陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

財政難の地方大学を考える

2007-05-12 03:27:49 | 教育と研究
 国立大学の独立法人化は、平成16年(2004)4月1日から実施された。以来丸3年を経過している。大学独法化の大きな狙いは、国立大学の抱える国家公務員(教官、事務官と技官)を形式上民営化することで一気に減少させることにあった。但し、その運営経費として経過措置により従来と同額に近い運営交付金を各大学へ支給し、徐々に私立大学化するとの構想である。

 これが実行されて以来、文部科学省は「大学設置基準」を五月蝿く言わなくなり、大学もしくは学部の判断で組織や人事、予算配分を行って良いこととした。ある地方大学は、副学長を5人も作り(その一人は文部科学省の天下り役人)、副学長室の設置や給与支払い(一人年俸1500万円以上)で、現場の教育・研究費は激減したと言う。

 例えば、独法化前の理工系の学科では、教授+助教授+助手の組み合わせで、小講座当り年間300万円以上の校費が支給された。この4月からは、助教授が准教授と名称変更、教授と同額の運営交付金が支給される。それは大学により異なりけれども、一人当たり年間25万円前後である。一方、助手は助教と名前を変えたが、年間10万円しか支給されない。

 仮に、これら3人が共同して研究室運営をする際、年間60万円となり以前の5分の1以下の予算で小講座=研究室を経営するわけだ。研究室に所属する卒研生(4年生)10人、大学院生8人の教育をするのに、これではコピー代にも事欠く有様。研究をしたければ、外部資金(科学研究費、NEDOなどのプロジェクト研究、民間企業からの奨学寄附金など)を入手せよとの話だ。

 そのような状況の中で、次のような情報が流れている。

地方国立大「存続ムリ」 競争型の交付金案牽制
2007年03月18日 asahi.com

 日本の半分の県から国立大学が姿を消しかねない――。国立大への国の運営費交付金の配分方法について、経済財政諮問会議の民間議員が「競争原理の導入」を提言したのに対し、文部科学省がこんな試算をまとめた。国立大の危機感を背景に一定の前提を置いて計算したもので、諮問会議側を牽制(けんせい)する狙いがあるとみられる。

 発端は、日本経団連の御手洗冨士夫会長ら民間議員4人が2月末の諮問会議に出した提言。運営費交付金が、学生数や設備などに連動して配分されている現状に疑問を投げかけ、配分ルールについて「大学の努力と成果に応じたものに」などとの改革案を示した。

 3月上旬に都内であった国立大学協会の総会では、学長らから悲鳴に近い訴えが相次いだ。「日本の大学教育がほろびかねない」「地方の大学は抹殺される」

 このため文科省は、競争原理を導入した際の各大学の交付金の増減を試算した。研究の内容や成果に従って配分されている科学研究費補助金(科研費)の05年度獲得実績に基づいて計算aすると、全87校のうち70校で交付金が減り、うち47校は半分以下となって「経営が成り立たなくなる」(文科省)との結果が出た。国立大がなくなるとされたのは秋田や三重、島根、佐賀など24県。私立大も少ない地方が多く、地元大学への道が狭まりかねないとする。

 文科省は最近、国立大に対する補助金に「競争的資金」を増やしてきた。科研費のほか、世界的な研究拠点を目指す大学に対する「21世紀COE」などがある。その文科省も運営費交付金については「人件費や光熱費などをまかなう、人間で言えば三度の食事のようなもの」として、大幅な見直しには否定的だ。

 諮問会議の民間議員は改革案を6月ごろに閣議決定される「骨太の方針」に盛り込みたい考えだ。今後、国立大側が反発を強めるのは必至で、議論は紛糾しそうだ。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200703170284.html


 地方大学は、理工系と言っても大都市の大学に比べれば情報量や刺激が少ない。それでも、一部の教師は頑張って外部資金の導入に努力しているが、旧帝大や旧六医専校に較べれば、科学研究費の配分において不利である。また、東京、大阪、京都、名古屋などの大都市にある大学へは、質の高い学生が入学する可能性が高く、彼らと共に進める研究は、成果は上がり易い。

 理工系や医学部系統は、地方でもまだ何とかやれる側面がある。従来からの企業との付き合いが一種の財産または保険になっているからだ。その年度に成果が出なくても、「付き合い料」として奨学寄附金を支給してくれる奇特な企業は存在する。それは、教師の個性、あるいは研究分野に依存する場合が多い。だが、文系の学部では、殆どそれは期待出来ないし、図書費、または学会交流の出張旅費にも事欠く状態となる。

 高等教育機関は、経済界への人材供給、科学・技術の基礎的発展を担うと共に、歴史と文化の維持を行う、それが先進国においては求められよう。大学がその役目を放棄し、経営のための短期的プロジェクト指向に重点が移れば、原理・原則を探求する姿勢は甘くなり、独創的な発想は生まれる余裕は出て来ない。それが教育に影響すれば、取り返しの付かないことになると想像する。

 理系でも、地理学・地形学などは具体的な儲けに繋がらないから財政的支援は大学に頼らざるを得ないだろう。地震が起きるとこの分野は多少は脚光を浴びるが、普段は地道な教育と研究に明け暮れる。このままで行くと先細りの滅び行く分野になってしまいそうだが、実に寂しい話である。

 私は、我が国の文化維持の観点から、行き過ぎた競争化を大学運営に持ち込むやり方は、国家姿勢として考え直して欲しいと願う。自国の高等教育に多少の「無駄」があっても良いではないか。地方大学には、その地方の文化を担う機能のあることを忘れないで欲しい。
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