goo blog サービス終了のお知らせ 

アラン・ドロン LE REGARD D'ALAIN DELON

アラン・ドロンさんの魅力を多方面から考察し、またファンの方々との交流に重きを置いております。

Visconti a guide ma vie (1)

2010-05-15 | INTERVIEW
5月14日のカンヌに華々しく登場したドロンさんの画像がいろいろなサイトで紹介されていますが
フィガロ誌にはこの『山猫』の記念上映に関する最新のインタビューが掲載されていました。

http://www.lefigaro.fr/festival-de-cannes/2010/05/14/03011-20100514ARTFIG00586-alain-delon-visconti-a-guide-ma-vie.php

一部翻訳しましたのでご紹介します。

------------------------------------------------------------------------

LE FIGARO誌(以下LF)-ヴィスコンティにオマージュを捧げるこの階段を登る
あなたのお気持ちをお聞かせください。

アラン・ドロン(以下AD)–とても胸が締め付けられる思いですが、ノスタルジックな気持ちはありません。
私は『山猫』を自分の娘と共演者のクラウディア・カルディナーレと共に再び観ることができてとても幸せです。
クラウディアとは1960年のヴィスコンティの別の作品『若者のすべて』で 既に共演していました。

LF-今日のあなたにとってヴィスコンティ監督はどのような存在でしょうか?

AD-全ての模範です。そしてマリア・カラスの偉大なオペラの監督をも務めた優れたアーティストです。
彼は私に多くのことを教えてくれました。カンヌ映画祭で私がここにいるのも彼のおかげです。
私の人生をここに導いてくれたのです。他にもたくさんのことを私にもたらしてくれました。

LF-あなたはどうやって彼に出会ったのでしょうか?

AD-私は1950年代の終わりの頃にロンドンで彼に初めて会いました。
彼はロイヤル・オペラハウスで『ドン・カルロ』の公演中でした。
当時私やミシェル・モルガンのエージェントだったOlga Orstig、
彼はもう亡くなってしまったのですが、がある日私にこう言ってきたのです。
"ヴィスコンティがあなたに会いたいと言っている。" 
ルネ クレマン監督作でモーリス・ロネと共演した『太陽がいっぱい』を観て私を注目していたようで、
彼から”アランを見たとき私は彼がロッコだと思った。"との言葉をいただきました。
想像できますか?100%イタリア語の映画のカラブリア州出身の主人公の役柄に
私のような生意気なフランスの若造を起用するという約束を彼はしたのですよ。
私は未だにこのイタリアでの期間の思い出が本当に好きです。

LF-ご自身の映画はご覧になりますか?

AD-いや普段は見ません。今回は例外です。私は自分の映画は観ないのです。
なぜならそこにはあまりにもたくさんの亡くなっていった友人たちの姿が映っているからです。
私が最後の生き残りになってしまいました。
私はかつて好きだった人たちが生き返ってくるのを見るのはいやなのです。
私はバート・ランカスター、セルジュ・レジアニ、ジャック・ドレー、ヴィスコンティ、
そしてもちろんチーフ・オペレイターのアルドのことを考えてしまいます。
彼らは私の人生の一部です。
『太陽が知っている』の中でロミー・シュナイダーやモーリス・ロネの姿を観るのは耐え難いこと、
あまりにつらいことなのです。

LF-『山猫』がこのように技術の魔法で復活したことは、
あなたにとってどのような意味がありますか?

AD- 傑作であり、その時代と映画のシンボルが若返りました。
これは今の時代でなければ不可能だったことでしょう。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PARIS MATCH 20/11/2008 (2)

2009-06-13 | INTERVIEW
PARIS MATCH 20/11/2008 (1)の続きです。

------------------------------------------------------------

【ドロンは時にドロンに圧倒される...】

極上のワインのようなドロン王朝の中で、アンソニーは年齢とともに進化していた。
"アンソニーを見ていると自分のことを想い起こさせるんだ... "

44歳になったアンソニーは、現代の映画監督たちから興味をもたれている。
彼はSteve Suissa作品の撮影に参加する予定だ。

そして彼は自分の父親との共演を望んでいる。
だがそれはかなりのリスクを伴うものだ。
アランは言う "我々は良いスクリプトを見つけなければならない。
問題は、我々二人が同じポスターに名前を連ねるということだ。
きっとプロデューサーたちは一石二鳥を狙おうとするだろうな。
だが私は内容が濃い作品を作りたい。
スクリーンに映るアンソニーはまるで私のようだ。
私と同じようにカリスマ性があるし、毅然とした物腰も私に似ている。"

アランは何を言ってもやさしく魅力的だ。

さらにこの素晴らしいアランはまもなくひとりのサムライと対決することになっている。
そのサムライの名は北野武!
北野は、日本のヤクザ映画の監督であり、また俳優として鉄のマスクをもちながら、
同時にとても心をかき乱すようなブラックユーモアのセンスも併せ持っている。

話題はまたAnouchkaに戻っていく。
" Eric Assousが私たち父娘のために二人が共演する舞台の脚本“Une journée importante”を書いてくれたんだ。
それで娘はいよいよこの仕事に取り組み始めたよ。
私たちは皆自分に流れている血を意識して歴史は繰り返していくんだ。... "
 
もともと彼女はオランダ人の自分の母親ロザリーのようにジャーナリストになりたかった。
だがアランの夢はカーク・ダグラスのように、俳優の子孫を残すことだ。
14歳のアランファビアンについても、すでに7歳のときにFabio Montaleで父と共演している。
彼もいつかは映画のポスターの一番上に自分の名前が乗ることを夢みている。

-------------------------------------------------------------

この記事は7か月前のものですので、記事中にある北野武とのプロジェクトというのは
今もって特に情報が出てこないことから察しますと恐らく流れたのかもしれません。
Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Delon se confie sur sa passion pour Romy

2009-03-21 | INTERVIEW
http://www.laprovence.com/articles/2009/03/12/754765-Au-programme-Alain-Delon-Je-regrette-de-ne-pas-avoir-epouse-Romy.php
 ↑
こちらのサイトにドロンさんの最新インタビューが掲載されています。

先のテレビ番組でも話題になっているロミー・シュナイダーとの写真集の出版に関連して、
ドロンさんのロミーに対する思いが語られています。
意外なことに公の場でこのようにロミーについて発言するのは今回が初めてだとのことで、
ファンの方々にとって非常に貴重なインタビューです。

今回は全文を翻訳しましたので下にお届けいたします。

----------------------------------------------------------

-あなたがこの本の出版に協力することになったのはなぜでしょうか?

アラン・ドロン(以下AD):ロミーとの話題は私にとって、非常に個人的なものであり、今でも痛みを伴うものだ。
しかし、私は、この本のアイデアがとても良く、内容もよくできていると感じたんだ。
私が信頼している作家Philippe Barbierがこの本の二人の作者のうちの一人だったのも理由のひとつだよ。
彼にはとても感謝している。

-なぜ、あなたとロミーとの関係が人々の伝説になったとお考えですか?

AD:私たち二人がそういう風にさせたのではないよ。
周りの人たちが私たちのことを伝説にしていったんだよ。
私たちはお互いに愛し合っていた、ただそれだけさ。
ロミーが20歳の時、私は23歳だった。
私の人生において初めての偉大な愛となった。

-あなたが彼女に出会ったとき、彼女はすでにスターでしたね?

AD:彼女はもう当時ヨーロッパの"ザ"スターだった。
ブリジット・バルドーに匹敵するくらいにね。
多くの人々にとってロミー・シュナイダーはオーストリアの愛すべき皇后陛下Sissiとして永遠に忘れられない存在だった。
私が彼女に初めて会ったとき彼女はすでにスターだったが、
妙なことに、私はすぐには彼女のことを好きにはならなかったんだ。
ちょうどパリでPierre Gaspard-Huit監督の『恋ひとすじに』の撮影準備の頃で、
私もこの映画に出演していたんだ。

-彼女は、乱暴な性格だったとか...

AD:彼女の本当の性格はとても活発で何事にも熱心で、なおかつとても敏感なものだった。
彼女はいつも気持ちに余裕のない状態だったので、時には粗暴だった。
ロミーはスターになった時、まだ子供だったんだ。
怒りっぽい子供のようだった。
彼女はまだ自分自身の栄光や、この仕事の困難さに対処する準備ができていなかったんだ。

-年齢を重ねていけば彼女はさらによくなっただろうと思いますか?

AD:私はそう思わない。想像もつかないけれども、私は70歳の彼女を見たいとは思わない。
私はむしろこのような形で彼女が逝ってしまってよかったと思っているよ。
彼女は美しい姿のままこの世から去って行った。
彼女は伝説になり、永遠に語り継がれていくのさ。

-なぜ、あなたは彼女がアンジェイ・ズラウスキー監督の"L'important c'est d'aimer"に出演することに反対したのですか?

AD:.なぜならこの作品に出演しているとき彼女は正に死にかけていたんだ。
彼女の現実の人生の悲劇が画面に表れてしまっている。
私たちは一緒に映画を撮ろうとしていたけれども、あの作品のようなものには絶対にしたくないと私は思ったよ。
彼女は、もはや仕事にしか生きる可能性を見い出せないでいた。
ロミーの心の傷は癒えることはもう決してなかったし、何かを恐れてアルコールに依存してしまっていた。
彼女の人生、すべてのプライベートな生活は失敗や不運に見舞われていってしまった。
彼女は息子の不幸な死からも回復できなかった。
彼女は悲しみに打ちのめされて死んでいったんだ。

-彼女と結婚しなかったことを後悔していますか?

AD:うん。しかし、もし結婚したとして、彼女の運命は変わっていたのだろうか?
だが私たちはスイスの古くて美しい街ルガノで婚約したのは事実だ。

-あなたはどうしてロミーの葬儀に行かなかったのですか?

AD:私は、自分自身の心の痛みと悲しみを見せることでパパラッチたちを満足させたくなかった。
実際には、私はその場にはいたんだが、ほとんど誰も私のことを見ていないはずだ。
私はロミーの遺体がまだ置かれていたアパートを訪問し、
クロード・ベリやアラン・テルジアンと一緒に、長い時間、彼女が眠るベッドサイドで過ごした。
私は棺の中で眠っているロミーの姿をどうしても永遠に残しておきたいという衝動に駆られて、
テルジアンと二人きりになったときに、3枚のポラロイド写真を撮ったんだ。
これらの写真はいつも私の財布の中と心の中に閉まってあるんだ。
今まで決して誰にも見せたことはないよ。

-----------------------------------------------------------------

Comments (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PARIS MATCH 20/11/2008 (1)

2008-12-28 | INTERVIEW
先日ご紹介したPARIS MATCH誌でのドロンさんのインタビュー記事を翻訳しました。
http://www.parismatch.com/parismatch/Dans-l-oeil-de-match/Reportages/Alain-Delon-l-art-d-etre-pere/(gid)/58619/

なかなか難しい文章ですが、恐らくこのような内容であると思います。

----------------------------------------------------------

アランドロンと18歳の娘アヌーシュカ
_____________________________________

パリマッチ誌 キャサリン・シュワブ記 

11月15日土曜日、レストラン・ル・バークレーにて。

彼はまだ空腹ではないように見える。 "今日は2回公演の日だよ。" 
彼は彼が信頼を寄せる店主のクリストフが用意した周りから隔離された一角で
ひとりミネラル・ウォーターを飲みながらカボチャスープを飲んでいる。

照明を巧みに操作しているのであろうか?
彼の髪はふさふさになっている?
めがねをかけていない彼の瞳は青々としているじゃないか?
(と人々は疑問に思うであろう。)

彼は正に若返っていた。
"確かに私は体が引き締まったよ。2キロ痩せたんだ。
でも痩せようと思って痩せたんじゃないよ!
皆はどうやって痩せたのか聞いてくるんだけどね。
私は年を取れば取るほど若くなっていくみたいだ。困ったことだよ!" 

少し以前の彼はかなり元気がなかった。
"私は落ち込んでいればいるほど、より体が引き締まっていくみたいだ... "

さあ食事は終わりだ。
午後4時ちょうどから180分間を経て午後7時に彼はまたマドレーヌ劇場の舞台の上に上がることになる。
いつも着ているグレーのスーツを着用し、
とても魅力的な赤いドレスを着たアヌーク・エメと壇上で横一列に並んでいる。
彼は生涯にわたって彼女に"ラブレター"を書く。
そしてこの手紙を続けることを宣言し、
しかしあえてそれ以上には踏み込もうとはしない、そしてやがて彼女を失う。
物語は悲しい結末を迎え、ドロンは目に涙を浮かべている。
劇場中の観客たちがスタンディング・オベーションをするなか、
一人の女の子が舞台に上がってきて、腕を彼の首に回そうとする...
アヌーク・エメは困惑して笑いながらそこから離れようとする...
"アヌーク・エメのことはこの50年の間ずっと知っているよ。
私たちの関係は姉と弟のようなものさ。”

【彼の夢、それは自分の周りにいつも女性がいること】

いや、だが彼は彼女らと恋物語をしたことはない。
"当時は、成熟した女性だけが私を虜にさせていたよ。
同年代の少女たちには興味はなかったな。
ブリジット・オーベール、ミシェル・コルドゥを愛していた。
だが彼女らは私より15歳も20歳も年上だった。
彼女らには女性らしさの本質が備わっていたよ。"

今彼はこういう彼を魅了するような"女性の中の女性"に出会うことを夢見ている。
Alain Afflelouと離婚したロザリーとの冷え切った関係は緩和してきている。
だがこれ以上よりを戻すことはない。
周りの人間たちは心配して何人かの女性を時々紹介してくれる。
その女性たちの中で彼がキスをしていたのがEstelle Lefebureだった。
"エステル?嬉しいね!だがダメだ。もう一度考えてくれ! "

今のところ、彼の人生で唯一の女性は18歳になる彼の娘アヌーシュカただ一人だ。
"彼女は何かほしいものがあると私を呼び出すんだ。
電話で話す彼女のイントネーションを聞けば彼女が私に何かを要求しているのがわかるよ。
「お父さん、いい?... ...ほら、私たちライブに行きたいの... 」
そして、いっしょに行くと、私は驚かされるんだ!”

彼は言う。
"二人の子供たちに対する接し方はアンソニーのときとは同じではないよ。
(二人が生まれたときは)私はもうキャリアを築き上げていたからね。
一方アンソニーが生まれたときは、私は映画をプロデュースし、
たくさんのことをすることが義務付けられていた 。"

もちろん彼はこの愛しながらも屈折して育った息子の感動的な自伝を読んでいた。
"私はショックを受けたよ。
息子は自分がどのように人生を過ごしてきたのかを私に説明していたよ。
そしていくつかの地獄を見て、彼は失望を感じて失敗したんだ... " 

アランドロンは、大酒を飲み、銃を持ち、娘たちを身の回りに集めるといった
彼の息子の大きな反抗についてはあえて何も言わなかった。
アンソニーは17歳のときに自らドアを閉ざし、
父親が映画で演じてきたようなタフな人間を演じてきた。
しかし彼の名付け親で乳母であったルルが2003年に亡くなったとき彼は落ち込んでしまった。
そして彼の身を包んでいた鎧が割れていく。
川の流れのように涙を流し、胸が張り裂けるような思いから生き返ってきた。
自分自身を分析し再構築した...

ドロンは、彼を称賛する。"今の彼はとても強く見える。" 
彼は40年前の自分自身を思い出す。
彼は将来を期待された俳優であったが一方で未熟な父親であった。
初めて彼は自分のことをこう認めた。
"そうだ、私は、自己中心的で誰とも妥協しない権威主義者だった。
幸いなことに、彼はそのことがよく理解できる年齢になった。
そして我々はお互いのことを分かり合ったんだ。"

---------------------------------------------------------

アンソニー・ドロンとの複雑な親子関係についての
ドロンさんの生の声が聞ける貴重なインタビューです。
次回に続きます。

Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LOVE LETTERS

2008-11-06 | INTERVIEW
いよいよ7日からパリで幕開けとなるアラン・ドロンさんの舞台ですが、
これについてのインタビュー記事が本日フィガロ誌のサイトにアップされました。
下記に原文を翻訳しましたので、皆様どうぞご覧下さい。
日本から観にいかれる皆様、どうぞお気をつけていってらっしゃいませ。
http://www.lefigaro.fr/theatre/2008/11/05/03003-20081105ARTFIG00525-alain-delon-le-theatre-est-ma-therapie-.php

------------------------------------------------------

ルフィガロ誌(以下LF)-どのようにしてこのプロジェクトは決まったのですか?

アラン・ドロン(以下AD)-数ヶ月前、マドレーヌ劇場の監督がこの“ラブレター”を私に依頼してきたんだよ。
だが私は当時、来年1月からパリ劇場でLe Bateau pour Lipaïa をLine Renaudと共演することになっていて、
かけもちは難しいと断ったんだ。
だかその後このプロジェクトがなくなったので、私との共演を望んでいたアヌーク・エメに連絡してみた。
彼女はその時ニューヨークかワシントンでこの“ラブレター”を一緒に演じるスターを探していたんだ。
私は50年以上彼女のことは知っているけれども、今まで共演したことはなかったんだよ。
私にとっては舞台に立つということは一種の治療のようなもので欠かせないものさ。
私はとても楽しみだし、喜んでいる。

LF-Line Renaudとのプロジェクトは完全に放棄したのですか?

AD-そうだ。もうあの話は終わったよ。私が初めて舞台に立ったパリ劇場に再び出演することはもうない。
だが私はLine Renaudとの関係については心配はしていないよ。

LF-フィリップ・ノワレのこの舞台での成功を意識していますか?

AD-いや、私は彼よりも上を目指すよ。私は最初の作品をそのまま繰り返すようなことはしない。
フィリップのことは尊敬している。だが私は彼とは違うものを作り出すよ。

LF-あなたは今回初めて舞台のプロデュースもされますね...

AD-以前この舞台の監督であったサンドリーヌ・デュマは今回参加できなかった。
私は今まで経験はなかったけど、やってみたんだ。照明の位置を考え、音楽を選んだ。
私はほぼ52年間この仕事をしてきたが、今日の今日まで舞台演出は初めてだった。
だが私は45本の映画を制作してきたし、俳優、プロデューサー、ディレクターとしてこの仕事を熟知している。
私はよくクリントイーストウッドと比較される。
『ボルサリーノ』を製作したとき、私はプロデューサーとしてこの映画のボスだった。
私はまた『危険なささやき』を監督したとき最大の成功を実現した。
当時、批評家たちはこう書いたよ "今回初めて、アランドロンは自分自身を監督して笑っている! "

LF-今回の「ラブレター」は、かなり静的な作品ではないですか?

AD-これは古典作品ではない。 2人の主人公たちが座ったままでいる。
だからそれ以上のステージングの設定が必要だ。これは非常に複雑な作業であり、かつシンプルなものだ。

LF-あなたが演じる男性の登場人物トーマスに親近感を感じますか?

AD-彼は優秀な政治家で、妻との裕福な家庭がありながらも、
幼馴染のアレクサ(アヌーク・エメが演じる)との間で失った過去について手紙を交換して語り合う。
この感情というものは普遍的なものではあるけれども、それらを表現するには、いろいろと異なった方法がある。
私自身はラテン的な情熱というものにより近いものを感じている。

LF-あなたはご自分をいつも「俳優(=コメディアン)」ではなく「役者(=アクター)」だと思いますか?

AD-うん、そうだ。「俳優」というものは演劇学校で学んだ人のことを言う。一方「役者」というのは偶然の産物なんだよ。
Bernard Tapieのように、一般的に、個性が非常に強く映画に向いているのが「役者」だ。
私は演劇学校で演技の勉強をしてはいないよ。私をこの世界に入れたのは正に映画なんだよ。
ギャバンやベンチュラは「役者」だ。一方フランシス・ユステやベルモンドは「俳優」なんだ。
これは何も彼ら「俳優」たちを軽蔑して言っているのではないよ。
私たち「役者」が役を演じる時、私たちはその役を生きるんだ。
私はならず者や警察官や司祭の服を着て街へ出ていくのさ。

LF-あなたの娘のアヌーシュカと共演する作品はどのようなものですか?

AD-2009年9月か10月に予定しているよ。
劇は、Eric Assous によって書かれた、“ Une journée ordinaire(典型的な1日)”という題だ。
アラン・ファビアンも俳優になることを決めたよ。
私は自分自身の名前が、アントニー、 アヌーシュカとアラン・ファビアンのおかげで、影が薄まることに満足している。
私は俳優たちの王朝家系の父となるんだ。

LF-彼らに何かアドバイスはありますか?

AD-彼らの利点は、彼らは父親と一緒に住んでいたということだ。
と同時に彼らの不利な点は彼らが父親の娘や息子であるということだ!
しかし、あまりアントニーほどはアヌーシュカとアラン・ファビアンが苦労することはないんじゃないかな。

LE-あなたが引退する日のことを考えていますか?

AD-定年退職というものが存在しない職業が2つある。政治家と俳優だ。
しかし、多くの人々が私に期待するものを私が与えられなくなってしまったら私はやめるだろう。
だが残念ながらこの仕事は、世界で最も優れた健康法だと私は思う。
もしこの仕事をやめたら、私は死ぬだろう。死ぬことを私は気にはしていないよ。
私はしなければならないことは全てやってきたから。私は後悔せずに死ぬことができる。
しかし、私は子供たちが独り立ちするまでは、もう少しがんばるだろう。
私の今一番恐れていることは病気になって体が不自由になることだよ。

-------------------------------------------------------

舞台『ラブ・レターズ』のストーリーについてはこちらをご覧ください。
            ↓
http://www.parco-play.com/web/play/loveletters/what_ll.html
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Doggy (2)

2008-08-03 | INTERVIEW

前回ご紹介したアラン・ドロンさんの最新インタビューの和訳です。

-----------------------------------------------------------------

Eric Romain(インタビューアー以下ER):
アラン、あなたはDoggy誌のインタビュー取材の依頼にイエスとお返事を下さり、
今日その約束を守ってくださいました。
なぜ私の依頼を承諾してくださったのですか?その理由をお聞かせ下さい。

アラン・ドロン(以下AD):
Doggyという雑誌は犬の為の雑誌であり、人間を扱ったものではない雑誌だ。
引き受けた理由はそれだけさ。犬や動物たちを救うためだよ。
毎日新聞を読んでいると驚かされることばかりだ。
バカンスの期間の前に捨てられる犬がどんどん増えているといった昔のニュースはもう見なくなった。
今日の状況はさらに悪くなっていて、バカンスの時期に関係なくいつでもだ。
動物が捨てられるということだけを言っているのではない。
耳をカットされたり、皮をはぎとられたり、本当に驚くことばかりだよ。
私はこんな記事も読んだよ。つい最近のことだ。
今日の休暇の分配という政策による休日と労働時間の縮小が、
人々をよりペットを捨てることに向かわせているということだ。
それは当然だろう。でもじゃあ人々はなぜ動物を飼うのだろう?
問題はまた別のところからきている。みんなこう言うんだ。
「ああ、なんてキュートでかわいいんだろう!」ってね。
そして子犬を家に連れ帰って、3年も経つと捨てられてしまうんだ。
本当にかわいそうだと思う。

ER:子供の頃はみんな動物が好きですよね。あなたの子供時代はどうでしたか?

AD:私が人生で最初に飼った犬はGALAという名前の犬で、
いつも私の頭の中に思い出とともに彼の姿が浮かんでくるよ。
彼の墓は今ドゥーシーの私の家のそばにあるよ。
彼はドーベルマン犬で、ある人からプレゼントされたんだ。
私は犬が涙を浮かべることがあるというのを彼を飼って初めて知ったんだ。
あるとき彼をかわいがっていて、何かがあって私は彼を大きな声でどなったんだ。
何をやらかしたのかは覚えていないんだけど、
すると彼は私のそばにやってきて私を見つめて泣いているんだよ。
これはとてもショックだった。
私はいつも犬を愛してきた。
若い時からずっと犬が好きで飼い続けているんだ。
彼らは僕の隣人であり友人でもあるんだ。
私が子供の時に初めて好きになった犬は赤毛のボースロンだ。
これは本当に特別な犬だったよ。
それ以降、今の仕事を始める前、軍隊にいて犬を飼う機会に恵まれない時から
ずっと私はいつの日か犬を飼いたいと思いつづけていたんだ。
そのときはまだ自分がまだ今の俳優アラン・ドロンになろうとは想像もしていなかったけれどね。
私は犬たちを笑わせることができるんだよ。ほら笑っているだろう!
私は犬たちが笑っているのか泣いているのかがわかるんだ。

ER:あなたの友人たちは皆あなたが友情というものを信奉されているとおっしゃいます。
しかしあなたはまた犬や動物たちにも深い愛情を示します。
彼ら動物たちと人間との違いは何でしょうか?

AD:彼ら動物たちはみな人間と同じぐらいの優れた資質を持っているよ!
人間よりも欠点は少ないぐらいだ。
人間の欠点というのは数えきれないくらいあって言葉には表せない。
一方動物たちは飼い主に対して忠誠心を持っている。
飼い主がどんな人間か、何をしている人間か、動物たちはそんなことは一切知らないんだ。
私は街中のホームレスの人たちに飼われている犬たちにいつも感動させられるんだ。
彼らは自分たちの飼い主がホームレスだということは知らない。
だが犬たちは主人をまるで父親のように愛している。
それはまるでミッテランの飼い犬のラブラドールが
自分の主人が共和国の大統領で一国の主であることを知らないのと全く同じなんだよ。
私の飼い犬たちも私がアラン・ドロンであることを知っていると思うかい?
彼らにとってそんなことはどうでもいいんだよ。
私の犬たちは私を愛してくれている。
彼らは私が誰で、何をしているかなんて知りやしない。
これこそが完全な愛情といえないかい?
一切思惑のない完璧な愛情、純粋で真実の愛情なんだよ。

ER:あなたとあなたの犬たちとの間には何か儀式のようなもの、
あるいは特別なしきたりといったものがあるのですか?

AD:ひとつだけあるかな。いっしょにいる運転手にも聞いてみたまえ。
今私は1匹の猫を含めて4匹の動物たちを飼っているんだけど、
田舎の別荘を発つとき、街に出ていくためのシャツに着替えていると
私の犬Shalva(雑誌の表紙に映っている犬だよ、)は態度を変化させるんだよ。
彼には私が出発することがわかるんだ。彼の瞳を見ればわかるよ。
いつもはどこへでも私の後を付いてくるのに、動かなくなってしまって、
もうそんな行動はとらなくなる。私が発つことを知っているからだ。
これが犬の優れているところだよ。
彼は主人が出ていくことがわかっていて、
しかもいつ帰ってくるのかわからないのだから大いに不安に駆られているはずだ。
まるで自分の父親が家を出て行っていつ帰ってくるか分からない状態と同じだろう?
だが彼らは皆おりこうにしているんだよ。
そんなときは彼に「また帰ってくるよ」と言ってあげるんだけど彼にはそれが理解できない。
私は真の孤独というものは私が発つときに犬たちの瞳に宿っているものだとわかったんだ。
ちょうど今のように3匹の犬たちと彼らのもとにやってきた3本足の猫が
台所で私の周りにやってくるんだ。
彼らはそこにいて、私が発つことがわかっていて、心配そうな顔で私を見るんだ。
彼らは私の車を知っているし、ドライバーの顔も知っている。
外出するときの私の服装も知っている。彼らは悲しいんだ。

ER:あなたは家を出て行くときに一緒に犬たちを連れて行かないのですか?

AD:私は決して彼らを連れては行かないよ。彼らには外の世界は耐えられないからさ。
犬たちは私の家で生まれたんだ
(Shalvaはシベリア出身でCharraはチベット出身のチベタン・マスティフ)。
だから彼らは私の家で生き、私の家で死ぬんだ。

-------------------------------------------------------------------

次回に続きます。
Comments (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Doggy (1)

2008-07-29 | INTERVIEW

アラン・ドロンさんの最新のインタビューが掲載されている
今年創刊されたフランスのペット専門雑誌"Doggy"誌です。
ドロンさんはこの最新のインタビューの中で犬に対する思いを熱く語っています。

今回から数回に亘ってこのインタビューの翻訳文をお届けします。
まずは取材を担当した同誌の記者Eric Romain氏の冒頭の文章です。
ドロンさんの人柄について私も共感する部分が多々ありました。

--------------------------------------------------------------

「アラン・ドロン ドゥーシー、そこは彼と犬たちの楽園」

アラン・ドロンが犬のことを大好きであることは私はいつも知っていた。

アラン・ドロン、彼は私たちの時代と共に生きる最後の映画スターである。
彼はインドシナ戦争に海兵隊として従軍して帰国した後、
22歳で映画スターとしてのキャリアをスタートした。
彼は今や生きる伝説の人である、
だが同時に他人からは迷惑がられる性質をも兼ね備えている。
なぜなら彼は常人とは違うからだ。

ある朝、私は彼に手紙を書いた。
直観的に彼はイエスと言ってくれるだろうと私は思っていた。
数日後、彼の魅力的な秘書であるローレンスから電話があり、
彼がインタビューに応じDoggy誌の表紙を飾ることにOKを出したことを告げてくれた。

初対面の私に対して彼はとても明るく親切で思いやりのある人物であった。
さらに彼は話しをすることが好きで、知的で感受性の強い人物でもあった。
私たちは夕方5時の予定時間通りに会い、共にコーヒーを飲みながら、
そしてお互いに笑いながら、写真撮影の準備を整えてインタビューは開始された。

彼に対してどんな質問をするべきかといった心配は無用であった。
彼は私の質問に対して、決して紋切り型ではなく、率直に回答を述べ、
常に細かいことにまで気を配るその姿は紛れもなく偉大な人物であった。

このインタビューを読むことで皆様は知ることができるでしょう。
彼の慣れ親しんだ家のあるドゥーシーがどんな場所か、
彼に従う犬たちへの情熱がどれほどのものかを。

さらに彼は私にこんなことを教えてくれた。
彼にとって幸運をもたらす数字は「3」なのだと。
正にアラン・ドロンはDoggy誌の創刊第3号の登場となったのだ。

----------------------------------------------------------------------
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Delon dans Asterix

2007-12-23 | INTERVIEW
ドロンさんの最新インタビューが以下のサイトに掲載されています。 
      ↓
http://www.tvmag.com/jsp/magazine/article.jspx?arId=35040

今回はそのさわりの部分だけご紹介します。

-------------------------------------------------------------

Q:今回は2回目のセザール(シーザー)ですね?

AD:そうだよ。1回目は1985年ベルトラン・ブリエ監督の
『真夜中のミラージュ』で(セザール賞を受賞した)。
だから今回は2度目のセザール役だよ(笑)。

Q:「今や死なんとする老紳士」(=恐らく以前ドロンさんが語った言葉なのだと思います。)
である「映画」にまたあなたが出演したのは何故ですか?

AD:脚本を読ませてもらってセザールの役が面白いと思っただけなんだ。
人々が知らない私自身の性格がこの役には含まれていたし、
もし私がこれを演じるとなったら皆信じられないと言うだろう思ったんだ。
だからこの役を引き受けることにしたんだ。
予告編の映像は本当に素晴らしい。
観客は腹を抱えて笑い転げるか、あるいは罵りの口笛を吹くかどっちかだろうが、
いずれにしても映画史に残る作品になると私は思っているよ。
私自身のキャリアを総括したときこの作品の存在自体について
人々は取るに足らないものと思うだろうし。(←この訳文自信ないです。)

-------------------------------------------------------------------
Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Borsalino

2007-12-04 | INTERVIEW
本日フランスで『ボルサリーノ』が15年ぶりにテレビ放映されるようです。
下のサイトにドロンさんのインタビューと予告編が観れます。
なんとクロード・ボランの音楽付きです。

http://www.tvmag.com/article/Film/34746/Alain_Delon_TF1_n_a_pas_ete_tres_fairplay.html

まだくわしく読めていませんが、ドロンさんの言によれば
「ジャック・ドレー監督の遺産相続の問題で永らくDVD化されていなかった」
と仰っているようです。

この問題がクリアーしたから放映されるのであれば
DVD化も近いのではないでしょうか。

<追記>
以下に今回のドロンさんのインタビューの翻訳をしてみました。
ちょっと自信の無い部分もあるのですが、恥を忍んで記載します。

--------------------------------------------------------------

アラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドが
初めて一枚のポスターに一緒に写ったこの映画は15年以上も放映されることはなかった。
フランス3チャンネルは今夜この「過ち」を修復する。
このことはドロンを最高に満足させることになるであろう。

Q;この出来事にリスクがあるとすればTF1が対抗番組として
「ハーフ・ア・チャンス」を同時間帯に放映することで、
そのことにあなたは怒っていますね。

ドロンさん(以下AD);運がよくなかったということだろう。市場の法則なのさ。
そのことは理解はするけれども、TF1の行為はやはりフェアー・プレイの精神に反するんじゃないか。
故ジャック・ドレー監督作のこの映画が放映されるのはひとつのイベントなんだから
これに対してしっぺ返しをする行為というのはあまりいい感じではないよ。

Q;この映画の放映権を獲得するのはたやすいものではなかったです。
監督の未亡人であるアニエス・ヴァンサン・ドレーが権利関係を打破するのに戦ってくれました。

AD;正当な権利所有者(相続人たち)によって永年ブロックされてきたのさ。
こういう放映禁止の状態と言うのは非常に愚かなことだよ。
結局誰も得るものがないんだから。
このせいでこの作品は未だにDVDも出ていないんだよ!
私はボルサリーノ1と2のボックスセットが発売されればいいなと思っているよ。

Q;あなたはプロデューサーとしてこの映画に多額の出資をしていますね。

AD;『ボルサリーノ』は私のプロデューサーとしての元帥杖(勲章)だ。
なぜなら1964年に『さすらいの狼』でプロデューサーとしてのキャリアをスタートしてから
1969年のこの『ボルサリーノ』での成功は決定的なものになった。
この作品以来40年間ベルモンドと私は成功の道を歩んできたのさ。
『ボルサリーノ』で二人は初めて出会い、未だに誰もこの水準には達してはいないと思う。
この作品は1930年代を丁寧に再現して見せた大規模な予算での規格外のフィルムだ。

Q;フランス3チャンネルに高い視聴率を期待しますか?

AD;はっきりと言っておきたいのは、このフィルムは50歳から70歳の人々にとっては
伝説の映画であり、彼らから崇拝されているということだ。
ただ若い人たちにとってドロンとベルモンドというのがどれだけのものかは私にはわからない。

Q;もしあなたの名前がもはや意味の無いものなら来年1月30日に公開される
映画«Astérix aux Jeux Olympiques»のポスターに
ジュリアス・シーザー役のあなたの顔が載るでしょうか?

AD;それはそうだな。
だが確かなことは『ボルサリーノ』の今夜の放映は、
少なくとも40歳以上の人たちにとっては大きな喜びとなるはずさ。

-------------------------------------------------------------------------

以下にこの作品に関する記事をリンクいたします。

BORSALINO ボルサリーノ (1)
BORSALINO ボルサリーノ (2)
BORSALINO ボルサリーノ (3)
BORSALINO ボルサリーノ (4)
Comments (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FRANK RIVA

2007-11-08 | INTERVIEW
アラン・ドロンさんの72回目の誕生日を記念しまして、
本日午後7時からいよいよ日本初放映となる『アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ』を特集した
フランス本国のテレビ雑誌“France Soir TV MAGAZINE”誌
でのドロンさんのインタビューをご紹介します。
(例によって意訳を数多く含みますが・・・)

-----------------------------------------------------------

『刑事フランク・リーヴァ』の3つのエピソードの撮影は66日間を要することになる。
前作の『刑事物語』の大成功を受けて、アラン・ドロンは新たな刑事像を作り上げている。
『仁義』のラストシーンに使われたのと同じ場所のロケ地で、
スター・ドロンはこのドラマで演じる役について、俳優としての欲求について、
テレビに出演することについて熱く語った。

Q「『フランク・リーヴァ』はあなたにとって賭けですか?」

ドロン(以下D)「私のキャリアの中では賭けと言うほどのものではないよ。
20年から30年前に作り続けていた映画作品の中の1本にすぎないようなものさ。
私は単に自分自身が作りたいものを作っているんだ。
今の時代にはそれがテレビ・ドラマだということさ。」

Q「『ファビオ・モンタル(=刑事物語)』があれだけ大成功したんですから、
もう引退してもよかったのでは・・・」

D「そうだな、そうすればよかったかな。
だけど私は行動する人間だし、何事にも熱くなる人間なんだ。
仕事こそが私の人生そのものなんだよ。
映画界からは「もう引退する。」って宣言したし、
舞台にも「もう上がらない。」って言ったし(注;2003年当時)、
そうすると唯一私に残されてるテレビの仕事を止めてしまったら
家で植物の世話をすることぐらいしか、することがなくなってしまうじゃないか(笑)。」

Q「この仕事から立ち去ることは難しいですね?」

D「世間の人たちから“もういいよ、家にいてください。”って言われたら引退するよ。」

Q「じゃあもし人々がその言葉を言わなかったらどうします?」

D「そうだな、私は舞台の上で死ぬんじゃないかな。
『ファビオ・モンタル』が1250万人もの人たちにテレビで見られて、
3話平均で1170万人もの視聴者が観てくれたことは私にとって失敗では全く無かったよ。
はじめに私はこう言っていたんだ。
“視聴率が40%を下回ったら失敗だ。30%を切ったら大失敗だ。”ってね。
皆は“何をこいつ言ってるんだ”って笑っていたよ。
でも私たちは48%を勝ち取ったんだ!
確かにこれだけの成功を収めてしまうと、
普通ならこれで満足して同じようなものに安住してしまうものだ。
だが私の感覚で言うならば4匹目のドジョウはいないってことさ。」

Q「なぜ主人公の名前がFrank Rivaなのですか?」

D「彼は脚本家(=フィリップ・セボン)が創作した人物だよ。
私の先祖は地中海のコルシカ島出身だ。
ファビオ・モンタルもイタリア系フランス人だったし、このフランク・リーヴァもそうだ。
この名前は響きがいいね。
ファビオ・モンタルを演じて以来、
私のことをジャック・デュポンと呼ぶ人はいなくなったよ。(←この原文意味不明です。)
“Frank”に関して言えば“Franc”じゃないところがオリジナルなところだ。
さらに“Riva”という名前は私にとって1950年代にサントロペの港で見た
世界でもっとも美しい船の名前を思い起こさせるものなんだ。

Q「主人公はどんなタイプの刑事ですか?」

D「フランク・リーヴァはファビオ・モンタルとよく似た経歴を持っている。
しかし職務上の理由から、さらに自らの身を守るためにリーヴァは国外に亡命していたんだ。
25年後にある事件が起こり、それを解決できる人間が彼しかいないということになった。
だが1975年と2003年では警察内部も全てが変わってしまっていたんだ。」

Q「主人公の性格はどのようなものですか?」

D「彼はドロンにそっくりだよ!強烈な個性を持っているが、とても人間くさい男さ。
心が豊かで、しかも繊細な神経も併せ持っている。そして同時に行動的でもある。
彼がパリに舞い戻ってくると、武器と権力を持って事件解決に向けて行動することになるんだ。」

--------------------------------------------------------------------------

次回に続きます。
Comments (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PARIS MATCH (40)-3

2007-09-07 | INTERVIEW
アラン・ドロンさんのパリマッチ誌での最新インタビューの最終回です。

-----------------------------------------------------------

アラン・ファビアンは私に似てとても感受性が強い子だ。
一方の姉のアヌーシュカは母親に似て私にはわかりづらい性格だ。
感受性が強いというのは弱弱しいということではない。
彼は俳優になりたがっているので、そのことは彼の才能にプラスに作用するであろう。
私はそのことをうれしく思っている。
彼は普通の人たちよりも幸福になるであろうが、
一方で普通の人たちよりも苦しむことにもなるであろう。

(ロザリーに対して)
時が経てば彼女への不満の気持ちは消えていくであろう。
しかし後悔の念は消えることはない。
一夜にして全てが崩壊してしまった。
もし彼女がもういちどやり直したいと言ってきたとしてもフラストレーションを感じるだけだと思う。
あのドゥーシーでの幸せな日々はもう二度と戻っては来ないのだから。
きっとやり直そうとしても違ったものになってしまうであろう。

(2005年のインタビューで新しいパートナーがいてほしいと述べたことについて)
私はもう一度出逢いの瞬間というものを待ち続けている。
いくつかの試みはあったがいつも不可能の領域に踏み込むだけだった。
人生はうまくいかないものさ。
これはと思う女性は結婚していたりパートナーがいたりするのだからね。
私自身が臆病になっているのも事実だ。
人々は私は一緒には暮らしにくい人間だと言うし・・・

(アヌーシュカとアラン・ファビアンは新しいパートナーに反抗するか?)
アヌーシュカは夢に見ている。彼女は私が孤独でいることを好んではいないようだ。
しかし私は彼女が私がパートナーの女性と寝ているベッドにやってきて
目覚まし時計を鳴らして起こしにくる姿なんて想像することはできないな。

(年齢を重ねていってもあなたのように魅力的でいられる秘訣は?)
私は年齢のことは考えないようにしている。
全ては自分の心がけ次第でどうにでもなると思っているから。
スポーツをすることはやめたし、タバコも吸わない。
これまでの人生でドラッグやアルコールにおぼれた事もない。
つまり私の健康は私を生んでくれた母親のおかげなんだろう。
ドロン家の血筋さ。

(モーリシャスでずっと世話をしているキジバトの雛について)
ドゥーシーで3年間、私は肩の上にスズメのPee-Weeを乗せて暮らしていた。
この小さなスズメがいなくなったときはとても悲しんだものさ。
歴史は繰り返そうとしている。
この小さなハトは毎朝私の用意した餌を食べにやってくる。
きっとここを離れるとき私はとても悲しくなるだろうな。

(帰国後は香港のジョニー・トー監督のスリラー映画の撮影に入るのか?)
このプロジェクトはまだ進んではいない。
シーズン後半は私は来年1月に公開される映画「アステリクス」シリーズの
新作のプロモーション活動に携わる予定だ。
この作品は本当に映画界の一大イベントになるだろう。
この冬は静かに過ごしていたいが、いくつかの企画は上がってきている。
でも何も確かなものは今のところはない状態だ。

ジャン・クロード・ブリアリの死は私にとっては受け入れ難い出来事であったし、
これからも恐らく受け入れることはないであろう。
だがブリアリの死と同時にベルモンドが映画に復帰することになった。
きっとこのことがきっかけになったのだろう。
私にとってこれほど嬉しいことはないよ。
Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PARIS MATCH (40)-2

2007-09-03 | INTERVIEW
WOWOWで11月に『アラン・ドロンの刑事フランク・リーヴァ』が日本初放映されます。
WOWOW今後の放送予定
12月にはこのDVDBOXセットも発売されるようです。大変楽しみです。

さて今回はアラン・ドロンさんのインタビューからの抜粋の第2回目です。

(私の翻訳力では原文にわかりにくい箇所がたくさんありまして、
皆様には大変申し訳ないのですが、かなり端折っております。
間違いなどありましたらご指摘下さい。)

------------------------------------------------

弟のアラン・ファビアンは『シシリアン』『ゾロ』『黒いチューリップ』を6回も見ている。
先週の火曜日には『仁義』をテレビで初めて観たようだ。

アヌーシュカは『LE LION』で私と共演しているが、
この作品がどれだけ偉大な作品であるか彼女はまだ理解していない。
あれはとても大事な作品なんだ。
なぜならいつか私がいなくなってしまっても、
彼女はケニアの大地に佇む父親の姿を観ることができるからだ。
そしてそのとき彼女の胸に真の父親の姿を永遠に焼き付けることができるだろう。

いつか私は自分の人生について、思い出についての全てを
彼らのために本に書き残そうと思っている。
そうすれば彼らは自分の父親がどんな人間であったかを理解することができるだろう。

アヌーシュカはあと数ヶ月で17歳になる。
私はどうやって彼女の気持ちを繋ぎとめておくことができるだろうかと
自分のことが不安に思えてくる。

アヌーシュカは私の情熱そのものだ。
彼女の弟ももちろんそうなのだが、彼は息子だから全然違うんだ。

シャルル・アズナブールがそんな私の娘に対する想いを詩に書いてくれた。
その詩のタイトルは

「私の娘へ」
“いつかその日が来ることは知っている。
もしも娘が幸せになれるのであれば
私は心から娘の手を彼に握らせてあげよう。
なぜなら私は娘を愛しているから”

そのときが来たらいったい私はどうすればいいいんだろう。
彼女は私の娘だ。避けて通ることはできない。

彼女は私よりもはるかに強い。彼女は好きなように私をだますことができる。
彼女は一瞬にして私を不愉快にしたと思ったら今度は喜ばせたりしてくれる。

俳優の仕事というのは世界中で最も美しいものだと私は思っている。
この仕事こそが私に全てのもを与えてくれたのであり、
彼らを授かることにもなったのだ。
なので彼ら二人がその職業を選択することを私も奨励している。
私は血統というものが好きなんだ。
どちらもお互いにドロン家の人間ということさ。

今年アヌーシュカとカンヌのレッドカーペットを歩いたことは
私の人生の中で最も大きな出来事であった。
カメラマンたちの前で微笑んでポーズをとる娘の姿は
まるで彼女が何かを成し遂げたかのようだった。
私は文字通り魅了された。
彼女の初めての大衆へのお披露目は大成功だったよ!

---------------------------------------------------

長くなりましたので次回に続きます。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PARIS MATCH (40)-1

2007-09-01 | INTERVIEW
PARIS MATCHパリマッチ誌最新号より

ドロンさんと二人の子供たちが過ごしたバカンスの写真が
彼のインタビューを交えて特集されています。

インタビュー前半のドロンさんの言葉の抜粋をご紹介します。

---------------------------------------------------------

今回モーリシャスに子供たちと来たのは3回目さ。
この地は私たちのパラダイスではあるが、
最も大事なことは場所がどこかではなく、
3週間を3人だけで過ごせると言うことなんだ。
子供たちは私に力とエネルギーを与えてくれるよ。

7月に子供たちは彼らの母親とオランダとイビザで過ごした。
8月は私とモーリシャスへ行く番だ。
5月に『マディソン郡の橋』の公演がジュネーブで終わって以来、
私はこのときを待ちに待っていたんだ。
彼らを初めてここに連れてきたのはアヌーシュカが5歳、弟が4歳だった。
彼らが成長していくのを見て観察することほど楽しいことはない。

ドゥーシーはこことはまた違うパラダイスだ。
子供たちの母親は、そこのことを「基地」と名づけた。
今でもそこで生まれ育った彼らはそう呼んでいる。
ドゥーシーで犬に囲まれている当時4歳だった娘や息子、母と私の姿は
今でも永遠に心の中に残っている最も美しいイメージだ。

時々彼らにいつかはあの土地を売ってしまうよと言ってるんだ。
「だってあまりにも広すぎて、私がいなくなったら、
お前たちにはとてもじゃないが管理することはできない。」
すると息子は、そんなことは問題じゃない、ちゃんと管理できる、って言うんだ。
彼はどれだけあの場所に魅せられてきたかを話すんだ。
私の飼っていた35匹の犬の墓のあるあの場所を。
この夏、そのうちの1匹が去ったとき、彼らはとても悲しんだんだ。
まるで自分たちの兄弟が亡くなったようにね。

このモーリシャスでは私たちは海から10メートルのところにある
プライベートヴィラに滞在してる。
テラスで私が作った朝食を食べようと毎朝早く起きるよう言うんだが、
娘はどうしても朝寝坊したがるんだ。

休日だから彼らは自分たちのやりたいことを自由にやってはいるが
お互いに支配されることはいやなようだ。
彼らは他の家庭の子供たちと同じように過ごして、
友達になって互いに電話番号を交換し合ったりしている。

彼らが私の人生にやってきてくれて私の人生は10年若返ったようだ。
私のように50歳を過ぎてから子供を授かった親は
若さやヴァイタリティが若いときのまま維持されるんじゃないかな。
今でも忘れられないのは、数年前のある日、
彼女を迎えに学校の門の前に行った時の事だ。
「パパは私の友達のお父さんたちよりもずっと若く見えるわ」
って言ってくれたんだ。こんなに嬉しいことはなかったさ。

子供たちの視線で自分の姿を見たとき、
肉体的に衰えて、老人のようになっていくことなんて考えられない。
現実には私は彼らの祖父の年代だ。
アントニーはもう43歳なんだから。

ティーンエイジャーと一緒にいて彼らを理解することはとても難しい。
彼らは違う世界に住んでいる生き物のようだ。
仕方なく私は彼らの言葉を理解しようと努めているのさ。
28歳のときにアントニーが生まれたとき、
私は自分のために映画の撮影ばかりやっていてこんな余裕はなかった。
今の私はこれ以上自分のキャリアを積み上げることにはもう関心はない。
私の時間はこの二人の子供たちのためだけにあるのさ。
アントニーに対してと、アヌーシュカとアラン・ファビアンに対するのとは
私の見方が違っているのは事実だ。
彼らは私が誰かは知っている。
しかし彼らは自分たちの父親がどんな仕事をしてきたか
まだはっきりとは理解していないんだ。

--------------------------------------------------

後半に続きます。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする