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今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

なぜ日本はキリスト教を拒否する(1):「家」の壁?

2017年03月07日 | キリスト教を拒否する日本
日本にキリスト教が広まらなかった理由をテーマとして扱った本を私はほとんど知らない。一冊だけ『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教』(古屋安男)というタイトルの本があり、このブログでも取り上げた(★日本がキリスト教を受け入れないのはなぜ?)が、本の一章がこのテーマを扱うのみで、しかも牧師としての布教の立場から表面的に考察しているに過ぎない。

ウェッブ上では、宗教学者の島田裕巳氏が「キリスト教が日本で広まらなかった理由」というタイトルで論じているが、それほど長い論文ではない。今回は、この論文に触れつつ考えたい。

島田氏は、「日本のキリスト教徒はカトリックとプロテスタントを合わせても百万人程度で、人口の1%にも満たない」という事実にまず触れる。イスラム教となれば、日本人の信者は一万人程度で、要するに、世界に一神教を信じる人間がこれほど少ない国はほかになく、
「日本は一神教が浸透しなかった最大の国」であると指摘する。

しかも、キリスト教系の知識人・文学者が、曽野綾子氏などを除くとほとんどいなくなった。一時は一つの文学ジャンルを形成していたキリスト教文学はほぼ消滅しつつある。キリスト教は、「日本で信者を増やせなかったばかりか、知的な世界における影響力さえ失いつつある」という。

その上で島田氏は、「なぜこれほどまでにキリスト教は日本で受け入れられなかったのか。日本のキリスト教史を考える上で、それはもっとも重要な疑問であり、課題である」という。確かにそうなのだが、私はこの問いが、日本のキリスト教史の課題に限られるものとはとても思えない。「日本とは何か」という問の根本にかかわるものだと思う。日本文化の独自性とは何かという根幹にかかわる問いなのだ。

現在の世界ではいま、経済発展の著しい国を中心にプロテスタントの福音派が信者を増やしているという。キリスト教徒が30%を占めるようになった韓国でもそうだし、中国でささえ、地下教会という形で福音派が伸びているというのだ。

ところが日本では、経済発展が目覚しかった戦後その勢力を拡大したのは、創価学会や立正佼成会など、日蓮系の新宗教だった。創価学会は、経済発展が続く国々で福音派が果たしていることと同じことをやっていった。これでは福音派が日本に入り込む余地はない。つまり日蓮系の新宗教の活躍こそが、戦後も日本にキリスト教が拡大しなかったひとつの理由だと考えているようだ。

ただ、なぜか日本にはミッション・スクールの数が多い。宗教を背景とした学校849校中、565校がキリスト教系で、全体の66.5パーセントを占めるという。しかもカトリック系の学校を中心に熱心に宗教教育が行われており、学生・生徒に礼拝への参加を義務づけているところもあるという。しかし、生徒が洗礼を受けてキリスト教徒になる例はそれほど多くはない。つまり布教には成功していないのである。
 
それはなぜか。ミッション・スクールに子どもを通わせる親は、キリスト教の信者でないことが多い。そもそも信者数が少ないからだ。つまり卒業生の多くは、家族や親族のなかにキリスト教の信者がいない。しかもミッション・スクールに子どもを行かせる家は、家族親族のつながりが強く、冠婚葬祭の機会も多い。その関係で、キリスト教の信仰をもつことが邪魔になる場合も多く出てくる。それで信者が増えていかないのかもしれないと島田氏は指摘する。

この「家」の問題こそが日本にキリスト教が広まらない大きな理由かもしれないと島田氏は考えているようだ。「明治以降、キリスト教に入信するというときに、入信者の多くは若い世代であり、彼らは、自らは信仰を得ても、それを家族にまで伝えていくということができなかった。」彼らもやがて家庭をもち、冠婚葬祭かかわれば、キリスト教は邪魔になる。「日本人の宗教が、家を単位としてきたことが、キリスト教の拡大を妨げる大きな要因になっていた面がある」と島田氏はいう。

これは確かに重要な指摘だと思う。しかし、これとても日本文化の根底に横たわる独自性まで触れた説明になっていない。私は、日本にキリスト教が広まらない理由は、このブログのテーマである「日本文化のユニークさ8項目」のほとんどにかかわる問題だと思う。島田氏は、もうひとつの理由として神道や仏教との関係を挙げているが、この問題も含めて、次回にさらに突っ込んで考えてみたい。

《関連記事》
これまでこのブログで行った「なぜ日本にキリスト教が広まらないか」についての記事については、
★「キリスト教が広まらない日本」というカテゴリーを設けている。


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マンガに救われ人生を変えたアメリカ人

2017年03月06日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『日本のことは、マンガとゲームで学びました。

前回取り上げたフランス人、トリスタン・ブルネ氏も日本のアニメやマンガに大きく影響されて人生の方向を決定づけ、やがて日本に住むようになった人だが、今回取り上げるアメリカ人、ベンジャミン・ボアズ氏もまたマンガやゲームで育ち、やがて「麻雀」に出会ってとりつかれ、大学で麻雀をテーマに研究し、日本で幅広く活躍するようになった人だ。

この本は、そんな彼がどのようにして日本のポップカルチャーにはまり日本の魅力に目覚めていったかをマンガを中心に描き、時折短いエッセイをはさんで紹介する。「日本のことはほとんどマンガやゲームで学んだ」、「ボクの血の半分は日本のポップカルチャーでできている!」と断言するほどののめり込みようだ。

なにしろ4歳でスーパーマリオにはまり、14歳で『らんま1/2』に初恋、日本語のマンガ・ゲームを楽しむために、伝統あるアメリカの高校で仲間と運動して日本語クラスを創設、そして、20歳のときチベットで麻雀と出会い、東大・京大大学院で麻雀研究論文執筆したという行動派の「オタク」だ。そのハマりようがどれほどであったか、マンガによる数々のエピソードで楽しく読める。

その中のひとつのエピソード。20歳になる前、彼は深刻な人生の谷間に落ち込んだ。両親の離婚や他にも様々な問題をかかえ、大学も休学して目的も将来も見失っていた。感情というものを失い、暗い屋根裏でひたすらゲームやマンガで過ごすゾンビのような毎日。そんなとき偶然出会ったのが、「西原理恵子先生」の『はれた日は学校をやすんで』だったという。中学生くらいの少女の話で、日本語のセリフはあまり理解できなかったけど、「この人はボクの気持ちがわかる」と、なぜか思って涙が止まらなくなった。彼は聖書のようにその本を持ち歩くようになり、犬が死んでしまう話を読む度に必ず声をあげて泣いた。この本で自分の中の「悲しい」という感情を取り戻したというのだ。

その後、危機を脱出するためチベットで一人修行したときも、そのマンガをずっと読んでいた。そのチベットで麻雀と出会い、やがて日本に来て「西原理恵子先生」のマンガを探しているとき、彼女の『まあじゃんほうろうき』を発見。そこから日本の「麻雀マンガ」というジャンルに出会い、その専門性や、麻雀がからんだ複雑なストーリー展開に驚愕する。さらに日本に「雀荘」という世界があるのを知り、あとはもうその世界にのめり込むほかなかった。復学したアメリカの大学では日本の麻雀文化をテーマに論文を仕上げ、さらに京都大学大学院でも「麻雀と社会」をテーマに研究したという。

そしてついに、人生の危機脱出のきっかけを与えてくれた「西原理恵子先生」と、ある麻雀大会で感激の対面を果たしたという。一人の日本人のマンガ家の作品が、こうして彼の人生を救い、彼の人生を決定づけていったことを思うと、なにか不思議な感じだ。ともあれ、半端なくマンガやゲームや麻雀にのめり込んだ男の半生を描くマンガは、日本のポップカルチャーの影響力を物語るひとつの例ととしても興味深い。

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アイデンティティ危機:アニメがフランスに与えた「共感」と「恐れ」(4)

2017年03月05日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす

フランス人から見た日本のイメージには両極端があるという。日本はまず遥か遠い国という圧倒的な距離を感じさせるが、その距離は良い方にも悪い方にも作用する。良い方に転じたとき、日本はとてもエキゾティックで、自分たちとは異なる価値観や深い文化を持った国と見える。浮世絵に触発されてジャポニズムがフランスを席巻した背景にはそれがあり、そのイメージは今に引き継がれているだろう。

他方、その距離感が悪い方に転じると、自分たちには理解できない不気味な国となる。日本を非人間的な国と感じる人は、著者が子どものころにもかなりいて、日本人はロボットみたいに感情がないとうステロタイプの偏見がとても強かったという。こうした否定的な印象と深い文化を持つ国という肯定的な印象とが状況毎に入れ替わるのが一般的なフランス人だという。ジャパンバッシングは、その否定的なイメージが前面に出た事件だったともいえよう。

ところで、これまで見てきたように日本のアニメやマンガは、かつてフランスに存在しなかった価値観や世界観を読者に与えたからこそ支持され、共感されてきた。しかしそれは、フランス社会に馴染むことのできない若者たちの格好の避難場所にもなっているのではないか。毎年パリで盛大に催され近年は20万人を超える来場者がある「ジャパンエキスポ」は、日本でもよく知られるようになった。そこに集まる若い世代は、コスプレやヴィジュアル系の格好など何の躊躇もなく楽しみ、無批判に日本のマネをしていると著者はいう。

日本人の場合は、「オタク」であろうと日本人であることに変わりなく、日本の中でほとんど無自覚にそのアイデンティティを保つことができる。むしろ「こんな作品が読める国に生まれてよかった」と自分のナショナル・アイデンティティを強化することもありうる。

しかしフランスのオタクは、オタクであることによってフランスという文化秩序の外に出てしまう可能性がある。日本人は日本のサブカルチャーにどっぷり浸かってもアイデンティティ危機には陥らないけれど、フランス人の場合はそれがアイデンティティの危機を招くこともあるというのだ。「ジャパンエキスポ」などで無邪気に得意げにコスプレする若者には、一種の逆ナショナリズムの態度があるのではないか。フランスの価値観に合わなければ日本に合わせ、日本にどっぷり浸かればいい。そう思うことでそこを避難場所にし、依存する。日本の過度な理想化には、フランス社会に居場所がない若者たちのアイデンティティの危機という問題が潜んでいるのではないか。

著者自身、これは少し大げさな見方かも知れないと断っているが、逆にいえばそういう危惧を感じざるを得ないほどに、日本のサブカルチャーの影響が大きくなっているということだ。これはフランス国内の問題だと片付けることもできるが、私たちにとって大切なのは、この問題も含めて全体として日本のアニメやマンガがフランスや世界にどれほど大きな影響を与えているかを、過大にも過小にも偏らずに理解することだと思う。この本は、フランスのオタク第一世代を自認し歴史家としての分析力を持つ著者が、自分のアニメ体験とフランス全体での出来事を適度に交差させつつ広い視野から語っており、その意味でも重要だと思う。

本ブログでは、日本のマンガ・アニメの発信力の理由を以下の視点から考えてきた。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが豊かな想像力を刺激し、作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の独自性。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

⑤知的エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

今回取り上げた本は、日本のアニメやマンガのとくに上の④や⑤に関係する特徴を著者の体験を踏まえつつ語っている。日本の巨大な庶民階層の価値観とは、契約よりも信頼を重視し、敵対する相手にも何かしら共感し和解し合える要素を見出そうとするものであり、フランスの子供や若者は、そうした価値観が反映したアニメやマンガに、自国の作品に感じ得ない「共感」を見出したのであった。

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移民とつながる:アニメがフランスに与えた「共感」と「恐れ」(3)

2017年02月28日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす

1990年代中ごろから、日本アニメへの激しいバッシングによってアニメ放映量は激減する。バッシングの背後には、日本のアニメがフランスや西洋の価値観を脅かすという一種の「恐れ」があった。それほどに子供たちの日本アニメへの親近感は一般的なものになっており、フランスの若年層のアイデンティティ形成に無視できない影響を与えていた。日本アニメのヒーローは、フランスの作品にない独特の親近感をもって子供たちの世界や人間関係、価値観を変えていたのだ。

ところでバッシングによって日本のアニメが放送されなくなると、アニメファンはテレビから離れ、自分たちから積極的に作品を探し始めた。そしてファン同士のネットワー作りやコンテンツを輸入する出版社への要求が高まり、それらが組織化・現実化し,次第に大規模になっていった。

さらにテレビアニメが減るのと並行して、それに代わるもうひとつの巨大市場がフランスに誕生する。それは日本マンガだ。93年にはメジャー出版社から「ドラゴンボール」のフランス語版マンガが刊行され大人気となった。テレビに自動的に流れていたアニメを見ることができなくなり、それなら原作マンガを読んだ方がよいと自分から探すようになったのだ。

フランスにも「バンドデシネ」(BD)と呼ばれるマンガの伝統があったが、幼児向けか芸術的な大人向けが主流で、少年少女向けが抜けていた。その市場の溝に日本のマンガが広がった。アニメを奪われて作品に飢えていた少年少女たちが熱狂したのも当然だ。そして、それまでテレビから流れるアニメを受身で見ていたファンたちは、自分で作品を選び、購入したり輸入したりする積極的な消費者になっていった。

さて、こうしてフランスに広がった日本のアニメやマンガは、日本では想像できないようなある「働き」をなしていた。著者が生まれ育ったのは、パリの東に位置するトロシーというニュータウンだったが、ここはフランスの中間層と他国からの移民を融和させよういう国の政策が絡んで生まれた街だったという。それで彼の通った小学校は生徒の3分の1ほどが移民の子供で、他地域に比べ大きな割合だった。しかしそんな政策とは裏腹に自分の子供は移民と関わらせたくない親が多かった。

子ども同士は、ときにケンカをしてもそれほど移民を気にしていたわけではないが、移民を気にする親たちのギスギスした意識があり、子どももどこかでそれを感じていた。そんな中で、出身や人種の違いをまったく感じさせずに友人と語り合える話題が、日本のアニメだったというのだ。それを話しているときは、彼らへの恐れは乗り越えられていたと著者はいう。

そんな経験は、著者だけではなくフランスのあちこちで起きていたはずだという。たとえば彼の友人のアレクシーは、中学生のときに一人の移民系の「不良」に声を掛けられた。その彼に「ドラゴンボールの専門家は君だろう?」とストーリーの続きを質問され、びっくりしたけど、妙に自慢げな気持ちになったという。人種や世代を超えてこうした関わりを可能にしたのは、日本のサブカルチャーがもつ「共感」的な世界観だっただろう。アニメを通じて、自分が属する社会の価値観を乗り越えた人と人との関係の可能性が感じられる。移民問題に悩むフランスにとって、アニメやマンガのもつこの生産的な側面は意外と重要な意味をもっているのではないかと著者は考えている。

一方で、フランスの少年少女たちが、フランスではなく日本のアニメやマンガに親しみを感じ夢中になり、アイデンティティ形成にまで影響を与えるようになると、日本では生まれ得ない問題も生まれると著者はいう。次回はこの問題を考えてみよう。

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日本の価値観の魅力:アニメがフランスに与えた「共感」と「恐れ」(2)

2017年02月26日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす

前回触れたように1978年にフランスのTVで「UFOグレンダイザー」が始まると爆発的な人気となった。それはなぜだったのか。日本では「マジンガーZ」ほどはヒットしなかった「グレンダイザー」がフランスで大ヒットとなったのは、登場人物へのフランス流の命名の工夫などの小さな改変が効果的に働いたというフランス側の要因もあったようだ。

しかし著者がとくに関心をだくのは、日本のアニメ「グレンダイザー」のストーリーがフランス国内やアメリカで作られた作品と根本的に違うという点だった。それはこの作品が見る者にもたらす感情的な没入感の強さ、一言でいうと「共感」できる度合いの強さだったと著者はいう。

それまでのフランスの子供向けアニメは、善人と悪人がはっきりしていて、親の代わりに物事の是非を教訓的に教えるような構造のものが多かった。ところが「グレンダイザー」では、登場人物らの意味や役割は固定的ではなく、ケンカ相手が親友になったり競争相手になったりして、その関係がつねに揺れ動く。

そして悪役さえ共感の余地が残されていた。悪人だがその人間性に共感できる人物、あるいは自分なりの理想を求める人物として描かれていった。「グレンダイザー」ではないが、「機動戦士ガンダム」の中の、敵でもあり英雄でもあるシャア・アズナブルがその代表だろう。

また主人公の設定も複雑で「グレンダイザー」のデュークは、自分の星から地球に来るとき、自分以外の星の住民はみな殺されて自分だけが生き残ったが、自分も重い死の病いを抱えるという運命を背負っている。見るものが自分のことのように「共感」できる主人公は、それ以前のフランスのアニメにはなかったという。

日本の多くのアニメは多かれ少なかれ、見るものを「共感」させる同様の力をもっていた。悪人さえも、もしかしたら友人になれたかもしれない人間性をもって描かれる。それらは、フランスの作品とは世界観が根本的に異なっていたのだ。

日本の製作者は日本の子供向けに作ったのであり、海外でどんな反応を得るかを作る段階で意識してはいない。しかしフランスの子供たちは、その日本的な世界観と物語に深く「共感」してしまった。それは、フランス社会にはこれまでなかった世界観だった。日本アニメへのバッシングは政治的なかけひきと絡み合って利用された面もあるが、その背景には、従来の西欧にはなかった異質の世界観に子供たちが没入していくことへの、フランスの大人たちの恐れがあったのではないかと著者は見る。

フランス社会は、ルソーの社会契約説やフランス革命以来、「個人の権利」という考え方を国の根幹に据える。自分にも他者にも個人の権利があるから、相手の権利を傷つけないかぎり自分を主張する自由と権利があるが、自分の権利を侵かそうとするものは、はっきりと「敵」とみなされる。そうであればたとえ王であろうと敵として断罪される。

ところが日本では、権利の主張よりも共感の雰囲気を重視し、共感への信頼によってコミュニケーションを作り上げようとする。他者との共感をベースに社会を成り立たせる日本人は、敵役にも共感できる側面を含ませ、それが自ずと物語の魅力や深みになるのだが、それは元来日本人がもっている世界観や価値観の反映である。日本人は「個人の権利意識が希薄だ」とよく言われるが、逆にフランス人は権利意識を主張しあうことにプレッシャーを感じており、日本人の価値観が新鮮に映るのかもしれない。

フランスのように個人同士も契約関係を基盤にする社会では、日本アニメのような共感をベースにする物語は圧倒的に異物であり、しかしだからこそ共感や感動の度合いが深く、面白かったのだと著者はいう。それはフランスや西欧世界が持つ世界観の欠陥を埋め合わせ、フランス人のアイデンティティーの欠けた部分を補う働きをもった。だからフランス人は、日本のアニメを見てある意味でホッとしたのだという。

以上の見方は、フランス人「オタク」の第一世代を自認する著者が日本アニメを夢中で見ながら育った体験を踏まえているので重みがある。しかし著者を含めた新世代の子供たちがアニメに夢中になればなるほど、親たちは危機感を感じた。その危機感の根元がどこにあるのか親たちが自覚していたかどうかはわからない。しかし、日本アニメの共感をベースにした世界観そのものが子供たちを夢中にさせ、しかもそれがフランス共和国の基本的な神話を崩しかねないという漠然とした「恐れ」が、極端なジャパンバッシングを引き起こしたと著者は見ている。

そして日本アニメへの激しいバッシングによってアニメ放映量は激減する。しかし皮肉なことにアニメに目覚めた子供たちは、その関心を日本のマンガに向け始め、結果としてフランスでは日本マンガの大ブームが沸き起こるのだ。

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アニメがフランスに与えた「共感」と「恐れ」(1)

2017年02月25日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす

著者のトリスタン・ブルネ氏は、1976年生まれで、フランス人「オタク」の第一世代を自称するマンガ・アニメ通だ。日本マンガの翻訳家であると同時に日本史の研究者であり、日本の大学等でフランス語、フランス思想の講師もつとめるという。

この本はフランスにどのようにアニメが導入され、定着していったかを、子供時代からの彼自身の経験を中心に具体的に、かつ当時のフランスの社会状況や時代の流れも視野に入れて語っていく。個人的な体験を語る部分は、面白いだけでなく、偽りもてらいもない誠実で温かいペンの運びが心地よい。また彼を取り巻く当時のフランスの状況や歴史に触れる部分も、歴史の専門家としての適度なバランス感覚や視野の広さが感じられ、好感がもてる。

読みながらいちばん強く印象に残ったのは、日本のアニメやマンガが、それを視たり読んだりして育ったフランスの子供たちにどのような深い影響を与えたかを繰り返し語る部分だ。これまでも断片的には、外国人によるそうした言葉に接したことはあるが、これほど本格的に、深い洞察力をもって、日本のサブカルチャーが他文化の人々に与えた影響を語る本に出会ったのは初めてであった。これは私にとって大きな収穫であった。

フランスのTVではじめて日本のアニメが放映されたのは1972年で、「ジャングル大帝」(後半部分のみ)だったが、子供たちの圧倒的な人気を得た最初の作品は1978年の「UFOロボ グレンダイザー」であった。フランスで日本のアニメが本格的に放送されるにようになったのは、放送局が民営化される過程でコンテンツ不足に悩み、それを補うのに安い日本製アニメが輸入されたからだ。当時、フランスの小学校は水曜日が休日で、その日の子供向け番組にアニメが放映され、大勢の子供たちを夢中にさせた。水曜日のアニメを待ち遠しく待ったそうした子供たちの一人がこの本の著者だった。

フランスのテレビ放送の民営化が本格化した1980年代中盤は、フランスのお茶の間に日本のアニメが浸透した時代でもあった。日本製アニメの放映量は急速に増し、80年代後半からは、「ドラゴンボール」「うる星やつら」「キューティー・ハニー」「Dr.スランプ」「めぞん一刻」「キャッツ・アイ」「北斗の拳」「キャプテン翼」といった大ヒット作が立て続けに放送された。

その後も「キン肉マン」「シティハンター」「気まぐれオレンジ☆ロード」「らんま1/2」「美少女戦士セーラームーン」といったヒット作を放送するが、その人気は1990年代中ごろから低迷し始めたという。その大きな理由が日本製アニメに夢中になる子供たちの親世代からの激しい批判、ジャパンバッシングであった。その批判に耐えかねた放送局が日本のアニメの放送量を大幅に減らしたのが原因だった。

なぜジャパンバッシングが始まったのか。いくつかの理由が重なっているようだが、その背景には、オイルショック(1973)をいち早く抜け出し経済成長を続ける日本への漠然とした恐れと反感があったのではないかという。またある女性政治家が、テレビの民営化を進めたシラク政権を攻撃して自分への支持を得るため、ジャパンバッシングを利用して日本アニメを「恐ろしいもの」と批判する本を出版した。この本はベストセラーになり、当時の親世代に絶大な影響をもたらしたという。

しかし著者は、当時の日本アニメへのバッシングにはもっと深い理由があったのではないかと考える。それは、日本のアニメが西欧にない異質な世界観・価値観を子供たちに注ぎ込むことへの恐れであり、これを語ることに本書の大事なテーマがあるようだ。次回はこの点をさらに探っていこう。

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日本のユニークさの源泉・母性社会(1)

2017年02月16日 | 母性社会日本
このブログでは、日本文化を「日本文化のユニークさ8項目」にまとめて、様々に論じている。そのうち第二の項目、「(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」という特徴は、「母性社会日本」というカテゴリーのもとに論じている。

ところで、この「母性社会」という言葉については、ユング派の心理療法家・河合隼雄が、その著『母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)』で使用し、その視点から現代日本人の心のあり方を深く洞察している。ただこの本については参考図書に挙げたり、短く触れたことはあったが、これを中心にして論じたことはなぜかなかった。ここで一度、この本に沿ってじっくり考える必要があると思った。この本の最初に掲げれられている論文「母性社会日本の”永遠の少年”たち」を中心に見ていくことになる。

人間の心の中に働いている多くの対立する原理のうち、父性と母性という対立原理はとくに重要だと著者はいう。この相対立する原理のバランスの具合によって、その社会や文化の特性が出てくるのだ。心理療法家として登校拒否児や対人恐怖症の人々と多く接した著者は、それらの事例の背景に、母性社会という日本の特質が存在すると痛感したという。これらの事例は、自我の確立の問題にかかわり、それが日本の母性文化に根をもつということだ。

母性原理はすべてを「包含する」特性をもち、包み込まれたすべてが絶対的な平等性をもつ。子供の個性や能力に関係なく、わが子はすべて可愛いのだ。しかし母子一体という包み込む原理は、子供を産み育てる肯定的な面と同時に、呑み込み、しがみついて、時には死にさえ到らしめる否定的な面ももっている。

これに対し父性原理は「切断する」働きを特性とし、すべてを主体と客体、善と悪、上下などに分割する。子供をその能力や特質に応じて峻別する。強い子供を選んで鍛え上げようとする建設的な面があると同時に、切断の力が強すぎて破壊に到る面ももっている。

世界の様々な宗教、道徳、法律などは、この二つの原理がある程度融合して働いているが、どちらか一方が優勢で他方を抑圧している場合が多い。著者は心理療法家としての経験から、日本文化が母性的な傾向が強いと認識するに至ったという。

その事例として著者は、自分が扱った男性患者の夢を挙げているが、ここでは省略する。ただ面白かったのは、それに関連して著者が、親鸞が六角堂参籠の際にみた夢を紹介していることである。夢の中で救世観音は語った、「たとえ汝が女犯しようとも、私が女の身となって犯され、一生汝に仕え、臨終には導いて極楽に生まれさせよう」と。何という母性的な観音だろうか。女犯を徹底的に受け入れ、許し、そして救済する。行為の善悪は一切問題にされず、あるがままに救われるのだ。キリスト教が、父性原理の宗教という特性をもち、神との契約を守る選民こそ救済するが、そうでなければ厳しく罰するのとは大きな違いだ。

ここで、数日前に取り上げた、遠藤周作の『切支丹時代―殉教と棄教の歴史 』(「日キリシタンはキリスト教をどう変えたか)を思い起こしてほしい。かくれキリシタンたちがキリスト教を、自分たちに合う様な母性的なイメージの宗教に変えてしまったこと。そして仏教も日本では長い間に母性的な性格が強くなっていくこと。六角堂での親鸞の夢は、仏教が母性的な宗教の極地至ったことを象徴しているかのようではないか。

さて、著者はこのように日本の社会を母性的な特質が優位な社会と見るのであるが、現代日本の社会的な混乱は、人々が母性的・父性的どちらの倫理観に準拠すればよいか判断が下せぬことにあるのではないかという。というより、その混乱の原因を他にもとめて問題の本質を見失っているところにあるのではないかという。私自身は、母性社会日本のユニークさやその利点を充分に自覚し、その良さを世界にアピールしながら、同時に父性原理とのバランスをとっていくことが大切だとかんがえている。次回以降、さらに著者の論を追いながら、私の立場からの考察も深めたい。


《関連図書》
神話と日本人の心、河合隼雄、岩波書店
中空構造日本の深層 (中公文庫)、河合隼雄
「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
続「甘え」の構造
聖書と「甘え」 (PHP新書)
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見

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宦官を拒否した日本(2)

2017年02月14日 | いいとこ取り日本
◆「日本文化の選択原理」(小松左京)(『英語で話す「日本の文化」 (講談社バイリンガル・ブックス)』)(この論考は、もともとは1985年に講談社から出版された『私の日本文化論』シリーズ3冊のうちの一冊に収録されたものらしいが、今はすべて絶版で、そのかわり上の本に収録されている。)

日本は、かつては中国文明に、近代以降は西洋文明に強く影響を受け、その文明の多くを取り入れながら、文明の根幹となっているいくつかの要素は、不思議に拒んでいる。中国文明でいえば、宦官や、儒教の同姓不婚という原則、西洋文明でいえばキリスト教などだ。小松左京はその背後に「日本文化の選択原理」があるといい、「それまでの日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚と合わないものは、上手に外してしまう、という余裕があった」から、そういう選択原理を働かせることが可能だったと主張するのだ。

ただ、その「日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚」がどんなものだったかまでは小松左京は説明していない。以下でこの点を論じるが、これまでこのブログで触れてきたことと重複する部分もあることをご了承願いたい。

まずは、「日本文化のユニークさ8項目」の第2・3番目に関係する点である。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

中国文明を本格的に受容するときに、日本人の「ごく自然に形成された感覚」が選択原理として働いていたとすれば、それは縄文時代から日本列島に住んでいた人々によって形成された感覚に違いない。だからこそ縄文時代に注目する必要があるのだ。

旧石器文化を人類史の第一段階とするなら、農業の開始とともに始まる新石器文化はその第2段階をなす。縄文文化は、土器を制作し定住していたという、明らかに旧石器文化にはない特徴をもっている。それでいながら新石器文化の本質をなすはずの本格的な農業を伴わないのだ。縄文時代の土器の制作量は、本格的な農耕をともなわない社会としては、世界のどの地域にくらべてもきわだって多いという。

しかも縄文土器は、大陸で発見された土器と用途の面で大きな違いがある。大陸での土器使用は、四大文明にも共通してみられるように、農耕によって得られた食物の貯蔵と盛りつけ、あるいは捧げもの用であった。これに対して縄文土器は、もっぱら食物の煮炊き用としてはじまっている。縄文文化が同時代の世界において特異であった理由のひとつが土器の使用の違いにあったのである。

新石器文化が農耕・牧畜の開始によって始まったことは、特定の食物を選択したうえで効率的に増産することだった。しかし同じ作物を集中的に栽培すれば増産は可能だが、天候不順などによるリスクは高くなる。これに対して縄文時代の人々は、自然界の多様なものを食べることによって食糧事情の安定化を図った。煮炊き用の土器が、自然界で食べられるものの範囲を大幅に広げたのである。煮炊き用の土器で、本格的な農耕が伴わなかったにもかかわらず食糧事情が安定し、その結果、定住が可能となったともいえる

縄文時代は、新石器文化の定住段階に入っても本格的な農耕をもたず、自然との深い共生の関係を1万数千年もの長期にわたって保ち続け、しかも表現力豊かな土器を伴う充実した社会を築いていたのだ。それは、中国文明流入以後の日本の歴史時代に比べ10倍近くも長い、世界史上でもユニークな時代である。縄文時代は、弥生時代から現代にいたる2500年間に比べても4倍から5倍も長い。あのエジプト文明でさえせいぜい5千年の長さだったのに比べると、これは人類史上まれなことである。

以上のように縄文時代は、人類史上でもきわめて特異な位置にある。その特異さ、その独特の生活形態と自然観、自然との関係の仕方は、その後の日本人にとっては消し難い「文化の祖形」となったのである。とすれば、その後に圧倒的な中国文明に接して影響を受けたとしても、縄文時代、さらに弥生時代へと受け継がれた「ごく自然に形成された感覚」がフィルターとなり、強烈な「選択原理」として働いたとして不思議はない。次にその「選択原理」をもう少し具体的に見ていこう。

旧大陸のほとんどの地域が農耕社会にはいり、イスラエルとその周辺地域から、ユダヤ教を中心に父性原理的な一神教が広がっていくなか、日本列島に住む人々は1万年の長きに渡って、豊饒な大地と森の恵み、豊かな海の幸に依存する高度な自然採集社会を営んだ。その宗教生活は、「母なる自然」を信じ祈る、きわめて母性的な色彩の濃いものであった。

旧大陸に比し、日本列島に生きた人々が古来、本格的な牧畜を知らなかったことは、日本文化のユニークさを特徴づける大きな要素になっていると思う。縄文人が牧畜を取り込まなかったのか、弥生人が牧畜を持ち込まなかったのか。いずれにせよ牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧民が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

牧畜を行う地域では、人間と家畜との間に明確な区別を行うことで、家畜を育て、やがて解体してそれを食糧にするという事実の合理化を行う傾向がある。人間と、他の生物・無生物との境界を強化するところでは、縄文人がもっていたようなアニミズム的な心性は存続できないのだ。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し次のような特徴を持った。

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②家畜の去勢技術、その技術と関連する宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
③遊牧や牧畜と密接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
④遊牧や牧畜を背景にした、人間と他生物の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。

今に至るまで生き続ける縄文時代の記憶。そのひとつは、豊かな「自然との共生」を基盤とする宗教的な心性である。たとえば、現代の日本人がもっている「人為」と「無為」についての感じ方をみよう。現代でも日本人は傾向として、意識的・作為的に何かを「する」ことよりも、計らいはよくない、自然のまま、あるがままの方がよい、という価値観をかなり普遍的に共有していないだろうか。また上の④に見られるような、人間と他生物を峻別しない生命観もあいまって、人工的に家畜を管理する去勢技術が流入しなかった理由の一つかもしれない。


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宦官を拒否した日本(1)

2017年02月13日 | いいとこ取り日本
◆「日本文化の選択原理」(小松左京)(『英語で話す「日本の文化」 (講談社バイリンガル・ブックス)』)(この論考は、もともとは1985年に講談社から出版された『私の日本文化論』シリーズ3冊のうちの一冊に収録されたものらしいが、今はすべて絶版で、そのかわり上の本に収録されている。)

「日本文化の選択原理」とは、このブログのカテゴリーで言えば「いいとこ取り日本」にあたり、このブログで追求し続けている「日本文化のユニークさ8項目」のうち、第5番目に関係する。

(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

多くの論者が取り上げてきた日本文化の特徴だが、小松左京独自の視点もあるのでまずこの論考を短くまとめ、その上で、その選択原理とは何だったのかを私なりの視点で考えたい。

ふつう文明とは、その基礎にひとつの大きな原理があり、それに従って様々な社会システムや文化が成り立っている。日本も統一国家となるときにこのような文明の影響を受けているが、それはもちろん中国文明である。漢字の流入に続き、律令制や儒教も入ってきた。およそ1300年前のことである。ところが日本の場合、そのシステムのすべてを受容するのではなく、こちらの選択によってその大切な要素の一部を拒絶するのだ。たとえば、律令制度の重要な一部である、宦官や科挙の精度を受け入れていない。

律令制度の導入により、皇帝は血のつながった世継ぎを作らなければならないから後宮で何人もの妃をもたなければならない。日本にも後宮の制度は導入されたが、それを管理する去勢された男子・宦官の制度は日本だけが導入されなかった。宦官の制度の背景には、牧畜技術としての家畜の去勢技術があるが、この技術も日本には入ってこなかった。むしろ、家畜の去勢技術を知らなかったから人間を去勢する制度も持ち得なかったのかもしれない。

また儒教は積極的に学びながら、儒教の根本原則の一つである同姓不婚という制度は日本に入ってこなかった。これは、同じファミリーネームをもつ男女は結婚できず、また異なる姓の男女が結婚すると、互いにもとの家の姓を名乗るという制度だ。

西欧の近代文明やその制度を、非西欧諸国の中でも最も早く熱心に導入しながら、その根底にあるキリスト教そのものはかたくなに拒んでいるというのも、そのよい例だろう。

こうして見ると日本は、大陸の文明に強く影響されその多くを、あるいはそのほとんどを取り入れながら、文明の根幹となっているいくつかの重要な要素の受け入れを拒んでいるのがわかる。島国である日本は、外来文明による圧倒的な侵略、制服を経験したことがない。だから文明を主体的に「いいとこ取り」して受け入れることができた。つまり「それまでの日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚と合わないものは、上手に外してしまう、という余裕があった」というのだ。

ただ、小松左京は、「日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚」、つまり日本人が恐らくはほとんど自覚なしに行う取捨選択の感覚、その感覚の背後にどんな原理が働いているのかまでは論じていない。しかし少なくともそれは、中国文明導入以前から「自然に形成されてきた」、日本人独自の感覚であることは間違いないはずだ。私にはその選択原理こそが問題であり、しかもそれは「日本文化のユニークさ8項目」の他の項目、とくに次の2項目に関係しているように思われる。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

では日本文化の選択原理がどのようなものであり、上の二つの項目にどのように関係するのかについては、次回に考察したいと思う。

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日本がキリスト教を受け入れないのはなぜ?

2017年02月12日 | キリスト教を拒否する日本
「日本になぜキリスト教が広まらないのか」という問いにまともに取り組んだ本はほとんどないのではないか。しかし、このブログでこのテーマを扱った記事へのアクセス状況から判断すると、この問への日本人の関心はかなり強い。関心が強いのにこのテーマを扱う本が少ないのも不思議だ。調べてみると、一冊そのものずばりのタイトルの本が見つかった。以下の本だ。

◆『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教』(古屋安男)

読んで見ると、キリスト教プロテスタントの牧師の立場から、近代日本とキリスト教の関係の様々な問題を扱った講演集で、その中の一章「日本とキリスト教」が、タイトルにあるような問題を論じている。キリスト教の牧師の立場から、つまり信仰と布教という関心からこの問題を扱っているわけだが、やはりその立場上、日本での布教活動の何が問題だったのかという関心に終始し、深い文化論的な視点からの考察はない。その意味ではあまり参考にはならないが、しかし、布教上の問題しか視野に入らず、日本文化の本質に迫るような視点がないことを明らかにすることで、私がこれまで考察してきたような文化論的な視点の重要さが浮かび上がるのではないかと思った。

日本のキリスト教徒が総人口のおよそ1%ということはかなり知られ事実だが、この割合は韓国に比べてはるかに小さく、共産主義の国といわれる中国よりも少ない。韓国は30%以上がキリスト教徒と言われ、中国も総人口の5%がキリスト教徒と推定されるという。

著者は、日本のキリスト教徒はなぜこうも増えなかったのかという問いに、明治以降の日本でのキリスト教受容のあり方から答えようとする。日本での最初のプロテスタント・キリスト教徒の多くは、佐幕派の武士階級であった。佐幕派であったため立身出世の夢を断ち切られた若者たちが、キリスト教の精神での日本の近代化を志したのだという。ピューリタンの精神が武士階級の人々にとって共感しやすい一面があったのも、この階級の人々に最初に広まった一因かもしれない。

そして武士階級が最初の信者だったことが、その後のキリスト教の伝道の不振を招いたのではないかと著者はいう。教会は、武士階級を中心とした特権階級が集まるところとなり、庶民には敷居の高いところとなってしまった。韓国や中国では、まず大衆階級に入り、そこから中層、上層の階級にも広がった。ところが日本では、最初の信者の多くが武士階級であったため、上層にも下層にも広がらなかったというのだ。

しかし、最初に武士階級に広がったとしても、日本の庶民にも訴える力がキリスト教そのものにあれば、最初の受け入れ階級が何であれ、その障壁を超えて広がっていくはずだから、この理由は問題の本質を突いているとは思えない。

もう一つ著者が挙げている理由は、多くの人が指摘している日本の「天皇制」だ。天皇制があるかぎり、キリスト教は広がらないというのだ。天皇制が、日本でのキリスト教の布教にとって最大の障害だと言われることは、著者自身、否定できないという。「真の神を知らないから天皇を『神』にする」のだと著者はいう。まるでキリスト教の唯一絶対神と天皇とを対立するものであるかのように捉えているが、これはあまりに単純かつ表面的な見方だ。天皇を唯一絶対神のように崇める日本人がどれだけいるだろうか。むしろ天皇は、日本人の相対主義的な考え方の中に位置づけられてきたし、今もそうであろう。天皇の存在に象徴されるような日本文化全体の相対主義的なあり方こそが、キリスト教を受け入れない背景にあるのだ。

一方で著者は、日本の教会がもっと大衆的になれば日本にも信者は増えると希望的な観測をしている。日本では、キリスト教が武士階級をを中心とした知識階級にまずは入り、知識階級の宗教という性格を脱することができなかった。韓国や中国は大衆階級から上層部にも広がった。日本のキリスト教も教会が大衆的になることで、変化していくだろうというのだ。

日本にキリスト教が広まらない理由として、以上のような捉え方はきまめて表面的で、日本文化の本質への洞察が全く欠けているいることは、このブログの読者ならすぐに気づくだろう。

たとえば昨日アップした「キリシタンはキリスト教をどう変えたか」でも、遠藤周作の『切支丹時代―殉教と棄教の歴史 』に触れ、かくれキリシタンの信仰が、聖母マリア中心の母性イメージの信仰に変質してしまうことに触れた。これは、逆に言えば日本にキリスト教が広まらないことの本質的な理由を暗示している。つまり、あまりに父性的性格の強い唯一絶対神を信仰するキリスト教は、日本人の体質に合わないのだ。

それは、縄文時代の太古から日本文化を育んできだ土壌が、きわめて母性的な性格の強いものだからではないか。そのような土壌が、唯一絶対の父なる神を信じるキリスト教に対して拒否反応を起こさせるのだ。日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、多神教的な(全体として強力に母性原理的な)傾向が、無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教など(父性原理の強い)一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。多神教的な相対主義を破壊するような一神教的な絶対主義が受け入れがたい。
詳しくは、このブログのカテゴリー「キリスト教を拒否する日本」を参照されたい。

ともあれ、プロテスタントの牧師という立場からこの問題を探ろうとしても、日本文化の根元に横たわる理由にまで思い至らないのは、無理からぬことかかも知れない。根本的な理由に目を向けてしまたら、キリスト教の布教者としては絶望するほかないからだ。

《関連図書》
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見


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キリシタンはキリスト教をどう変えたか

2017年02月11日 | 母性社会日本
日本の文化的・宗教的伝統はどちらかと言えば、父性的な性格よりも母性的な性格が強いのが特徴だ。このテーマについては、「日本文化のユニークさ8項目」のうち、「(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」という項目として、様々な観点から論じてきた。

近代化とは、西欧の科学文明の背景にある一神教的な世界観を受け入れ、文化を全体として男性原理的なものに作り替えていくことだともいえる。近代文明を受け入れた国々では、男性原理的なシステムの下に、農耕文明以前の自然崇拝的な文化などはほとんど消え去っている。ところが日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、その社会・文化の中に縄文以来の太古の層を濃厚に残しているように見える。つまり原初的な母性原理の文明が、現代の社会システムの中に色濃く生残っているのだ。

その事実を、心理学者の河合隼雄は、古事記や日本書紀を読み解きながら『神話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションIII〉 (岩波現代文庫)』で、古代日本人の心理として語り、また心理療法家の立場から『母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)』で、現代日本人の心理として語っている。また土居健郎は、現代日本人の甘えの心理を『「甘え」の構造 [増補普及版]』の中で分析し、日本人論の名著として名高いが、甘えの心理に見られる日本人特有の人間関係のあり方も、きわめて母性原理的な性格を現しているといえよう。


◆『切支丹時代―殉教と棄教の歴史 』(遠藤周作)
◆「日本人の宗教意識」(遠藤周作)(『英語で話す「日本の文化」 (講談社バイリンガル・ブックス)』)

今回取り上げるこの本は、いわゆる「かくれキリシタン」のキリスト教信仰の特徴に触れ、日本人の文化的・宗教的伝統の母性的な性格を描き出していて、きわめて興味深い。

作家・遠藤周作は、キリスト教への迫害が絶頂に達した頃のキリスト教に強い興味を示している。宣教師は日本を去り、教会も消え、日本人のごく一部がキリスト教をほそぼそと受け継いでいた時代である。宣教師がいないので、信者はキリスト教を自分たちに納得できるように噛み砕くが、それを是正するものはいない。日本人の宗教意識に合うように自由に変形されていくのだ。それがどのように変形されたのかに、遠藤周作の関心は集中したという。彼らが信じたものもはやキリスト教とは言えず、日本的に変形された彼らのキリスト教になっていた。仏教や神道の要素がごった煮のように混じり合い、キリスト教徒がふつうに信じるGODを本当に信じていたと言えるのか疑わしいと言うのだ。

しかも、彼らが役人の目をかくれていちばん信仰していたのは、GODでもキリストでもなく、実は聖母マリアであった。しかもそのイメージは、キリスト教の聖母マリアというよりも、彼らの母親のイメージが非常に濃かった。宗教画に見る聖母マリアというよりも、野良着を着た日本人のおっかさんのイメージであった。

言うまでもなくヨーロッパにおいてキリスト教は、母親の宗教というより父親の宗教という性格を強くもっていた。教えに外れるものを厳しく叱咤し、裁き、罰するイメージが強いのだ。それが日本では、いつのまにか母親の宗教に変わってしまう。もちろん聖母マリアは、カトリック信仰の中ではきわめて重い意味をもっているが、第一位ではない。その聖母マリアが、「かくれキリシタン」にとっては最重要の信仰の対象となってしまう。しかも日本のおっかさんのイメージに変形されてしまうのだ。父性原理の性格を強くもったキリスト教が、日本ではいつのまにか母性のイメージ中心の信仰に変わってしまう。日本文化の基底に、そうさせてしまう土壌があるからではないのか。

このような変化は、他の宗教での日本人の信仰の場合にも見られるという。たとえば、中国・朝鮮をへて日本に入ってきた仏教の場合も似たような変化が見られる。平安時代から室町時代には、仏教も日本人の歯で噛み砕かれ、次第に母性の宗教に変化していったというのだ。阿弥陀様を拝む日本人のこころには、子供が母親を想うこころの投影があるのではないか。

浄土真宗で「善人なをもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」といのも、見方によっては悪い子ほど可愛いという母親心理を表していると言えなくもない。ともあれ阿弥陀様には色濃く母親のイメージが漂っている。仏教も日本に流入して日本人に信仰されるうちに、かなり母性的な性格を強くしていったと思われる。

キリスト教にも仏教にも共通に見られる、日本での変化、つまりより母性的な性格のつよい信仰への変化、これは日本人の宗教意識の大きな特徴を表していると言えるだろう。もちろん母親の宗教という面は、キリスト教の中にもある。日本人だけに特有なのではないが、しかし日本の宗教には、この母性的な性格がとくに強く見られるのではないかというのだ。

遠藤周作のこの指摘は、日本人の宗教意識についてのものだが、それは日本の文化や社会の底流に母性原理的なものが色濃くのこっているという捉え方を、一面から強く補強する指摘だろう。

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軸のない日本文化の不思議と利点

2017年02月09日 | 相対主義の国・日本
「軸のない日本文化」という表現は、これだけでは否定的な響きをもつかもしれないが、私はここでかなり肯定的な意味合いで語りたい。このブログで追求し続けている「日本文化のユニークさ8項目」のうち、第7番目に関係するものとして考えてみたいのだ。ひさしぶりの更新なので、ここにその8項目を再録しよう。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

(6)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

(7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

つまり、日本の社会や文化は、宗教、イデオロギー、文化を統合する絶対的な理念という観点から見ると、他の世界の国々に比べて、これといった軸のない、きわめて相対主義的な特徴をもっているといえるのだ。これについは、このブログの「相対主義の国・日本」というカテゴリーでかなり論じてきているので、参照を願いたい。

◆『日本人はなぜ「小さないのち」に感動するのか
さて、この本の著者・呉善花氏は、日本社会の軸となる考え方や価値観が容易につかめず曖昧なことが、外国人にとって日本がわかりにくいことの大きな理由となっているという。欧米諸国ならキリスト教、中東諸国ならイスラム教というように、その社会の中心となる軸がはっきりしている。韓国や中国も、社会生活の面では儒教が軸になっているのは間違いないだろう。

それに対して日本の社会はどうか。儒教が軸になっているとも言えないし、かといって「武士道精神」、「仏教」、「神道」、それらのいづれか一つとも言えない。「仏教、神道、儒教、武士道精神などが融合したもの」といったところで、日本人もピンとこないし、外国人にはますますわからないだろう。それでいながら、日本の社会や文化は、その固有の伝統を失わずに存続し、現代もなお、他の国や社会にない調和と秩序を保ち、その新旧の文化の魅力を世界に発信し続けている。

著者によると、たくさんの軸があってそのどれも中心軸とは言えないということ自体が、韓国人や中国人から見ると不安でならないという。韓国人に言わせると「これだけわけのわからない神々を信じている国が、これだけ近代化されている」ということが不思議で不気味に見えるらしい。そして韓国人の反日教育の中に、日本人は文化的に未開で野蛮な人々だという教え方があるという。彼らにとっては、八百万の神々を信じるような自然信仰的な宗教性こそ、非文明的なのだ。一方、韓国は、李氏朝鮮時代に朱子学以外のあらゆる思想を排除し、朱子学一本を軸として作られた国なのだ。そうした伝統的価値観は、現代の韓国人の中にも生きており、日本人を見下す意識の背景となっているようだ。

しかし、一般的な韓国人にはもちえないような全く別の視点から見れば、日本人が、その社会を束ねる軸となるような中心的な理念を持つ必要がなかったのは、その幸運な地理的、歴史的条件によるものとも言える。上に再録した「日本文化のユニークさ8項目」で言えば、(4)(5)あたりが、それにいちばん深く関係するだろう。「宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配」や「文化を統合する絶対的な理念」によって人々をまとめあげ、侵略してくる他民族と対抗する必要はなかったし、島国のなかで自ずとひとつのまとまりあり社会が保たれたのだ。

翻って現代社会を見ると、宗教的な理念やイデオロギーの対立がどれだけ人々を不幸にしているか。頻発するテロや、難民移入にともなう摩擦の背景にも、社会や文化をまとめる軸相互のぶつかりあいが背景にある。日本人が、そうした宗教的な理念の軸を相対化して見ることができるということ、それでいてこれだけの近代社会を形成しえたということ。この事実は、こらからの世界のあり方に重要なヒントを与えるかも知れないのだ。

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ツイッターで世界の人々と交流し実感したこと

2015年09月02日 | クールジャパンを考える
しばらくこのブログの更新を怠っていた。徐々に復活したいと思う。最近、英語でのツイッターの活動はかなりしていた。私の関心のひとつは、日本の文化が世界で注目されているが、その実態はどうかということだ。それを知るためにも、日本に関心をもつ世界中の人とツイッターで交流することは、ひとつの有効な手段だと思われる。

実際にツイートし、徐々に反応が増えるにしたがい、日本に関心を持ち、日本を愛する人々の熱い思いをかなり実感することができた。もちろんツイッターの限界もある。客観的なデータが得られるわけではない。あくまでもインターネット上での交流だから、実際の交流とはやはり質的に違うだろう。それでも、いながらにして毎日のように世界中の人々の声を聞けるメリットは大きい。今後、もっとフォロアーを増やしていけば、日本を愛する人々の興味深いエピソードを紹介できたり、しっかししたアンケート調査なども実施できるかもしれない。

今、1000人少しのフォロアーがいるが、ほとんどが日本に関心の深そうな人々を私がフォローし、フォローし返してもらった人々である。だから、日本にひときわ関心の深い人々が私のツイートを見ているということになる。それにしても、日本人にとってはとるにたらないようなツイートが意外なほどに関心をもたれるのを実感し、それでますます英語でのツイートに力をいれるようになった。いくつか例を示そう。







こんな感じである。こうした写真を日本語でツイートしても誰もリツイートもお気に入り登録もしないだろう。日本のちょっとしたことにも強い関心を示してもらえることに、うれしさを感じつつも驚く。また、カタカナで自分の名前やハンドルネームを表記し、日本人と交流したがっている人々も多い。日本語の学習者のなかにとくにそういう人々が多い。日本語の学習者に、なぜ日本語を習い始めたのかと聞くと、数人が日本語の響きが好きだと答えていたのも印象的だった。

これは、いつもこのブログで書いている日本文化のユニークさを「日本文化のユニークさ8項目」の中の4番目を短くしたものだが、こうしたことにも関心をもつ人々がいることが分かる。今後もこのブログの内容に関連したこともツイートしていきたい。


今回はこれぐらいにしておくが、またツイート上の交流で何か興味深い話があったら紹介するつもりである。

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侵略に晒された韓国と侵略を免れた日本

2015年06月17日 | 侵略を免れた日本
本ブログでは、日本文化のユニークさを「日本文化のユニークさ8項目」の視点から論じている。その4番目は次のようなものであった。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

これまで、こうした日本文化の特性を、他のどこかの国と比較して論じるということはほとんどなかった。今回は、日本と文化的な関係の深い韓国と中国をとりあげ、上の視点から比較して論じてみよう。まずは韓国である。

◆『侮日論 「韓国人」はなぜ日本を憎むのか (文春新書)

著者は、済州島出身で今は日本に帰化している呉善花氏である。彼女の本はこれまでにも何冊か取りあげてきた。たとえば『日本の曖昧力』などである。日本での深い異文化体験を根底に、洞察力に満ちた日本文化論を展開している。『侮日論』は、タイトルからいわゆる「嫌韓本か」と思われるかも知れないが、そう一括りにされる個々の本は、読んで見れば真摯な態度で韓国の歴史や文化を論じているものが多い。この本も、韓国の歴史や社会を見る目は深く、また誠実で、考察は鋭い。

著者によれば、韓国人は好んで「手は内側に曲がる」という。手は内側の何かをつかみ取るようにしか曲がらない。内側とはつまり、家族、親族、血縁である。家族や親族を守るのは当然だが、韓国人の場合は、何が何でも家族、親族、血縁を最優先するのが人間だという強い思いがあるらしい。それが民族規模になれば、「民族は一家族だ」という身内意識に強く支配されるという。それは強い情緒的な反応であり、反日教育が徹底されれば、強い反日情緒が生まれるわけだ。

韓国は、強固な血縁集団を単位に社会を形づくり、それを基盤とした伝統的価値観がしっかりと根付いた。それは「身内正義の価値観」だ。「身内=自分の属する血縁一族とその血統」が絶対正義であり、その繁栄を犯す者は絶対悪だという家族主義的な価値観だといえよう。

彼らは、民族を一家族と見なし反日を軸にしてまとまる面がある一方、内部では自分の一族の党派的な主張が唯一の正義になる。それゆえ、党派を超越して国家のために連帯するという発想がなく、その歴史は一族間のすさまじい闘争に終始したという。国家への忠誠よりも血縁集団への忠誠が優先されるのだ。一族の利益のためには社会全体の利益を損なうことさえ辞さない極度に排他的な傾向をもっている。大統領とその一族さえその傾向を免れなかった。

韓国人が、家族、親族、血縁を最優先するのは、「信じられるのは家族だけ」という意識が強いからでもある。そうした意識の背景には、外国から繰り返し侵略された歴史があるともいえよう。異民族間の抗争・殺戮が繰り返され、社会不安が大きければ大きいほど、血縁しか頼るものがないという意識が強くなる。もともと「中華文明圏」では、宗族(そうぞく:男子単系の血族)が半ば独立した有機体のように散らばり、社会はその寄せ集めによって成り立ってといってもよい。宗族は、倫理的には儒教の影響を受けた家を中心とした家族観の上に成り立ち、強力な血縁主義でもある。血縁だけしか信じられるものはないという社会のあり方は、異民族との抗争の歴史と裏腹なのだともいえよう。

一方、日本のように、異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが可能だったし、それを育て守ることが日本人のもっとも基本的な価値感となった。その背後には人間は信頼できるものという性善説が横たわっている。さらに大陸から海によって適度な距離で隔てられていたため、儒教文化の影響をもろに受けることもなかた。宗族社会と違い日本はイエ社会であり、男系の血族だけでは完結しない。それは、婿養子のあり方を見ればわかるだろう。その分、社会がフレキシブルになっているのだ。

韓国では李氏朝鮮も、外国からの侵略という危機に際し、強固な国家支配体制を強固な家族主義の道徳規範で支えることを説く儒教、とくに朱子学を採用して乗り切ろうとした。崩れかけていた「血縁村落」を再び強化することで、さらに国家的な団結力も強化しようとした。韓国では、国にとっての敵に対しては、「一つの家族」という意識が前面に出る。とくに近年では対日本でそうした傾向が異常に強い。しかし、国内では我が家族や一族以外は容易に信じてはならないという、二面的な傾向をもつようだ。

また韓国独特の「恨(はん)」の感情もまた、異民族による支配の歴史を反映している。日本では怨恨というときの怨も恨も似たような感情だが、韓国人の「恨」は独特な意味をもっているという。それは、「我が民族は他民族の支配を受けながら、艱難辛苦の歴史を歩んできたが、それにめげることなく力を尽くして未来を切り開いてきた」という歴史性に根ざす「誇り」を伴う感情のようだ。個人のレベルでは、自分の悲運な境遇に対して恨をもつのだが、それを持つからこそ、それをバネに未来に向けて生きることができる、という前向きな姿勢につながるのが恨だという。まるで凝固したかのような恨をどこまでも持ち続ける、それが未来への希望になるというのだ。韓国人にとっては、生きていることそもののが恨なのである。

こうして見ると、韓国の社会や文化が異民族による侵略に常に悩まされるなかで形成され、そうした歴史に深く影響されていることがわかる。朝鮮半島と日本列島は距離的には近く、その文化も影響し合った面があるが、一方でその地政学的な条件に根本的な違いがあり、それがお互いの社会文化の形成に決定的な違いを生み出していることも明らかなのだ。

《関連記事》
子どもの楽園(1)
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日本文化のユニークさ07:ユニークな日本人(1)
日本文化のユニークさ08:ユニークな日本人(2)
日本文化のユニークさ09:日本の復元力
日本文化のユニークさ11:平和で安定した社会の結果
日本文化のユニークさ37:通して見る
日本文化のユニークさ38:通して見る(後半)
その他の「日本文化のユニークさ」記事一覧

《関連図書》
☆『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
☆『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)
☆『日本の曖昧力 (PHP新書)
☆『日本人はなぜ震災にへこたれないのか (PHP新書)
☆『世界に誇れる日本人 (PHP文庫)
☆『日本とは何か (講談社文庫)

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アマテラス:『神話と日本人の心』を巡って(3)

2015年06月07日 | 現代に生きる縄文
◆『神話と日本人の心

第四章「三貴子の誕生」(続き)

《アマテラスとアテーナー》
ギリシアの神々のなかで、日の女神アマテラスにもっとも類似するのはアテーナーではないか。アテーナーも父から生まれている。

ゼウスの正妻はへーラーとされるが、それ以前に女神メーティスがいた。聡明な女神だったが、大地と大空がゼウスに忠告した。二人の間に生まれる子は、もし男子なら父親を凌ぎ、神々と人間たちの君になるだろう、もしゼウスが永遠に統治権を握りたいなら、適当な処置が必要だ、と。ゼウスはその意見にしたがい、メーティスが懐妊したとき、彼女を自分の腹の中に呑み込んだ。その胎児がゼウスの頭の中で成長し、やがてゼウスは大変な頭痛を覚えたので、斧で頭を打ち割らせた。するとアテーナーが武装して雄たけびをあげて飛び出してきた。彼女は軍事にも携わったが、機織りにも長けていた。(アマテラスの機織との共通性)

日本神話との違いは、ゼウスが自分の統治権を守ろうとしたのに対し、イザナキは、自分の統治権をあっさり娘に譲り、自分は身を隠してしまうことであり、この差は大きい。

アメリカのように極めて父権意識の強い国では、女性の地位は長く低く見られてきたが、それに対しウーマン・リブ運動が起こり、女性も男性と同等の能力をもつと主張した。その結果、多くの職業に女性も進出し、女性の社会進出は成功した。しかし、その成功の陰で自分たちの「女性性」が犠牲になり、傷ついていると感じる女性も多かった。成功の一方、女性に固有なアイデンティティ、女性的な価値が失われるのは、西洋では、女性の価値が男性との関係でのみ決定されることが多いからではないか。ユング派の女性分析家は、そんな自分を「父の娘」と呼ぶ。

アマテラスはアテーナーに似て「父の娘」だが、ギリシアではあくまでもゼウスが主神である。一方日本ではアマテラス自身が主神である。彼女は、母を知らないという意味で地母神ではない。イザナミは黄泉に行き、地下の神となり、アマテラスは天上の神となる。もしアマテラスがイザナミの娘であれば、見事な母権制の社会ということになるが、そう単純ではないところが日本神話の特徴である。(注)

(注)無意識は、意識化された自我の一面性をつねに補償する働きをもつ。そのような無意識の世界を自我に統合していくプロセスが、ユングのいう「個性化の過程」だ。ユングの患者たちは、キリスト教文化圏の人々だから、彼らの無意識から産出される内容は、正統キリスト教の知を補償するものであることが多かった。

父なる神を天に頂く彼らの意識を補償しようするのは、母なるものの働きである。ユングはそのような観点からヨーロッパの精神史を見直し、正統キリスト教の男性原理を補うものとして、ヨーロッパ精神の低層に、グノーシス主義から錬金術に至る女性原理の流れを見出していった。

西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。

唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出される。これに対して日本神話の場合はどうか。例えばアマテラスとスサノオの関係は、それほど明白でも単純でもない。スサノオが天上のアマテラスを訪ねたとき、彼が国を奪いにきたと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るための誓いではスサノオが勝つ。その乱暴によって天界を追われたスサノオは抹殺されるどころか文化英雄となって出雲で活躍する。二つの極は、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される。

男性原理と女性原理の対立という点から見ると、日本神話は、どちらか一方が完全に優位を獲得し切ることはなく、一見優勢に見えても、かならず他方を潜在的に含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性を持つ。著者はここに日本神話の中空性を見る。何かの原理が中心を占めることはなく、それは中空のまわりを巡回しながら、対立するものとのバランスを保ち続ける。日本文化そのものが、つねに外来文化を取り入れ、時にそれを中心においたかのように思わせながら、やがてそれは日本化されて中心から離れる。消え去るのではなく、他とのバランスを保ちながら、中心の空性を浮かび上がらせる。(河合隼雄『中空構造日本の深層 (中公文庫)』)

非ヨーロッパ世界のなかで日本のみがいちはやく近代文明を取り入れて成功した。男性原理に根ざした近代文明は、その根底に先に見たような危機をはらんでいる。日本の文化は、近代文明のもつ男性原理や父性原理の弊害をあまり受けていないように見える。それは、日本が西洋文明を取り入れつつ母性的なものを保持したからだろう。しかし単純に女性原理や母性原理に立つのではなく、中空均衡型モデルとでもいうべきものによって、対立や矛盾をあえて排除せず、共存させる構造をもっていたからではないのか。

日本が、男性原理の上に成り立つ近代文明を取り入れ成功しながら、なおかつ男性原理の文明のもつ弊害を回避しうる可能性を隠すことが、今後ますます重要な意味をもつかも知れない。

(付録)シャーロット・ケイト・フォックスへのインタビュー
別所 日本の女性とアメリカの女性との違いは?

シャーロット 米国では「パワフル」「ストロング」「セクシー」、この三つが合わさって「彼女はビューティフル」になるんです。「キュート」って言われると、見下されているように感じます。だから私も当初、日本で「かわいい」と言われると戸惑いました。でも、「かわいい」には、英語の「キュート」にとどまらない、いろんな意味が含まれていることが分かってきました。

ここ日本で「美しくあること」って難しい。米国と全く違いますから。一方で、自分の内面に向き合い直すよい機会だとも思っています。自分の内面を再考察するといえば、言葉を発する前にまずきちんと考えてみることですね。米国では必要以上に感情が高まったり、あまりにも直接的なものの言い方になってしまったりするんです。感情の起伏が激しくなってしまうんです。特に人を愛することに関しては。
別所 日本女性の長所って見つけましたか?

シャーロット 日本女性のパワーの源を学んでいるところです(笑い)。米国の女性と違うんですよね。内に秘めたパワーというか。本当にとても強いパワー。まるで魔法のようです。私の友人は優しくて、嫌われずして得たいものを得るんです。不思議です。(毎日新聞-2015/03/26)

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