陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

少年老い易く 学成り難し・・・

2011-09-25 08:17:23 | 読書・映画・音楽
 陽光の溢れた早朝、コーヒーカップを持って、2階のベランダに出る。随分と肌寒くなった。気温10℃。秋分の日を過ぎて、これから昼間の時間が短くなる。

 9月12日は、旧暦の8月15日。満月、別名「」の日である。この日は、観月をすっかり忘れて、早目に寝てしまった。だから煌々(こうこう)と照る円月の姿を見逃した。翌日、十六夜(いざよい)の月をのんびりと眺めた。十五夜の月も十六夜のそれも、さして大きさや明るさには変わりは無さそうだ。その夜は、庭のテーブルで、枝豆を食べながら冷酒を楽しんだ。

 あれから早くも2週間経過。雲ひとつ見当たらぬ蒼穹(そうきゅう)を見上げるのは久し振り。遠方の青み掛った山影が、視力の弱った眼にもくっきりと見える。目先の堤防では、橙色の藪萱草が姿を消し、今は芒(ススキ)が微風に揺れている。

 半年前、その場所には淡い残雪を割るようにして、蕗の薹(とう)が沢山見られた。眼下に見える柿の木は、紅葉には早いけれども、芝生の上に沢山の枯れ葉を落としている。将に、初秋を感じさせる風情だが、未だアキアカネ(=トンボ)の姿は見えぬ。

 何となく、朱熹(しゅき)の有名な七言絶句を思い出した。


<偶成>    朱熹

少年易老學難成

一寸光陰不可輕

未覺池塘春草夢

階前梧葉已秋聲

少年老い易く学なり難(がた)し
一寸の光陰軽(かろ)んずべからず
未だ覚めず池塘(ちとう)春草の夢
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声

 池塘(ちとう)は、池の回りの小さな堤;梧葉(ごよう)は、青桐。

 この絶句は、前半だけは良く知られている。青少年へ学業に専念努力を促すためだ。でも、私のような老人には、転じて詠ずる後半部がずっしりと重みを持って強い印象を与える。

起:若い頃は沢山面白いことがあって、どんどん時間が過ぎて行く。
  だが、学問を修めることは余り進まない。

承:そんなわけで、少しの時間を惜しみつつ、
  努力する心を軽視してはいけない。

転:若い頃は、池の小さな堤で萌出る春草のように
  元気一杯で沢山の夢があった。

結:しかし、今は階段の前にある青桐が色付き始めたように
  早くも秋の訪れを感じるような老境に浸っている。

というような意味で、学問精励の時期は短かったな、年を取って振り返ってみると、大した事も出来なかったというような感慨と自省の気持ちを吐露。背景には、東洋的な諦観が流れている。



 この掛け軸は、15年位前に広州で入手したもの。誰の揮毫(きごう)か分からないが、中々の達筆だ。

 サミュエル・ウルマンの「青春の詩」は、これとは全く逆の人生観で、どんなに年を取っても、心だけは青春を維持したいとの渇望がある。過去エントリー(下記参考)に、その全文を紹介したが、部分的に示すと

サミュエル・ウルマン <青春> より引用

青春とは、人生のある期間を言うのではなく
心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、
怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,
こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。(中略)

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる・・・



と続くが、若い人達にも参考になる内容と思う。

 政界の老醜・国会議員なら、ウルマンの言う通りだと感涙に咽(むせ)ぶであろう(笑)。カネと名誉、そして権力闘争に明け暮れ、人間性を忘却した心にも響くものがあるはずだ。

 話が逸れたが、「古希」(=70歳)を過ぎた年寄りは、過去の業績などスッパリ忘れて、只管(ひたすら)謙虚に生き、後世代に任せたらどうかと言いたかった。

 朱熹の<偶成>は、別人の作との研究もあるが、時代を越えて愛唱される絶句として、これからも忘れられないだろう。


参考:

 新党「たちあがれ日本」の発足を祝う
http://blog.goo.ne.jp/charotm/e/5c9e4eb6bfb6bacc522c81921e3298e4
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