彼岸とは仏教用語です。
広辞苑によれば、
ひがん [ 彼岸 ] (仏) 河の向こう岸。生死の海を渡って到達する終局。理想、悟りの世界。涅槃。⇔此岸(しがん)
と、表記されています。
しかし、こちらの岸(此岸) と、あちらの岸(彼岸) というものをたてることは間違いです。
彼岸とは、正しくは「到彼岸、事究竟 (とうひがん、じくぎょう)」といいます。
「事究竟」とは、「事がそれで終わっていること」ということです。
本来、私達の日常生活は「事がそれで終わっている」ということでないと、本当ではありません。
「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。
「未熟だから完成させよう」と、考えるのは間違いです。
皆それぞれに一杯一杯なのです。
しかし、私達は理屈ではわかっていても「事実」がなかなか伴わないものです。
そこで【やむおえず】修行する必要があるのです。
「修行するということ」は、「傷をつけるということ」です。
本来、傷がつくべきものではないのに、自ら傷をつけて修行するのです。
もう一度言います。
【「やむおえず」修行しなければ「彼岸」の意味は分かりません。】
精神世界ランキング
広辞苑によれば、
ひがん [ 彼岸 ] (仏) 河の向こう岸。生死の海を渡って到達する終局。理想、悟りの世界。涅槃。⇔此岸(しがん)
と、表記されています。
しかし、こちらの岸(此岸) と、あちらの岸(彼岸) というものをたてることは間違いです。
彼岸とは、正しくは「到彼岸、事究竟 (とうひがん、じくぎょう)」といいます。
「事究竟」とは、「事がそれで終わっていること」ということです。
本来、私達の日常生活は「事がそれで終わっている」ということでないと、本当ではありません。
「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。
「未熟だから完成させよう」と、考えるのは間違いです。
皆それぞれに一杯一杯なのです。
しかし、私達は理屈ではわかっていても「事実」がなかなか伴わないものです。
そこで【やむおえず】修行する必要があるのです。
「修行するということ」は、「傷をつけるということ」です。
本来、傷がつくべきものではないのに、自ら傷をつけて修行するのです。
もう一度言います。
【「やむおえず」修行しなければ「彼岸」の意味は分かりません。】
精神世界ランキング