ここのところ、推薦入試で出願する生徒の、志望理由書作成の指導に、かなり時間を割かれている。
私は今年は1年生の担任なのだが、3年生にも一クラス教えに行っているので、先月来、その生徒たちが何人か、志望理由書や小論文を指導してくれと私のもとに来ている。国語教師はつらいよ。
今週末から来週初めが出願のピークなので、生徒たちが志望理由書を完成させるべく、ギリギリまで奮闘している。
いや、奮闘しているのはむしろ、我々教員の方なのかもしれない。
高校の教員で、このブログを読んでくださっている方はお分かりになると思うが、今どきの高校生は、本当に作文能力が乏しい。
「自分がこの大学のこの学部に行きたいと思ってるんだろ? だったら、志望理由ぐらいちゃんと書いて説明せえや。」
と言いたくなる気持ちをぐっとこらえて、あるいは、そう叱咤して、文書作成につきあう。
今はワープロという便利なツールがあるので、本当に書くのが苦手な生徒の場合は、彼が下書きした文章を、私がいったんワープロで文書に入力し、打ち出した原稿に朱を加えて書き直しを指示し、それを何度も繰り返して完成まで持って行くこともある。
普通に文章が書ける生徒の場合は、下書き原稿を添削するだけ(それでも手間といえば手間だが)なので、ありがたくさえ感じてしまう。
さて、表題の話。
添削が済んで、後は清書だけという段階になったら、生徒たちに必ず言う言葉がある。それは、
「清書するときは、『ぜひこの大学に行きたい』、『必ずここに合格させてください』という念をこめて書きなさい。」
ということである。
志望理由書は、書かれた内容のよしあしもあるが、最後に受験生が一字一字に魂をこめて書くことで、その志望理由が彼にとって本物になる。
私自身、過去を振り返っても、履歴書や志望理由書を作成するときは、必ず下書きを完璧にしてから、清書(というか浄書)の際には、心からの祈りをこめて書き写していた。
結果、うまく行った場合もそうでなかった場合もあるが、審査に無事通ったときは、至誠天に通ずと実感して嬉しかった。
今年の教え子たちも、どうかそれぞれの志望が叶い、進路の実現につながりますように。
私は今年は1年生の担任なのだが、3年生にも一クラス教えに行っているので、先月来、その生徒たちが何人か、志望理由書や小論文を指導してくれと私のもとに来ている。国語教師はつらいよ。
今週末から来週初めが出願のピークなので、生徒たちが志望理由書を完成させるべく、ギリギリまで奮闘している。
いや、奮闘しているのはむしろ、我々教員の方なのかもしれない。
高校の教員で、このブログを読んでくださっている方はお分かりになると思うが、今どきの高校生は、本当に作文能力が乏しい。
「自分がこの大学のこの学部に行きたいと思ってるんだろ? だったら、志望理由ぐらいちゃんと書いて説明せえや。」
と言いたくなる気持ちをぐっとこらえて、あるいは、そう叱咤して、文書作成につきあう。
今はワープロという便利なツールがあるので、本当に書くのが苦手な生徒の場合は、彼が下書きした文章を、私がいったんワープロで文書に入力し、打ち出した原稿に朱を加えて書き直しを指示し、それを何度も繰り返して完成まで持って行くこともある。
普通に文章が書ける生徒の場合は、下書き原稿を添削するだけ(それでも手間といえば手間だが)なので、ありがたくさえ感じてしまう。
さて、表題の話。
添削が済んで、後は清書だけという段階になったら、生徒たちに必ず言う言葉がある。それは、
「清書するときは、『ぜひこの大学に行きたい』、『必ずここに合格させてください』という念をこめて書きなさい。」
ということである。
志望理由書は、書かれた内容のよしあしもあるが、最後に受験生が一字一字に魂をこめて書くことで、その志望理由が彼にとって本物になる。
私自身、過去を振り返っても、履歴書や志望理由書を作成するときは、必ず下書きを完璧にしてから、清書(というか浄書)の際には、心からの祈りをこめて書き写していた。
結果、うまく行った場合もそうでなかった場合もあるが、審査に無事通ったときは、至誠天に通ずと実感して嬉しかった。
今年の教え子たちも、どうかそれぞれの志望が叶い、進路の実現につながりますように。