夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

月次の会・十月 (その2)

2014-11-01 22:27:43 | 短歌
今回の『百人一首』講座は、左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)の、

  今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふよしもがな

の歌について。

この歌は、『後拾遺和歌集』恋三では、
伊勢の斎宮わたりよりのぼりて侍りける人に忍びて通ひけることをおほやけも聞こしめして、守り女(め)など付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、よみ侍りける
という詞書(ことばがき)で収められた三首の最後の歌。
逢坂(あふさか)は東路(あづまぢ)とこそ聞きしかど心づくしの関にぞありける
榊葉(さかきば)のゆふしでかけしそのかみにおしかへしても似たるころかな
今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふよしもがな
として見える。

この歌の作者・藤原道雅は、『枕草子』に登場するので有名な内大臣・藤原伊周(これちか)の男(むすこ)。
『後拾遺集』の詞書にあるように、道雅は、三条院の皇女で、前*伊勢斎宮であった当子内親王に秘かに通じて三条院の怒りを買い、関係を断たれる(当子は後に出家し、若くして亡くなる)。「今はただ」の歌は、見張り役まで付けられ、当子とは今後一切逢うことも、連絡を取り合うこともできなくなった絶望の中で詠まれた歌ということになる。
*斎宮(さいぐう)は、伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王。

今はただ、「あなたのことはこれきりあきらめましょう」という、その言葉だけを、せめて人づてでなく、ひと目逢って直接お伝えする手立てがあればよいのに…。
といった意味で、昔から『百人一首』の中でも、私の特に好きな歌だ。

ただし、先生は、
「こういう形の歌は非常にわかりにくい。歌の詠まれた当時の事情がわからないと、響いてこない。恋人から離されたつらさ、苦しさは伝わるけど、どの注釈書でも詞書をもとにして鑑賞している。この歌に関しては、多様な解釈が出てこない。僕はそんなにいい歌とは思わない。」
ということを言っておられた。

この日の歌会の当番であり司会のYさんが、
「ちかさださんは、古典和歌が専門だから、こういう歌は好きなんじゃないですか?」
と尋ねられ、
「はい。」
と答えたのだが、自分にとっては普通になりすぎていて、つい見過ごしている大事なことに気づかされたように思った。

詞書で詠歌事情が示されないと理解できない歌は、歌として自立していないと思うのは近代人の感覚であって、古典和歌にはその歌の詠まれた事情とともに味わうべき歌が多い。詳述は控えるが、詠歌の背景や作者の人生、当時の状況と積極的に関わらせてこそ、和歌はその豊かな世界を表しはじめる。もちろん、それは、すでに和歌的共同体の失われた現代では再現不可能なものだけれども…。

現代短歌はまだ学び始めたばかりだし、古典和歌もまだ通暁しているとは言いかねる状態ではあるが、双方について語れる言葉を持ち、その橋渡しができるようになりたいと思う。