夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

古典離れについて (その3)

2014-11-26 22:23:25 | 教育
雑誌『文学』の特集「文学を教えるということ」で、私がもっとも感銘を受けたのは、次の論稿である。

③渡辺憲司氏「大学入学以前における文学教育―大震災後の「羅生門」

芥川龍之介の短編小説「羅生門」は、高校国語教科書の定番テクストである。
渡辺氏の論稿で初めて知ったのだが、「羅生門」が高校国語の教科書に初めて登場したのは昭和32年(1957)であり、同57年(1982)以降は、高校1年生のための芥川の教材はすべて「羅生門」となり、この状態が現在まで続いているそうだ。
しかし、これは「羅生門」の不易の価値が認められているからではなく、文学作品が教育現場でいかにあるべきかという問題提起より、教科書の定番化が先行している事態は極めて憂慮すべきことだと渡辺氏は述べる。

また、氏が触れているように、バブル崩壊後の平成不況の状況下、文学研究も国語教育も混迷の極みにある中で、我々は情報革命の時代に突入している。近年、国語・国文関係の雑誌の休刊・刊行中止が相次ぎ、研究と教育の存立が揺らいでいるだけでなく、国語教科書から古典の割合が減少し、入試問題として古文・漢文を出題する大学が減っている。全国の大学・短大には、日本文学の看板を下ろすところも増えている。

一方で渡辺氏は、
二〇一一年の東日本大震災以降、文学教育とりわけ国語教育が震災をどう受け止めていくべきかという課題が、どうしても頭を離れません。
震災以降の〈今〉にどう向き合うのか。
と問い、「羅生門」の〈震災後〉を描く文学としての側面に着目する。

荒削りに『今昔物語集』を素材とした芥川は、『方丈記』を見据えながら、京の町の、〈羅生門〉の荒廃を描写しているのです。『方丈記』と「羅生門」は、自然への脅威を述べながら〈盗み〉という行為や、宗教心の喪失といった〈人災〉をも共有します。「羅生門」にあるのは、震災後に生み出される悲惨な状況に対する人間の有り様です。有り様の多様性を語りかけているのです。

ここで白状すると、私は今まで、「羅生門」を授業で取り上げるときは、心理小説の側面を重視し、場面ごとに下人の心情がどう推移しているかを生徒に追跡させる読解に傾いていたと思う。『今昔物語集』に題材を取りながらも、主人公の内面を理知的に、近代的な〈自己〉という観点から新しく解釈した作品として、作者の文学史的評価と結びつけて教えてきた。
だが、渡辺氏の論稿を読み、今までの自分の教え方がいかに硬直化した、〈今〉を生きる私たちがこの作品をどう読むかという足場を失ったものだったかを思い知った。氏が言われるように、この作品に解答はなく、主題について一言で述べることも無理である。

可能なのは、生徒の真摯な姿勢を導きだし、その姿勢を評価することです。
〈何かをつかみとろうとする〉意識を生徒に持たせることです。

氏の論稿から、「羅生門」に限らず、また現代文・古典を問わず、生徒のために、このことを実現できるような授業を構想し、準備し、実践していくことが教師の役割なのではないかと諭されたように思った。古典離れや国語の敬遠を生徒のせいにせず、真の教養や学問が、我々がかけがえのない自らの生を生きることとどう関わるのかを、説得力をもって生徒に示し、深く考えさせる授業づくりを心がける。