってきます。
それは【皆さん自身】が「証明」するのです。
弟子が師匠の「道」を「証明」するという事です。
理論上では誰もその正しさを「証明」することは出来ません。
それが学問の限界なのです。
これが「覚者」の示された「活かして生きる (道) 」です。
「道」は、“知にも属せず不知にも属せず ” というところです。
了
ですから、“修行の結果”、自分は悟りを開きました、“修行の結果”、自己に目覚めましたというのは、未だ本当ではないということです。
「修行の結果」というものがあってはいけないのです。
ですから、よく云われるように、その時に何々の経験をしたとか、宗教的な体験をした、神秘的な体験をした、宗教的な何々を得たという経験ではありません。
修行する以前から、自分というものは本当にすべてのものと結び目のない状態にあったという事に、自分が目覚めることです。
なぜ、「覚者」の教えが正しいといえるのかといいますと、私達自らが「正しい教えである」と「証明」することが出来る教えだからです。
それでは誰が「正しいと証明」するかという事が問題になってきます。
それは【皆さん自身】が「証明」するのです。
弟子が師匠の「道」を「証明」するという事です。
理論上では誰もその正しさを「証明」することは出来ません。
それが学問の限界なのです。
これが「覚者」の示された「活かして生きる (道) 」です。
「道」は、“知にも属せず不知にも属せず ” というところです。
了