夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

伯耆路をゆく その3

2015-08-07 23:14:31 | 短歌
「伯耆路をゆく」研修1日目に、後醍醐天皇歌碑を訪れた話題をするのを忘れていた。

米子市淀江町から東へ行った、西伯郡大山町の御来屋(みくりや)という小さな港町に、「後醍醐天皇御腰掛岩(こしかけいわ)」と「後醍醐天皇歌碑」がある。
元弘三年(1333)、流刑地の隠岐島を脱出した後醍醐天皇が、船で名和(なわ)の湊に着き、最初に上陸した場所がここであるという。
現地ガイドの塒(ねぐら)さんが、腰掛岩と歌碑の由来についてお話をしてくれた。


後醍醐天皇は隠岐判官・佐々木清高により、黒木御所に厳重に警固されていたが、裏山の間道を伝って脱出した。
隠岐からここまでは約70㎞、風向きと潮によっては一日で着く距離である。
名和の湊に着いた後醍醐天皇を、塒さんのご先祖がかくまい、御座所を提供し、地元の豪族・名和長年の館に案内したのだそうである。
やがて、後醍醐天皇を追ってきた隠岐判官の軍勢と船上山で戦いになるが、名和長年は一族と共にこれを迎え討って勝利する。後醍醐天皇は名和長年に感謝状を与えるが、その末尾に書かれていたのが、先の歌碑に記された歌なのだという。

  わすれめやよるべも波のあら磯を御船の上にとめし心を

塒さんは、以前は日本歌人クラブにも所属していたので、今回の中国ブロック研修で、自分が後醍醐天皇について説明することになったのを光栄なことと思い、かなり前から準備をしていたらしい。
本来は30分のはずが、塒さんが熱弁をふるってお話しになったので、小一時間ほどかかってしまい、事務局の方々は、その後の予定が狂うとはらはらしながら見ておられた。

後醍醐天皇復活の場となった船上山には、まだ行ったことがないので、後日機会を作って登ることとする。