活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

質問に答えて 2

2015年03月05日 | 法理
「道」と名の付くものは悉く、「自分を滅する」一つの方法としてある訳です。

確かにそういう「道」によって「自分を滅する事」が出来る。

「道」とはそういうものですけれども、肝心の「指導者」が少ない。

私が「末法」を深く感じるところです。

その為に「道」はあってもどのようにして「道」に到達するという「方法とか手段」が教えられていないという非常に寂しい事情があります。


故人曰く、“人の不幸は早く人の師となるより甚だしきはなし” と。

自分で腑に落ちていないのに、それが自分のものの様に、事実であるかのように話すことは注意が必要です。

自分で実感してないことを知ったかぶりしないこと。そうでないと知識が智慧になっていかない。

「無知の知」の大切なところです。


刑 期 干 無 刑 (けいはけいなきをきす)

刑罰は、刑罰を用いないですむようにすることを目的としているのです。

人としてその国に住んでいる以上、その国の刑法に従うのは当然です。


日常において「刑法」「道」を意識して生活している人は、誰一人としておりません。

「あってもなきがごとし」とはそういうことです。


折に触れて「戒」については論を進めていきたく思います。