ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

人権359~ネイションの主体性を尊重した支援を

2016-09-30 09:46:56 | 人権
ネイションの主体性を尊重した支援を

 現在の国際社会は、主権国家が集合した社会であり、主権を越える権利義務関係は現実に存在しない。人々の権利の保障には、主権国家の政府やそれに準ずる統治機構が必要である。各国は主権を有するからこそ、独自の正義観に基づいて自国の貧困対策や格差是正を行うことができる。
 コスモポリタンの思想は、個人本位のために、ネイションの独自の役割を認めず、そのため人々の権利の保障や貧困対策、格差是正の実現を危うくするものである。ネイションの自決の権利は、国民的な集団が持つ重要な権利である。コスモポリタンは、自決の権利を否定することで、各ネイションに属する人々が集団のレベルで持つ権利を認めないことになる。
 反コスモポリタンのロールズは、「道理をわきまえた自由な諸国の民衆」と「良識ある諸国の民衆」には、「重荷を背負っている社会」への「援助義務」があると説いた。ロールズの援助義務とは、グローバルな配分的正義を目指すものではなく、「重荷を背負っている社会」が自らの政治文化を変化させ、正義に適った制度を自らの力で確立できるようになるまで、各種の援助を提供することである。その社会が、「自由な社会」または「秩序ある社会」になれば、それ以上の援助を続けて、全面的な平等を目指す必要はない、とロールズは説く。
 穏健なコスモポリタンに理解を示すミラーは、先進国に対してはネイションとしての責任、すなわち過去の行為と現在の制度等の結果責任、またそれに相当する救済責任の自覚を求め、一方、発展途上国に対してはネイションとしての主体性を発揮するよう促す。
 私は、ネイションの自決の権利を認めた上で、ネイションの自助努力を促し、またはそれができるところまでの支援をするという考え方が妥当だと思う。ネイションの役割を再評価し、ネイションの能力を発揮することによって、貧困や不正義の改善を図るべきである。
 私見を続けると、ある程度民主化がされ、討議による統治が行われている国家については、その国の政府によって人権が保障されることを期待できる。政府によって国民の最低限の基本的人権が擁護されるようになれば、自然災害や紛争難民の発生などの特別の場合を除くと、国際的な人権の保障の必要性は生じない。他国からの援助は切迫した状態に置かれた人々を救済するための緊急対応や、その国の政府が所得の再配分を行う能力を得られるように支援することに限定される。支援は、ある段階まで直接的な援助を行ったら、後は自助努力を促すことに切り替えるべきである。無制限な支援は、その国の政府が自らなすべきことを果たさずに、他国の援助に頼る恐れがある。ミラーは、人間には他者依存性と自己責任性の両面があるという見方をしているが、自主的な責任遂行能力があることを軽視して、ただただ他者に依存せざるを得ないものと人間を見ることは、間違っている。支援の原則は、自助自立できるように支援することでなければならない。
 コスモポリタンの中には、グローバルな不平等や格差の根本的な解消を目標とし、大規模な制度の改革を説く者がいる。貧困死を完全に撲滅するまで、徹底的に資源や所得の再配分を進めるべきだという意見もある。だが、国際社会は、既に2000年のミレニアム・サミットで、世界の貧困を半減する等の目標に合意している。先進国はGNIの0.7%を拠出するという合意がすべての対象国で実行されれば、世界の貧困半減等の目標を実現し得る可能性がある。2015年までという期限までには達成できなかったが、その原因の一つはこの実行を監督し、促進する仕組みがしっかりできていないことによある。まず、そうした仕組みを作ることが急務である。その中心となる国際機関は各国に拠出を履行させる強制力は持たないが、各国の政府と国民に強く呼びかけ、実行を迫る勧告的な影響力は発揮し得るものとすべきである。
 もし他国がその国の政府の意思を無視して介入するなら、内政への干渉であり、主権の侵害となる。ただし、ある国が自力で社会正義を実現できない場合、またはその政府自体が大きな不正義を生み出している場合にどうするかという問題がある。ネイションの自決の権利を絶対不可侵の権利とすれば、国際社会は、どのような事態においても問題の当該国に全く関与できないことになる。関与は、内政干渉の原則の否定となる。だが、近年、国際社会では、人権を侵害されている人々を「保護する責任」があるという論理で、「人道的な介入」を肯定する考え方が出ている。仮に介入する場合は、それができるのは、一国ではなく主権国家の連合体となる。個人や民間団体、主権に当たる政治権力を持たない国際機関では、あまり実効性のある活動は展開できない。国家ではなく個人や民間団体なら当該国が受け入れるという場合もある。ただし、その人々の生命を守るためには、ネイションを基礎とした軍隊の力が必要となる。「保護する責任」の実行には、ネイションと非ネイションの団体との連携が必要だろう。
 主権も人権も絶対的なものではなく、もとをたどればどちらも人間の権利の相互承認による。主権と人権のどちらを優先するかは、個別具体的な事例に応じて検討されねばならない。国際的な議論を通じて、主権と人権の相互関係のあり方に関する合意を積み重ねていくことが必要だろう。国家の主権を絶対的とすることも、個人の人権を絶対的とすることも、どちらも硬直した考え方であり、現実の国際的諸問題に有効な対応を妨げると私は考える。
 この項目では、正義をめぐる現代の諸思想として、自由主義(リベラリズム)、コミュニタリアニズム、ケイパブリズム、コスモポリタニズム、リベラル・ナショナリズムについて比較・検討を行った。これらの思想は互いに批判をし合いながら、人権と正義に関する議論を繰り広げている。今日人権を論じる上で、これらの思想の検討は不可欠の作業となっている。

 次回に続く。
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蓮舫氏の二重国籍事件~公人としての責任を問う3

2016-09-29 10:20:41 | 時事
●二重国籍を問題視しない民進党

 問題が拡大するなかで、民進党内部では、9月15日の代表選を前に、党員・サポーターによる投票が行われた。ここで衆議院議員・松原仁氏が、「代表選の延期も検討すべきだ」との考えを表明した。二重国籍疑惑に関して、「党員・サポーター投票が終わる前に明快にする必要があったのではないか」と述べ、「代表選のやり直しも議論すべきだ」と主張した。
 代表選の前日である14日、松原氏ら民進党の国会議員有志20名が、岡田克也代表、枝野幸男幹事長(当時)に声明を出した。国籍に関する疑惑を書いて、蓮舫氏の問題に「民進党の存亡」がかかっているとの認識を示し、代表選の見直しを要望した。
 民進党執行部は、代表選の実施前に、蓮舫氏が中華民国内政部発行の「喪失國籍許可證書」(国籍離脱証明書)を取得できているか、書類の提出を求めるべきだった。蓮舫氏が現時点で日本国籍のみを所有するのか、二重国籍者なのかを確認することは、公党として最低限の義務である。だが、そのような最低限のことすら行わずに、民進党は代表選を実施した。蓮舫氏は、他の候補に大差をつけて圧勝した。こうして二重国籍を持つと見られる者が、野党第一党の代表となった。前代未聞の事態である。
 民進党は、今年(平成28年)7月の参議院選挙で岡田代表が日本共産党との選挙協力で容共路線を取った。それから、急速に左傾化している。中国・韓国・北朝鮮の特定アジア反日連合の代理政党とでもいうべき性格を強めてきている。岡田氏の民共合作路線に追従したことで、同党の保守系リベラルから日本的保守の残滓がさらに抜去されつつある。このような政党に合流した旧維新系の議員も、日本人の魂を失ってしまったようである。
 かつて「在日の中国国籍」と公言し、最近「台湾は国ではない」という認識を表明した蓮舫氏が代表に選出された。蓮舫氏は、台湾よりも共産中国との結びつきが強いと見られる。このままでは、民進党は、日共との民共合作だけでなく、中共とも連携する第二共産党に変質していくだろう。
 蓮舫氏を代表とする体制に反発する議員は、民進党を離党して、独自の行動をとる可能性がある。蓮舫氏を代表にしたことは、民進党の分裂・衰退の引き金となるだろう。

●これから追及は本格化する

 蓮舫氏が民進党の代表になったことで、二重国籍事件の追及は本格化した。有名ブロガーの池田信夫氏は、今回の蓮舫二重国籍事件で、重要な発言をし続けてきた。蓮舫氏が民進党代表になった後も、注目すべき発言を、Twitterやfacebookで発し続けている。池田氏は、代表戦が行われた時点では、確認できていなかった重大な事柄を指摘した。抜粋にてまとめさせていただく。

 「台湾政府はまだ蓮舫の国籍喪失申請を認めていない。もし台湾が申請を却下したら彼女は日本国籍を失って在日台湾人になり、国会議員の地位を失う」
 「台湾の国籍法では無効になった旅券などをいったん有効にしてからでないと国籍喪失の手続きができず、そのためには(二重国籍は禁止なので)日本国籍を離脱する必要がある。台湾政府が蓮舫だけにその例外を認めるかどうかは政治的判断だが、数ヶ月はかかるだろう。」
 「台湾国籍を喪失するには旅券を「有効化」しないといけない。旅券更新のためには(日本と同じく)「他の国籍がない」証明が必要で、日本国籍をいったん抜く必要がある。蓮舫氏がそれをやった瞬間に国会議員の資格を失う。」
 「台湾の国籍喪失には「現在有効な旅券」が必要だ。彼女はいったん日本国籍を離脱しないと旅券を更新できないが、その瞬間に議員資格を失う。」
 「2006年以降に(参議院議員として)旅券を更新した疑いもある。これはこれで「故意の経歴詐称」の動かぬ証拠。証拠は台湾政府がもっている。」
  「日本の旅券法も同じ。申請のとき「外国籍がない」と書かないと旅券は更新できない。蓮舫がそれに違反していることは確実」
 「おそらく「私の旅券は1985年に失効した」というのも嘘。証拠は台湾政府が握っているので、それが出てきたらアウト。私は今まで彼女の話を信用していたが、旅券が失効していたら、そもそも国籍喪失申請が受理されない。」
 「彼女の話を信じないで、ありそうな事実を考えると「今も有効な旅券をもっており、台湾国籍があることも知っていたが、首相をねらうために2013年から嘘をつき始めた」。故意が立証できれば、検察は公選法違反で起訴できる。証拠はいっぱいあるが、必殺の証拠は台湾政府がもっている。」
 「旅券法違反は大した話じゃないが、彼女の旅券の話が嘘だとすると公選法違反で起訴できる。これが本筋。」
https://twitter.com/ikedanob?lang=ja
https://www.facebook.com/ikedanob?fref=ts

 池田氏は、重要なことをいくつも指摘した。私見を述べると、蓮舫氏は台湾人を怒らせ、台湾政府の幹部も怒っている。彼女の国籍喪失申請を特例的な形で認めることをせず、法規に従って日本の国会議員の資格を失わせたり、蓮舫氏の不正行為の証拠を示して日本の検察に起訴させたりする可能性があると見られた。
 しかし、結局、台湾政府は蓮舫氏の申請を受けた。蓮舫氏は、9月23日に台湾籍の離脱の手続きが完了したと記者会見で報告した。9月6日に申請してから、約17日後のことである。台湾の法律では、国籍喪失には2ヶ月かかると定められているという。短期間での手続き完了は、台湾政府が蓮舫氏に対して例外的な措置を取ったと考えられる。また、実は、蓮舫氏は、失効したのではなく有効な台湾のパスポートを持っていて、ウソをついていたとも考えられる。わが国の旅券法・公選法に違反する疑いが強い。国籍喪失証明書と台湾パスポートの記載内容を公開すれば、事実と虚偽を確認できるはずである。公権力による調査が必要である。

 次回に続く。
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人権358~コスモポリタニズムにはグローバリズムに利用される恐れも

2016-09-28 07:35:50 | 人権
●コスモポリタニズムにはグローバリズムに利用される恐れも

 ロールズ、コミュニタリアン及びリベラル・ナショナリストは、程度の差こそあれ、コスモポリタニズムに危険性を認め、これを批判する。
 コスモポリタニズムに潜む危険性をいち早く警告したのは、タミールの師バーリンだった。バーリンは、著書『反啓蒙主義』で次のように述べている。「所与の共同体に属し、共通の言語、歴史の記憶、習慣、伝統、感情などの解き放ちがたい、また目に見えない絆によってその成員と結ばれていることは、飲食や安全や生殖と同様に、人間が基本的に必要とするものである。ある国民が他の国民の制度を理解し、それに共感できるのは、自らにとってその固有の制度がどんな大きな意味を持っているのかを知っているからに他ならない。コスモポリタニズムは、彼らを最も人間らしく、また彼らを彼らたらしめている所以を捨て去ってしまうのである」と。
 バーリンは、私的領域の不可侵性を守ろうとする消極的自由主義を唱えた。また、ナショナル・アイデンティティのもとになる文化的ナショナリズムを提唱し、排他的・攻撃的なナショナリズムを批判する一方で、コスモポリタニズムを批判した。自らの拠り所であるユダヤ文化を保持・防衛するとともに、西方キリスト教的・近代合理主義的な普遍主義への警戒を表したものだろう。
 コスモポリタニズムは、各国の国民をアトム的な個人へと分解する。その個人に人類の一員としての普遍的な道徳的義務の履行を要求する。そこには、グローバル正義を一元的な価値とし、すべての人がそれに従って行動しなければならないという思想傾向がある。
 イギリスの政治学者シャンタル・ムフは、次のように言う。「等しい権利と義務を持つコスモポリタンな市民からなるコスモポリタン的デモクラシーが可能であると信じること、これらは危険な幻想でしかない。仮にこの企図が実現されたとしても、自らの世界観を惑星の全域に押し付け、また、自らの利益を人類の利益と同一視しながら、あらゆる不同意を『理性的な』リーダーシップに対する不正な挑戦とみなす支配的権力による世界大のヘゲモニー状態を意味するであろう」と。
 コスモポリタニズムは、ネイションを否定するグローバル化・ボーダーレス化をよしとする。その点では、巨大国際金融資本によるグローバリズム(地球統一主義・地球覇権主義)と思想を共有する。グローバリズムは、ネイションの枠組みを解体し、個人単位の思想を徹底し、世界単一市場、世界政府の実現を目指す。その行き着く先は、ごく少数の資本家・権力者と、彼らに管理される大多数のアトム化された諸個人の集合という二極化した社会となる。
 グローバル正義を説くコスモポリタンは、ネイションに基づく国際的な制度を変え、富裕国の政府や多国籍企業の活動を規制しようとするが、逆に巨大な富と権力を持ったグローバリスト(地球統一主義者・地球覇権主義者)に利用される恐れがある。
 コスモポリタニズムの中には、アナキズムに近い国家否定の思想がある。そうした急進的なコスモポリタニズムは、ネイションの役割を全否定することによって、グローバリズムの横行を許す。また、全体主義国家の覇権主義的な行動に対抗できず、武力による統治を招く。国民国家の解体と諸個人のアトム化は、強欲資本主義による世界単一市場と、情報管理技術を用いる強権的な統一政府による世界支配を誘導してしまうことになる。
 ネイションが解体されてしまえば、グローバリストから集団の権利、個人の権利を守るものはなくなる。私は、急進的なコスモポリタンの目指す社会はグローバルな超高度管理社会に転じかねないと考える。また、コスモポリタンとグローバリストの思想に一神教的価値観の戦闘性や、フランス革命における理性崇拝の狂信の残響を聞く。
 コミュニタリアニズムは、近代西欧的な自己像を転換し、共同体の重視を主張することにより、コスモポリタニズムの対抗思想になっている。しかし、関心をローカルまたはエスニックな共同体に集中することにより、世界的な問題に積極的に関与しようとしない傾向がある。
 私は、安易で独善的なコスモポリタニズムに反対し、また偏狭なコミュニタリアニズムに陥ることなく、各ネイションでそれぞれの文化・伝統・習慣に合った形で自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値が実現することによって、世界全体でそれらの価値が実現される道を構想すべきと考える。
 欧米に現れた正義をめぐる諸思想のうち、個人主義的なリベラリズムはグローバリズムに対抗できず、また個人主義的なリベラリズムを徹底するコスモポリタニズムは急進化すると、グローバリズムを助長する恐れがある。また、ローカルまたはエスニックな共同体に関心を集中するコミュニタリアニズムも、グローバリズムに対抗できない。私は、ネイションの役割を再評価し、リベラル・デモクラシーとナショナリズムを総合するリベラル・ナショナリズムのみが、グロバーバリズムへの対抗軸となり得る、と考える。
 巨大国際金融資本が推進するグローバリズムから、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を守るには、ネイションの役割を再評価し、諸国家・諸民族が共存共栄する世界を目指す必要がある。ネイションを単位とした集団の権利が確保・拡大されてこそ、個人の権利も確保・拡大される。本稿は、人権について、このような考えのもとに、批判的な検討を行うものである。

 次回に続く。 
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蓮舫氏の二重国籍事件~公人としての責任を問う2

2016-09-27 08:49:47 | 時事
蓮舫氏はウソにウソを重ねた

 9月11日の記者会見で、蓮舫氏は「二重国籍疑惑はない」と強調した。だが、ネットユーザーの調べで、9月11日までに、台湾政府の官報の国籍喪失者のリストに、蓮舫氏の名前はないことが報告された。日本国籍がちゃんと取得されているとすれば、蓮舫氏は二重国籍となっていることが明確になった。そして、翌12日に、台湾政府から台湾国籍が残っていることが、蓮舫氏に伝えられた。日本国籍取得以降、約31年間、ずっと二重国籍だったと考えられる。それなのに、「台湾から帰化した」と経歴を詐称していたのである。
 この時点で、蓮舫氏が、前の週まで台湾のパスポートを所持していたことも判明した。パスポートを持っているということは、自分には台湾の国籍があるという意識を持っていたということである。パスポートには有効期限がある。この約31年間の間に、いつ更新し、いつ失効したのか、いつ渡航歴があるか、証拠を示して説明すべきだった。それをしないことで、疑惑は強まった。
 このころネット上で、蓮舫氏は、平成25年(2013年)に台湾に国会議員として出張したことが、明らかになった。二重国籍者が、台湾に入国する場合は、日本のパスポートではなく、台湾のパスポートを使用しなくてはならない。その時点で、台湾のパスポートは有効だったはずである。だから、台湾の国籍が残っていたのを知らなかったというのは、この点でも、真っ赤なウソである。また2013年後にそのパスポートが失効したというのか、それとも実は有効なパスポートを持っていて、悪質なウソを言っているのか。こうしたことは、台湾のパスポートのコピーと内容が示されれば、明らかになる。
 中華民国は国籍離脱の際、パスポートの返却を要件としている。帰化申請を多く扱っている行政書士によると、台湾の国籍喪失許可には、現在有効なパスポートを添付しなければならない。期限が切れて失効したパスポートではダメである。失効したパスポートを持っている人は、新しいパスポートに更新したうえで、国籍喪失許可申請をしなければならない。更新には、普通相当期間かかるという。台湾政府に国籍が残っていると通知されたのが12日であり、それから新たなパスポートを作って申請するとなると、民進党代表選が行われる9月15日の時点で喪失許可が出ているかどうかが疑われた。後で明らかになったのだが、ここには、極めて重大な問題が伏在していた。

 こうした状況で、蓮舫氏は二重国籍疑惑をごまかすために、一つの中国論をぶって、「台湾は国家ではない」という発言をした。台湾は国家ではないから、台湾籍を持っていても、二重国籍にはならないという理屈である。この発言は、台湾でトップニュースになり、台湾国民が激怒していると、台湾のネットユーザーが伝えた。
 蓮舫氏にとって台湾は父の国である。台湾人は父祖を大切にする。それだけに台湾は国ではないとする発言は、台湾人を憤激させた。事態は、台湾政府が正式に日本国外務省に通達を出すという国際問題に発展した。
 一般の国では大使に相当する駐日台北経済文化代表処の謝長廷代表は、日本国外務省に次の主旨の通達をした。「台湾の国民(蓮舫)が日本の国会議員になるなんておかしい。これは国際問題だ。蓮舫は正真正銘の台湾人なのに、それを国会議員にした経緯を説明せよ。日台間の条約を変更するのであれば正式に通達しろ」と。わが国政府の対応があいまいだと、問題が拡大するおそれがある。
 謝長廷氏は、台湾民進党の政治家である。蓮舫氏は、元の名が謝蓮舫で、台湾民進党幹部に親族がいると伝えられる。彼女の身勝手な発言が、台湾人を本当に怒らせ、国際問題を引き起こしたのである。

 蓮舫氏の二重国籍疑惑について、マスメディアの多くは、なかなか積極的に取り上げなかった。ネットで問題が知られてから、9月上旬に最初に報道したのは産経新聞である。それに数日遅れて、全国紙最大手の読売新聞が、12日の社説で取り上げ、蓮舫氏を厳しく批判した。同じ日、フジテレビが、蓮舫氏は平成5年(1993年)の朝日新聞で「在日の中国国籍」としていたことを放送した。
 こうしてマスメディアの一部が二重国籍問題を報道するに至って、蓮舫氏は、13日の記者会見で、二重国籍について、ようやく謝罪した。「17歳のときに抜いたという認識だったが、台湾籍が残っていた」と明らかにし、「私の記憶の不正確さによって、さまざまな混乱を招いたことは、本当におわび申し上げたい」との謝罪だった。しかし、その発言にはまたウソがあった。「台湾籍が残っていたのは知らなかった」と説明したのは、真っ赤なウソである。先に台湾のパスポートについて書いたが、台湾籍があるからそのパスポートを持っており、また使っているのであって、「知らなかった」とは、まったくひどいウソである。

 しかも、本人が自分は「二重国籍」と過去に公言していた。ネットユーザーの調べで、蓮舫氏は、平成5年(1993年)に、週刊現代の対談で「二重国籍」と自ら語っていることがわかった。対談の相手は、作曲家の三枝成彰氏である。

 三枝 お母さんは日本人 ?
 蓮舫 そうです。父は台湾で、私は、二重国籍なんです。

 蓮舫氏が、このように自分は二重国籍だと語っていた。自分が台湾籍を持っていることを、明確に認識していたのである。
 また、蓮舫氏は、週刊現代の記事と同じ年に、「在日の中国国籍の者としてアジアからの視点にこだわりたい」とテレビ朝日のキャスターとして朝日新聞紙上で発言していた。「中国籍」という表現だが、その意味は、台湾籍を中国籍とみなす「一つの中国論」の考え方にたつものだろう。
 蓮舫氏は、平成9年(1997年)に雑誌「CREA」(文芸春秋社)では、自分は台湾籍だと発言している。「自分は台湾籍なのですが、父のいた大陸というものを一度この目で見てみたい、言葉を覚えたいと考えていました」と。この発言は、蓮舫氏がニュースキャスターを辞め、ジャーナリストとして活動していた時で、参院選に出て政界にデビューする前である。ここで、「父のいた大陸」と言っているところから、父親は台湾人といっても外省人で、蓮舫父子のアイデンティティは、台湾ではなくシナ大陸にあると考えられる。そして、蓮舫氏は、日本人としてのアイデンティティは、持っていない。二重国籍だとしても、日本に対する愛国人は持っていない。日本国民であることの誇りはなく、むしろ嫌悪感を持っていると推察される。
 先に書いたように、蓮舫氏は、平成5年(1993年)の週刊現代の対談では、日本と台湾の「二重国籍」と語り、同じ年の朝日新聞では「在日の中国国籍の者」と語り、 平成9年(1997年)の「CREA」では「自分は台湾籍」と発言している。自分の国籍についてすら正確な認識をしていない。国籍について、これほどいい加減な意識を持っている人間は、国政を担う資質を欠いている。また、過去の自分の発言を記憶していない。話をするたびに内容が変わる。そのような人物が国政に関わるには、能力に問題がありすぎる。

 次回に続く。
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人権357~リベラル・デモクラシーの押し付けは避けるべし

2016-09-26 09:38:11 | 人権
●リベラル・デモクラシーの押し付けは避けるべし

 自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を実現しようとする思想を、広くリベラル・デモクラシー(自由民主主義)ということができる。リベラル・デモクラシーは、リベラリズムとデモクラシーの融合によって形成された思想である。今日の自由主義(リベラリズム)、コミュニタリアニズム、ケイパブリズム、コスモポリタニズム、リベラル・ナショナリズムは、社会的諸価値の理解に違いはあるが、リベラル・デモクラシーの諸流派である。
 現代のリベラリストの代表的存在であるロールズは、世界の諸社会を「道理をわきまえた自由な諸国の民衆」「良識ある諸国の民衆」「無法国家」「重荷を背負った社会」「仁愛的絶対主義の社会」の5つに分けた。この分類では、リベラル・デモクラシーは「道理をわきまえた自由な諸国の民衆」に共通する思想と言える。「諸国民衆の法」制定の試みは、まずリベラル・デモクラシーの国々で「重なり合う合意」を築き、それによって得られた「自由(リベラル)な正義」に基づく「諸国民衆の法」を、自由(liberal)ではない、イリベラル(illiberal)な社会に拡張しようと考えたものと言える。自由ではない社会とは、反自由主義的であるか、リベラル・デモクラシーを採用していない社会と理解される。民衆の政治参加が広く実現しておらず、政治的自由権が構成員に保障されていない社会である。
 ロールズは、自由ではない社会のうち、「良識ある諸国の民衆」とは相互理解が可能であり、双方が受け入れることのできる「諸国民衆の法」を制定することが可能だとした。ロールズは「良識ある諸国の民衆」の例としてイスラム教国家を揚げているが、これはイスラム教諸国のすべてではない。宗教的伝統を堅持し、欧米的な民主化の行われていないイスラム教国家は多い。ロールズの理論では、そうした国々との対話は困難であることが認識されている。さらに、自由ではない社会のうち、「無法国家」に対して、ロールズは、「諸国民衆の法」を支持する諸国民衆の社会が自らの安全と安定を守るための交戦権を論じ、「正戦」の条件を規定しようとした。
 ロールズに反発するコスモポリタンは、個人主義を規範的な原理とし、非西洋文明の諸社会に対してもリベラル・デモクラシーの実現が可能と考える。ロールズの姿勢に比べると、コスモポリタンの姿勢は安易である。宗教的伝統を堅持し、欧米的な民主化は行われていないイスラム教国家に、欧米諸国がどのように対応するか。さらには、覇権主義的または冒険主義的な行動を取る国家や国際テロリズムの拠点となっている国家に対して、どのように対応するか。こうした国際社会の現実的な課題が、コスモポリタンには切実な事柄として意識されていない。その上、独善的でもある。
 ロールズは、ベイツのコスモポリタン正義論を批判した。ベイツはグローバルな原初状態を想定するが、原初状態の契約当事者が第一原理を採用するとすれば、政治的構想によって直ちに人権が基礎づけられることになる。そのことは、自由でない社会も、最終的にはすべて自由な社会に変わるという考え方になる。すると、自由な社会は自由でない社会に対して寛容ではなくなる。自由でない社会は制裁を受けるのが当然の対象と考えることになりかねない、というのが、ロールズのベイツ批判の理由である。
 これに比し、リベラル・ナショナリストは、ロールズ以上にコスモポリタンに対して強い懸念を表明する。コスモポリタニズムは、近代西欧発の政治社会の構成原理を、欧米とは文化や伝統の異なる社会に、画一的に押し付けるものとなってしまうからである。
 リベラル・ナショナリストによると、正義は文化的文脈によって異なる。ここでいう文化は言語を中核的要素とし、文脈とは第一義的には言語文化的な脈絡である。ある社会における社会正義は、その社会における正義であって、どの社会にも一律ではない。ネイションが異なれば文化や社会的経験の違いのため、社会正義の構想もまた異なる。それは多元的かつ個別的なものであってしかるべきだ、とリベラル・ナショナリストは考える。
 一元的な考え方はリベラル・デモクラシーの押し付けとなり、非西洋文明の諸国の反発を引き起こす。リベラル・ナショナリストは、そうした事態を避けるために、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等といった理念の普遍的重要性を認めつつも、諸文明・諸文化に属する人々が自らの文化・伝統・習慣に合った形で摂取すること、すなわち文化要素の主体的な取り入れを尊重する。このときネイションという政治共同体の役割が重要となる。ネイションを否定すると、近代西洋文明の価値は画一的に普及が推進されることになり、「近代化=西洋化」を推進する新たな圧力となる。文明間・文化間の摩擦が大きくなり、反発が対立・抗争へと進む恐れもある。

 次回に続く。
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蓮舫氏の二重国籍事件~公人としての責任を問う1

2016-09-24 10:36:56 | 時事
●はじめに
 
 民進党代表・蓮舫氏の二重国籍事件は、戦後日本初めての国会議員の国籍に関する重大事件である。近代国家・日本で初めての事件と言ってもいい。
 平成28年9月15日、蓮舫氏が民進党代表に選出された。その時点で日本と台湾の二重国籍を持つとみられる政治家が、野党第一党の党首となって、政権を狙い、首相を目指すという異常な事態となった。蓮舫氏は台湾の国籍の離脱を、台湾政府に申請中だった。代表選出の時点で二重国籍であるとすれば、前例のない事態だった。
 9月23日蓮舫氏は、記者会見で、台湾籍を離脱する手続きが完了したと報告した。これで二重国籍が解消されたのだろうが、二重国籍疑惑が起って以来の多くの疑惑や法律違反の疑いは解消されていない。また、そもそも日本国籍を選択していなかったのではないか、という疑問が上がっている。蓮舫氏は、国籍法・戸籍法・旅券法・公職選挙法等に多重に違反している疑いが濃厚である。言葉だけでなく、国籍・戸籍・旅券に関する日本及び台湾の公的文書を示して説明する責務がある。すみやかに、その責務を履行してもらいたい。
 また国会では、しっかり蓮舫氏を追及してほしい。また、検察当局は、厳正な調査を行ってほしい。
 本稿は、蓮舫氏の二重国籍事件について、その展開・問題点・課題について書くものである。

●都知事選から蓮舫二重国籍事件への展開

 蓮舫氏は、今回の民進党代表選に出たことで、国籍がどうなっているのかが問題になった。
 もし蓮舫氏が舛添要一都知事の辞任を受けて、本年7月の都知事選挙に出ていたら、都知事になっていた可能性が高い。当時東京での蓮舫氏の人気は絶大であり、さしもの小池百合子氏も勝てなかっただろう。しかし、蓮舫氏は、国政でやりたいことがある、と言って都知事選に出なかった。蓮舫氏が出ていたら、小池都知事による東京大改革は始まらず、”都議会のドン” 内田茂氏は世間に知られぬまま暗躍を続けていただろう。築地から豊洲への市場移転問題も、全く違う展開となっただろう。
 蓮舫氏は、国政への野心をもって民進党の代表選に出た。同党が政権を取ったら、代表は日本の宰相になる。だから、長年疑いのあった彼女の国籍が、初めて問題になった。問題が拡大するなかで、蓮舫氏は民進党の代表に選ばれた。蓮舫氏の国籍問題を追及する声や議員辞職を求める声が高まっている。
 こうした一連の展開には、大きな流れがあると思う。運気は、東京の改革、日本の再建の方向に大きく流れている。その流れは、舛添氏の公私混同とウソの連発に対する都民・国民の怒り、是正を求める切望が引き寄せたものだと思う。
 ネットでも街頭でもいい。実名でも匿名でもいい。発言し、行動することが大切である。

関連掲示
・拙稿「舛添都知事は、潔く辞職せよ」
・拙稿「大混戦の東京都知事選~都民は賢明な判断を」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion13.htm
目次から36及び37

●二重国籍疑惑の追及

 そもそも蓮舫氏の蓮舫は、姓名ではない。姓(家族名)がなく、名(個人名)だけである。元々の姓は謝といい、姓名は謝蓮舫である。結婚して村田蓮舫になった。だが、彼女は姓を用いず、名だけで政治活動を行ってきた。野球のイチローは、本名は鈴木一郎だが、通称としてイチローを使っている。スポーツ選手や芸能人ならいいが、蓮舫氏は国会議員という公職にありながら、通称を使っている。村田という日本式の姓を使おうとしない。日本人として生き、日本人として国に貢献することを拒む感情があるのだろう。
 蓮舫氏の二重国籍疑惑が浮かび上がると、ネットを中心に、評論家で元通産官僚の八幡和郎氏が、専門的な知識をもとに、二重国籍の疑惑を追及した。ネットユーザーがその掲示を拡散し、また過去に蓮舫氏が新聞・雑誌等で発言したものや台湾の国籍法等を調べて、ネットに掲載した。日本人のユーザーだけでなく、台湾人も参加した。これに対し、蓮舫氏は自分の国籍について、言うことが何度も変わり、ウソを重ねた。
 ある時期には、蓮舫氏は、自分は「生まれた時から日本人だ」と言っていた。これはウソだった。父親は台湾人、母親は日本人であり、昭和42年(1967年)11月28日に蓮舫氏が誕生した時期には、我が国の国籍法は父親が日本人でなければ、子供は日本籍を与えられなかった。蓮舫氏は、17歳の時に父親に言われて、台湾から日本に帰化した、日本国籍を取得したと言った。年齢は、18歳とも言った。いずれにしても、それまでは日本人ではなかったわけである。
 昭和60年(1985年)1月1日に改正国籍法が施行され、母親が日本人である蓮舫氏は日本国籍を取得できることになり、その手続きを行った。これによって日本国籍を取得した。
 ここで大きな問題となるのが、日本国籍を取得した時に、台湾の国籍を離脱したかどうかである。台湾の法律では、20歳にならないと国籍を離脱できない。蓮舫氏は、日本国籍取得とともに台湾の国籍を離脱したと述べていたから、この点でもウソを言っていた。
 蓮舫氏は、平成16年(2004年)に参議院議員になった。その時の選挙の選挙公報で「1985年、台湾籍から帰化」と書いていた。帰化とは、「外国人からの国籍の取得を希望する旨の意思表示に対して,国家が許可を与えることによって,その国の国籍を与える制度」であり、「帰化しようとする方は,無国籍であるか,原則として帰化によってそれまでの国籍を喪失することが必要」と定められている。帰化すれば、日本国籍のみとなる。台湾籍が残っていれば、二重国籍となる。そのことが分かっていて、堂々と帰化したと書いていたのは、公職選挙法違反である。蓮舫氏は、国籍という極めて重要な事柄について経歴を詐称して、国会議員になっていたのである。閣僚まで務めていた。
 本年、蓮舫氏は民進党の代表選に出た。国籍に関する疑惑が高まり、台湾籍が残っているのかどうかを指摘されると、蓮舫氏は、9月6日の記者会見で、台湾籍を除く手続きをしたと発表した。台湾の一般の国であれば大使館に当たる駐日台北経済文化代表処に問い合わせたが、台湾籍があるかどうか「確認が取れない」ので、国籍離脱の手続きをしたのだという。だが、台湾籍を既に離脱しているのであれば、国籍喪失証明書を発行してもらえばいい。その証明書には、除籍の日時が明記されているはずである。それを保持していなかったのだろう。
 9月15日に民進党の代表選が予定されており、この時点で、蓮舫氏の優勢が伝えられていた。一回目の投票で過半数を獲得し、代表に選ばれる公算が大きいと見られた。そうした中で、蓮舫氏は二重国籍疑惑を追及されても、議員を辞職する意思を示さない。また、民進党は国籍問題を重大視する姿勢がなく、逆に二重国籍を許容し正当化する趣きだった。

 次回に続く。
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人権356~リベラル・ナショナリズムのネイション再評価は適切

2016-09-23 09:44:13 | 人権
リベラル・ナショナリズムのネイション再評価は適切

 ここで、仮に国境をすべて廃止した世界を想定してみよう。国家と国家を分ける境界のなない世界である。果たしてそうした国境なき世界で、自由・平等・デモクラシー・法の支配等や本稿の主題である人権という価値は実現可能だろうか。
 個人主義的な自由主義者(リベラリスト)やコスモポリタンは、ネイションは個人を束縛するもの、個人の権利を妨害するものという意識が強い。政治的単位としても道徳的単位としてもネイションが特別の役割を持つことを否定し、またはその関与を排除しようとする。コミュニタリアンは、それらの思想の根底にある近代西欧的な自己像を批判し、共同体の重要性を主張する。コミュニタリアンの中でリベラル・ナショナリストは、ネイションという共同体の働きなくして、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を実現することはできないと考える。私はこの考えを支持する。
 支持する主な理由は二つある。第一の理由は、こうした社会的価値を実現するには、その社会の構成員の間に同胞意識や連帯感、歴史・体験を共有する記憶がなければならないからである。第二の理由は、それらの社会的価値を実現するには、その社会はある程度の閉鎖性と成員構成の安定性がなければならないからである。
 第一の理由である同胞意識と連帯感、共通の記憶について。近代西欧の市民社会は、伝統的な共同体が解体され、共同体の紐帯を失った諸個人の集合となった。しかし、市民社会が近代国家を形成する過程で、近代化以前の伝統、文化、神話、宗教等の共有がネイション形成の重要な役割を果たした。出版技術の発達によって国語が創出・普及され、共通の言語を使用する集団が形成された。人々は集団としての歴史・体験を共にし、一個の国民という意識が醸成されていった。戦争や外部からの圧力が社会統合を促進した。近代国民国家では、階級間の対立や民族間の支配等の闘争的な要素を国内にはらみながらも、一個のネイションとして同胞意識や連帯感、歴史・体験を共有する記憶が生まれた。そして人々が同胞意識や連帯感、共通の記憶で結ばれているから、多くの人々は互いの間で自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を共有することを願うようになった。
 社会正義に関して最も多く議論になる平等については、人々の間に同胞意識や連帯感、共通の記憶が存在し、貧困者に対する同情や共感の感情が働いていなければ、平等な自由、機会の平等、格差の是正を求める動機は生じない。階級対立の激しい社会や民族支配の厳しい社会においては、優位者は劣位者のために、権利の保障や拡大をしようとは考えない。権利は協同的ではなく闘争的に行使されるのみである。
 次に、第二の理由である社会のある程度の閉鎖性と成員構成の安定性について。西欧発の近代国家は、他国との明確な国境、国家に所属する国民、領域における主権を持つ。また国民国家(nation-state)とは、その近代国家が領域内の全住民を国民(naiton)という単位にまとめ上げて成立した国家をいう。領域内の住民は、政治的・文化的に共通の意識を持つ集団へと形成され、国民としての自己意識を持つにいたった。そのようにして形成された政治社会としての「国家」または政治的集団としての「国民」がネイションである。ネイションは、一種の共同体である。共同体は、家族的生命的なつながりと一定の土地における協働を基礎とした共同性を持つ集団である。その共同性は、ある程度、他の社会に対して閉鎖的であり、またその社会の構成員が持続的であることによって、維持されている。常に外部から異文化の人間が多く流入し、また構成員が頻繁に入れ替わっているような社会は、共同性を保ちえない。人々は血縁・地縁による結びつきに生活の基盤を持ち、自分たちの社会が戦争、飢饉、大規模災害等の危機に直面した時にも、協力して困難に立ち向かう。そのことによってのみ、互いに生き延びることができる。生活と運命を共有している人々は、社会的な価値の共有を願うようになる。それゆえ、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値の実現には、ある程度の閉鎖性と成員構成の安定性が必要なのである。
 私は、これら二つの理由によって、ネイションの働きなくして、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を実現することはできないと考える。国際的にこれらの価値の実現を望むのであれば、グローバル化の動きに対抗して、社会の共同性の回復を進める必要がある。この点で、リベラル・ナショナリズムがネイションの役割を再評価していることは適切だと私は考える。
 逆に国境を廃止して完全にボーダーレスとなった世界では、個人を単位とした考え方が強くなり、人々はアトム的な個人へと個別化されていく。家族・親族・地域・エスニックグル―プ等の共同体は、ますます解体される。人々の間で同胞意識や連帯感、共通の記憶は失われていく。また、それまで地理的・歴史的・文化的に分けられていた諸社会は、急速に流動し、とめどなく変化する。常に流動し入れ替わる人々の集合体となった社会では、人々は個人の選好を至高の価値としたり、最も抽象的な価値を表す貨幣を追い求めたりして、それら以外の価値の実現を希求しないだろう。そのような社会にあっては、自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値を新たに実現するのは、極めて困難である。
 自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値の世界的な実現には、国境で区切られたネイションを単位とした国際社会の維持が必要である。国際社会において、個人主義的な自由主義やコスモポリタニズムは、ネイションの役割を否定することにより、観念的に高揚する一方、これらの価値の実現にはあまり寄与できない。コニュニタリアニズムのうち、ローカルまたはエスニックなコミュニティに関心を狭く限っているものは、世界的な課題に対して積極的に関与し得ない。リベラル・ナショナリズムは、ネイションの役割を重視をしていることによって、これらの価値の世界的な実現を推進し得るものとして期待できる。

 次回に続く。
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人権355~コスモポリタニズムとコミュニタリアニズムの比較

2016-09-21 09:40:40 | 人権
コスモポリタニズムとコミュニタリアニズムの比較

 次に、自由主義のうち、コスモポリタニズムとコミュニタリアニズムの論争について、これまでの記述を補足したい。
 前期ロールズの個人主義的かつ修正的な自由主義の思想を継承し、これを国際社会に拡大したのが、現代のコスモポリタニズムである。コスモポリタンは、社会契約論を国際社会に拡張的に適用する。そのため、ロールズの理論的欠陥を引き継いでいる。
 コスモポリタンの思想は、個人主義、普遍性、一般性を三つの要素を共有する。ポッゲの分類によると、コスモポリタニズムには、すべての人が同等な法的権利義務を持つコスモポリタン(世界市民主義的)な制度秩序を提唱する「法的コスモポリタニズム」と、すべての人が互いを道徳的な関心の根本単位として尊重し合うためにコスモポリタンな道徳的規準を提唱する「道徳的コスモポリタニズム」があり、道徳的コスモポリタニズムには、人権を実現するための直接的責任が個々の行為者や集団的行為者にあるとする「相互行為的コスモポリタニズム」と、そのような責任は制度的枠組みにあり、個人の責任は間接的とする「制度的コスモポリタニズム」がある。法的・道徳的、相互行為的・制度的の違いはあるが、コスモポリタニズムは、近代西欧的な個人主義的自由主義を徹底し、ネイションの本質的な価値を否定し、国民国家を単位とする国際社会を認めないことを特徴とする。一面において啓蒙主義的なユダヤ思想に似ているが、ユダヤ思想の主流は、諸民族のナショナリズムを否定しながら、ユダヤ民族のナショナリズムのみは肯定するという自己民族中心主義である。コスモポリタニズムは、シオニズムを含むすべてのナショナリズムを否定する点が、これと異なる。
 コミュニタリアンは集団主義的自由主義者であり、ロールズ及びその批判者であるノージック、ドゥオーキンらの根底にある個人主義的自由主義を批判する。その批判は、自己のとらえ方の違いによる。近代西欧的な自己を、テイラーは「遊離せる自己」、サンデルは「負荷なき自己」と呼んで斥け、人間の本質を、マッキンタイアは「物語る存在」、サンデルは「位置づけられた自己」ととらえる。ただし、コミュニタリアニズムは自由主義の個人主義的形態を批判するのであって、それ自体は集団主義的自由主義の一種である。コミュニタリアン(共同体主義的)な自由主義である。その立場から、個人主義的自由主義を批判するものである。
 コミュニタリアニズムには、コミュニティ一般を重視するものと、コミュニティのうち特にネイションを重視するものがある。前者のコミュニタリアンには、テイラー、マッキンタイア、サンデルらがいる。後者のコミュニタリアンには、ミラー、キムリッカ、タミールらがおり、リベラル・ナショナリストとも呼ばれる。
 コミュニタリアニズムには、狭い形態と広い形態がある。狭いコミュニタリアニズムは、コミュニティの自立と併存を求める。場合によっては閉鎖的、排外的、独善的な傾向を示す。コスモポリタンの課題には賛同しない。広いコミュニタリアニズムは、開放的、協調的だが、文化の保持や移民の制限を求める。穏健的な道徳的コスモポリタンとは対話が可能である。サンデルは自然的義務と連帯的義務の両方を認めながら、前者には消極的であり、コミュニタリアニズムの狭い形態と広い形態の中間に位置する。
 コスモポリタンとコミュニタリアンの間には、自己像の違いがある。近代西欧的な自己像を批判するコミュニタリアンは、家族・地域・民族・国民等の共同体の社会関係の中にいる自己という自己像を以て、コスモポリタンの思想及びその正義論を批判する。
 コスモポリタンとコミュニタリアンの論争は1990年代から活発に行われている。この論争において、コスモポリタンの側から最も激しい主張をしているのは、シンガーである。飢餓で生死の境界をさまよう外国の人々を放置して同国人の福祉を行うことは、「人種差別」にも似た差別を行うことであり、不正だ、とシンガーは批判する。ベイツとポッゲは、シンガーのような極端な主張はしない。外国人と同国人のどちらを優先するかという選択において、無条件で同国人を優先することは倫理的に正しくないと説く。国内社会と同様に国際社会もまた相互依存的な関係を深めているから、外国人と同国人どちらを優先するかという問題は、緊急性や必要性に応じて判断すべき事柄、または公開の理性的な討論によって結論を出すべき事柄であるとする。
 コスモポリタンに対し、コミュニタリアンは反論する。テイラー、ウォルツアーらは、人間は文化を共有する人々の権利義務関係の中で生きるのが本来の姿だと見る。また、地球上に複数のコミュニティがあり、コミュニティごとに正義が異なっている状態が自然だと考える。困窮する外国人と困窮する同国人のどちらかしか救えないという状況であれば、権利義務関係で結ばれ、同じ法の下に暮らす同国人を救うという選択は、倫理的に認められるものだと説く。だたし、彼らは、自国以外の困窮者が放置されてよいと言っているわけでも、人道的な援助に反対しているのでもない。この問題を、グローバルな正義の義務として論じることに異議を唱えるのである。
 こうしたコスモポリタンとコミュニタリアンの論争は、現在も続いている。コスモポリタンとコミュニタリアンは、グローバルな人類社会を志向するか、ローカル(地域的)・エスニック(民族的)・ナショナル(国民的)なコミュニティを志向するかに分かれて、真っ向から対立しやすい。私は、議論を有意義なものにするためのポイントは、ネイションつまり国家・国民・民族のとらえ方にあると考える。コスモポリタンは、個人を究極的な単位とするグローバルな人類社会という観点から国民国家を国際社会の主要な単位とすることに反発し、コミュニタリアンの一部は、ローカルまたはエスニックなコミュニティに関心を集中し、ネイションの歴史的・文化的・政治的な独自性を見失っている。
 私は、第6章で人権とナショナリズムについて書いたが、私見によれば、コスモポリタンもコミュニタリアンも、ネイションとナショナリズムの歴史的・理論的な把握が弱い。この点では、ネイションに焦点を合わせて、コスモポリタニズムとコミュニタリアニズムに対話の場を開くものとして、私が高く評価できる思想が、リベラル・ナショナリズムである。

 次回に続く。
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「外国人土地取得の規制を急げ」をアップ

2016-09-20 10:14:17 | 時事
 9月8~17日にブログとMIXIに連載した外国人土地取得に関する拙稿を編集し、マイサイトに掲示しました。通してお読みになりたい方は、下記へどうぞ。

■外国人土地取得の規制を急げ~北海道の危ない事例
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion13.htm

 目次から38へ
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人権354~正義をめぐる現代の諸思想の比較

2016-09-18 10:14:40 | 人権
●自由主義の諸形態

 本章では、正義論の歴史を踏まえて、ロールズの正義論とその批判者及び継承者の理論と主張について概説してきたが、次に概説で触れた自由主義(リベラリズム)、コミュニタリアニズム、ケイパブリズム、コスモポリタニズム、リベラル・ナショナリズムについて総合的な比較・検討を行いたい。
 まず自由主義(リベラリズム)は、もともと権力の不干渉を求める思想・運動である。これを私は「原初的自由主義」と呼ぶ。バーリンは「~からの自由」と「~への自由」を区別し、前者を消極的自由、後者を積極的自由と呼んだが、原初的自由主義は消極的自由を確保する思想・運動だった。特に資本主義的な経済活動の自由を求め、政府による市場への介入や増税に反対する。干渉排除型または干渉制限型の自由主義である。
 自由主義と民衆の政治参加を求めるデモクラシー(民衆参政主義)は、歴史的に異なる由来を持つが、議会政治の発達するイギリスでこれらが融合するようになった。その結果、生まれたのが、リベラル・デモクラシー(自由民主主義)である。リベラル・デモクラシーは、自由主義の新たな形態であり、政治参加の権利を政治的自由権として獲得しようとする。私はこの段階の自由主義を「古典的自由主義」と呼ぶ。ロック、ヒューム、アダム・スミス、ルソー、カント等、第7章で述べた思想家の多くが、その代表的な論者である。古典的自由主義の中で、人民主導的な形態は民利追求型の自由主義であり、政府主導的な形態は国益実現型の自由主義である。
 古典的自由主義には、自由主義の原初的形態を保持して消極的自由を志向するものと、政治的自由権を拡大する積極的自由を志向するものがある。前者は、リバータリアニズム(自由至上主義)とも呼ばれる。
 やがて自由主義の中に、自由を中心価値としながら、平等を考慮する動きが現れる。これを私は「修正的自由主義」と呼ぶ。修正的自由主義はリベラル・デモクラシーの一種であり、社会権の確保・拡大を求める。これが急進的な場合は、議会政治を通じて社会主義を実現しようとする社会民主主義に近いものとなる。
 上記のように、自由主義は原初的自由主義、古典的自由主義、修正的自由主義という3段階を経て発展してきた。現代社会の自由主義は、デモクラシーとの融合を終えたリベラル・デモクラシーである。そのうち古典的自由主義を継承するリバータリアニズム以外は、修正自由主義に分類される。修正的自由主義は、平等に対する考慮の仕方によって考え方が分かれる。機会の平等か結果の平等か、所得の再配分をどの程度、またどのように行うか、国内だけで考慮するか、国際的に考慮するか等である。
 自由主義には、個人主義的な形態と集団主義的な形態がある。個人主義的形態とは、個人を単位とし、個人の自由と権利の確保・実現を目的とするものである。集団主義的形態とは個人の自由を尊重しつつ家族・地域・民族・国民等の共同性を重視し、集団の発展を目的とするものである。
 ロールズは、個人主義的自由主義者であり、国内社会について社会契約論を用いて正義論を説いたが、『諸国民衆の法』では、国際社会での主体を個人から人民・民衆に替えた。カントやヒュームのような包括的世界観に基づく包括的自由主義から離れ、政治の分野に取り組みを限った政治的自由主義を標榜した。後期ロールズは、国際社会に向けた対外的な局面では、個人ではなく民衆を主体とし、集団主義的自由主義に通じる姿勢を見せた。また国内社会では平等を考慮した修正自由主義の姿勢を示していながら、国際社会では自由を中心とし平等を原理としないことにより、修正的自由主義とは異なる態度を示した。このような変遷を見せたロールズは、幅広い議論を巻き起こす反面、様々な立場からの批判を浴びた。
 人間には、個人性と社会性の両面がある。個人主義的自由主義は、そのうち個人性の側面を重視するが、その傾向を極度に強く示すのが、リバータリアニズムである。現代におけるその代表的論者が、ノージックである。1980年代に伸長した新自由主義はこの系統だが、対外的に自らの思想を力の行使で実現しようとする新保守主義(ネオ・コンサーバティズム)と親和的である。修正的自由主義も個人主義的自由主義の一形態である。その代表的論者が、J・S・ミルと前期ロールズであり、特に平等を重視するのがドゥオーキンである。
 個人主義的な自由主義に対し、集団主義的な自由主義は、個人の自由を尊重しつつ社会性の側面を重視する。ヒューム、アダム・スミスは、個人主義的というより、集団主義的な自由主義者と見るべきであり、ケインズも同様である。集団主義的自由主義の今日的形態が、コミュニタリアニズムである。コミュニタリアニズムは、自由主義の個人主義的形態を批判し、サンデルの用語でいえば「負荷なき自己」に替わる「位置づけられた自己」を主張する。だが、自由を中心価値とする点では自由主義の一種であり、コミュニタリアン(共同体主義的)な自由主義である。
 個人主義的な自由主義には、各国家の中での個人の自由に関心を集中するものと、国家を超えた個人の自由を追求するものがある。この後者が、コスモポリタニズムである。修正的自由主義には、不平等の是正や大規模な所得の再配分の実現を求めるものがあるが、ネイションという枠を超えてそれらの実現を主張するのが、コスモポリタニズムである。
 自由主義は、自由を中心的な価値とする。その自由の概念を掘り下げたのが、ケイパブリズムである。ケイパブリズムの創始者センは、ロールズが自由を常に最優先すること、及び人によって基本財を利用する能力が異なることを考慮していないとして批判し、ケイパビリティ(潜在能力)という独自の概念を生み出した。センは、これによって、同じ基本財でも、それが実際に可能にする自由は、健常者と障害者、富裕者と困窮者等の間で異なることを明らかにした。ケイパブリズムは、自由主義の一種であり、実質的な自由としてのケイパビリティの拡大を目指す自由主義である。これも修正自由主義の一形態であり、国際的な不平等の是正や世界的な貧困の解決に積極的に取り組む思想である。センの協力者であるヌスバウムは、ケイパブリストであるととともに、代表的なコスモポリタンでもある。
 このように、自由主義には様々な形態と展開が見られる。それらに共通するのは、自由を中心価値とする近代西洋文明特有の価値観である。第1部で人権と自由について基礎的な検討をしたが、近代西欧発の人権の核心には自由がある。現代の正義論の諸思想は、そのことを改めて確認させるものとなっている。

 次回に続く。
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