今日の私も寺子屋状態で、数人の生徒の二次試験の指導。前日に生徒に、この年度のこの問題を解いておくようにと、問題と解答用紙のセットを渡しておいて、解答例と配点付きの用紙を準備しておく。
翌朝、出勤したらまず、問題に目を通し、採点基準と答案作成のポイントを頭に入れておく。定刻(8:40分)に生徒達が登校し、順次、私の机上に解答済みの答案を置いていく。授業の空き時間を利用して添削を済ませる。
午後に、文系学部受験組の生徒が使用している教室に行き、簡単に解答のポイントと答案作成のコツについて個別にアドバイスした後、解答と、同じ問題・解答用紙を2セット渡して復習の指示をした上で、今日の問題を解かせる。彼らは翌朝までに、私の机の上に答案を提出することになっている。
その後、小論文で受験する生徒への指導。S君は今日は、なかなかよい答案を書いてきた。褒めるところが多いのはやはり嬉しい。T君は、課題文の内容をまとめるのはうまいのだが、そこから自分の意見・主張を展開させるのが不得手なようだ。苦手意識をなくさせるのに、何かよい手立てがあればいいのだが。
今日は1年生の授業が1時間しかないから助かった。3時間ある日はさすがに大変である。
それにしても…。生徒の合格は、生徒本人が本番までにどれだけ頑張ってくれるかだけでなく、運に左右される要素も大きいことを改めて感じる。本人が普段の実力を発揮してくれればたいてい受かるはずであっても、倍率や当日の心身のコンディションや、出題された問題との相性みたいなものもあり、どうしても偶然的な因子が否定しきれない。生徒には、「本番で自分を支えてくれるのは、それまでの努力の積み重ねしかない」と言うけれども、言っている私がいちばん、入試は勝負事であり、日頃の努力通りにいかないこともあることを知っている。
そんなわけで、自分が受験生だった頃には思いもしなかったが、受験生を教えるようになってから、機会があれば必ず神社にお参りしたりするようになった。また、以前は藤原定家が『正治初度百首』の人選に加えられたいと北野社に参詣したり、後鳥羽院の和歌が神への祈りと一体のものであることを、単なる現象としてしか理解していなかったが、今はどんな気持ちだったのか、なんとなくわかる。自分の身のほどというか、自分の持てる力を超える大きな望みの実現を願ったからこそ、そういう大きな存在に帰依することが必要だったのだ。決して、小さな現世利益で動いていたのではないだろう。神頼みをバカにする現代人の方が、至誠天に通ずるというような大願を持たなくなったことの表れかもしれず、不幸なのかもしれない。信心深い人が成功したり幸福になったりという話は、昔の物語や説話にもよく出てくる。信心は人間にとって本質的に大切なことなのかもしれない。
翌朝、出勤したらまず、問題に目を通し、採点基準と答案作成のポイントを頭に入れておく。定刻(8:40分)に生徒達が登校し、順次、私の机上に解答済みの答案を置いていく。授業の空き時間を利用して添削を済ませる。
午後に、文系学部受験組の生徒が使用している教室に行き、簡単に解答のポイントと答案作成のコツについて個別にアドバイスした後、解答と、同じ問題・解答用紙を2セット渡して復習の指示をした上で、今日の問題を解かせる。彼らは翌朝までに、私の机の上に答案を提出することになっている。
その後、小論文で受験する生徒への指導。S君は今日は、なかなかよい答案を書いてきた。褒めるところが多いのはやはり嬉しい。T君は、課題文の内容をまとめるのはうまいのだが、そこから自分の意見・主張を展開させるのが不得手なようだ。苦手意識をなくさせるのに、何かよい手立てがあればいいのだが。
今日は1年生の授業が1時間しかないから助かった。3時間ある日はさすがに大変である。
それにしても…。生徒の合格は、生徒本人が本番までにどれだけ頑張ってくれるかだけでなく、運に左右される要素も大きいことを改めて感じる。本人が普段の実力を発揮してくれればたいてい受かるはずであっても、倍率や当日の心身のコンディションや、出題された問題との相性みたいなものもあり、どうしても偶然的な因子が否定しきれない。生徒には、「本番で自分を支えてくれるのは、それまでの努力の積み重ねしかない」と言うけれども、言っている私がいちばん、入試は勝負事であり、日頃の努力通りにいかないこともあることを知っている。
そんなわけで、自分が受験生だった頃には思いもしなかったが、受験生を教えるようになってから、機会があれば必ず神社にお参りしたりするようになった。また、以前は藤原定家が『正治初度百首』の人選に加えられたいと北野社に参詣したり、後鳥羽院の和歌が神への祈りと一体のものであることを、単なる現象としてしか理解していなかったが、今はどんな気持ちだったのか、なんとなくわかる。自分の身のほどというか、自分の持てる力を超える大きな望みの実現を願ったからこそ、そういう大きな存在に帰依することが必要だったのだ。決して、小さな現世利益で動いていたのではないだろう。神頼みをバカにする現代人の方が、至誠天に通ずるというような大願を持たなくなったことの表れかもしれず、不幸なのかもしれない。信心深い人が成功したり幸福になったりという話は、昔の物語や説話にもよく出てくる。信心は人間にとって本質的に大切なことなのかもしれない。