私は、折に触れて「道」を求める上での質問を受けることがあります。
次のように考える方や傾向が多いように感じます。
1. 今、今がいちいち結果であると示すと、いつでもどこでも、何をしていても結果だろうという事で、安易に自己満足の状態で終わってしまう。
2. 信仰は、例えばキリスト教の教えに求める。しかし、修行は東洋の「道」に求める。
3. 「道」を宗教とは別のものだと思っている。
4. 「そのまま」と言えば「このままでいいのか」という考えを起こす。
5. 「今の事実」に善悪はないと言えば「そんなことはない。悪いものがあれば、善いものがあるに違いない」という考え方を起こす。
6.「このままでいいというのなら、何故修行しなければならないのか」という疑問を起こす。
7.「私がないのに、何故自己の正体を見極めなければならないのか」という疑問を起こす。
おシャカ様をはじめ覚者の説かれた教えというものは、「人間界」を離れたところから説いているのです。
それを「人間界の見(けん)」を立てて、読んだり聞いたりして解釈すれば大きな誤りが生じます。
「人間界の衆生」が求める「道」と、人類史上始めて「覚者(ブッダ)」になられた おシャカ様の「道」とでは比較にならないのです。
「人の言葉の中での修行」、「自分の考えを先に入れて考える習慣」があるのでは「自分の考えを起こす以前の状態」を気付けません。
「わからない事が知りたい」という事だけでは「問題が自分の問題になっていない」という感じを受けます。
「道」とは【自分自身】の事です。
次のように考える方や傾向が多いように感じます。
1. 今、今がいちいち結果であると示すと、いつでもどこでも、何をしていても結果だろうという事で、安易に自己満足の状態で終わってしまう。
2. 信仰は、例えばキリスト教の教えに求める。しかし、修行は東洋の「道」に求める。
3. 「道」を宗教とは別のものだと思っている。
4. 「そのまま」と言えば「このままでいいのか」という考えを起こす。
5. 「今の事実」に善悪はないと言えば「そんなことはない。悪いものがあれば、善いものがあるに違いない」という考え方を起こす。
6.「このままでいいというのなら、何故修行しなければならないのか」という疑問を起こす。
7.「私がないのに、何故自己の正体を見極めなければならないのか」という疑問を起こす。
おシャカ様をはじめ覚者の説かれた教えというものは、「人間界」を離れたところから説いているのです。
それを「人間界の見(けん)」を立てて、読んだり聞いたりして解釈すれば大きな誤りが生じます。
「人間界の衆生」が求める「道」と、人類史上始めて「覚者(ブッダ)」になられた おシャカ様の「道」とでは比較にならないのです。
「人の言葉の中での修行」、「自分の考えを先に入れて考える習慣」があるのでは「自分の考えを起こす以前の状態」を気付けません。
「わからない事が知りたい」という事だけでは「問題が自分の問題になっていない」という感じを受けます。
「道」とは【自分自身】の事です。