ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

豊洲新市場への移転を延期し、オリンピック=豊洲問題を再検討すべし

2016-08-31 10:21:52 | 時事
 東京都知事選挙によって、東京都の大問題が浮かび上がった。2020年の東京オリンピック工事と築地から豊洲への市場移転工事が、巨大な利権でつながっている。その中心にいるのは、都議会のドンこと内田茂前自民党都連幹事長である。私は、これに関連することを、下記の文章に書いてきた。

 「東京大改革は小池都知事VS“都議会のドン”の戦いから」
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/06de359ebc5ed4c41fb356e0907331f1
 「自民党都連の幹部が辞任へ、良識ある議員は立ち上がれ!
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/0981a53634340d74f84c41af20246721

 さて、上記の拙稿にも書いたが、内田茂都議会議員は、東光電気工事の役員を務めている。落選中に同社の役員に就任した。その後、同社の売り上げが急増している。内田氏は、都議に復帰した後も、同社の監査役を続けている。役員報酬は年間数百万円に上ると見られる。
 地方自治法第92条の2は、地方議員が自治体の事業を請け負う企業の役員を兼ねることを禁じ、違反すればその職を失うと定めている。ただし、同法は第127条の1で、これに該当するには、議会で出席議員の3分の2以上での決定が必要とも定めている。
 都議会議員は、内田氏に対して、違法行為を見逃すのか、勇気をもって問責するのか。都民・国民が注視していることをよく意識し、内田氏の違法行為を追求すべきである。

 内田氏が役員を務める東光電気工事は、豊洲新市場の工事も受注していたことが分かっている。また内田氏が、環状2号線、通称「オリンピック道路」の関連工事を受注している複数の業者から、献金を受け取っていたことも明らかになっている。
 「オリンピック道路」は、内田氏の地元・千代田区神田から江東区有明まで約14キロの道路である。約5キロの虎ノ門-豊洲間は長く未開通だったが、東京五輪招致を目指す中、東京都の整備計画を都議会自民党が支援し、着工が決まった。一昨年には虎ノ門-新橋間が開通し、残るのは新橋-豊洲間の約3.4キロとなった。この区間は、築地市場の敷地内を通る予定である。それが築地市場から豊洲新市場にに移転を急ぐ大きな理由になっている。虎ノ門-豊洲間の総事業費は約4000億円にのぼり、単純計算で1キロ800億円の超高額道路といわれる。
 オリンピック工事と築地市場の豊洲への移転工事は、巨大な利権でつながっている。オリンピックの予算が当初の7千億円から3兆円に膨らんだことには、利権に群がる業者・政治家の思惑がある。小池都知事は、都民・国民への情報公開を急ぎ、オリンピック=豊洲計画を、徹底的に再検討すべきである。

 築地から豊洲への市場移転問題については、元東京都知事の猪瀬直樹氏が経緯を下記に書いている。
http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/38917716.html
 築地→豊洲移転について、1990年代からどのような経緯があったか、基本的な知識を得ることができる。 猪瀬氏は「問題は、2016年7月20日、都知事選の最中、いきなり築地市場の解体工事の入札があったことです。小池知事誕生直前に強行されたと理解するしかなく、ドンの力がはたらいた可能性があります。課題は舛添都知事時代の豊洲入札の透明化、築地解体の透明化でしょう。」と書いている。
 それにしても、11月2日に築地を閉鎖してしまい、7日に豊洲を開設というスケジュールは、強引である。なぜ11月初めなのか、根拠がわからないし、先に築地を閉鎖してしまうのでなく、段階的に移転する方法のほうがリスクは少ないだろう。また、この移転が最後の土壌汚染検査より前に行われ、検査結果の発表は来年明けというスケジュールは、おかしい。普通は、最後の検査で問題なしの結果が示され、安全宣言が出てから、移転だろう。
 豊洲はもともと東京ガスの跡地。環境基準の4万倍以上の有害化学物質が検出されたところ。発がん性のあるベンゼンなどが出ている。そこで土壌工事をしたが、すでに7回も土壌検査をしても、安全宣言が出ていない。検査した場所、サンプル数等も不明です。最後の地下水検査は非常に重要である。食という生命にかかわる場所だから、経済性や利便性より、安全性を最重視した判断が求められる。もし豊洲新市場が地震で液状化して、汚染された地下水が上がってきたら、豊洲のブランドは吹っ飛ぶ。
 ほかにも、豊洲新市場は、仲卸用のブースの間口が50センチほど狭く、今までの作業台や設備が使えない。積み下ろし場所が、横開き型のトラックに対応した設計になっていない。そのため、積み下ろしに時間がかかり、周辺道路の渋滞が予想されるなど、問題が数多く指摘されている。
 4階のコンクリート床の問題もある。構造計算書では、厚さ1センチという考えられない薄さだったが、図面では15センチになっていた。そのため、床が約1100トンも重くなった。これで地震時に耐えられるのか。床が抜ける恐れがあるのではないか、という心配がある。東京都は大丈夫と言っているが、この点も含めた第三者の専門家による全体的な検証が必要である。

 豊洲への移転は、もともと築地の水産仲卸業者は8割以上が慎重または反対で、今は約54%が延期を希望しているとのこと。都が決めたことだからみな従っているが、多数の人たちの納得を得られていない。移転費用の関係で廃業に追い込まれる業者もいる。移転の時期は、市場が忙しい年末年始にかかる時期に強行するのではなく、最も暇な2月に設定しておけばよかったという意見もある。オリンピック道路の建設を優先して、無理やり時期を決めたものと見られる。
 移転の時期・方法等の見直しが必要だが、ただではできない。仮に今から来年2月に延期すると、豊洲の維持費がかかる。また移転を前提で借りている冷蔵庫のリース料等がかかる。補償問題も出てくるので、話は複雑である。しかし、それでも各種の情報を集めたうえで、小池都知事は総合判断すべきである。

 ここは、いったん延期して、全体をチェックし直して、総合判断すべきと思う。巨大利権を追い求める ”都議会のドン” 内田氏が中心になって決めたスケジュール、手順、設計等をそのまま引き継いだら、後々問題は大きくなるばかりだろう。改革は痛みを伴う。しかし、その痛みに耐えて改革を進めることによってしか、東京の再生、日本の再生を行うことはできない。
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人権345~ミラーはネイションとしての責任を主張

2016-08-29 09:33:07 | 人権
●ネイションとしての責任を主張

 ミラーは、結果責任及び救済責任を負う主体には、個人だけでなくネイションがある、と主張する。
 コスモポリタンは、ナショナリティの「本質的価値」を否定する。だが、ネイションは「本質的な価値」を持ち「特別な義務」の「源泉」となるものであるとミラーは説く。本項目の冒頭で『ナショナリティについて』におけるミラーの見解を書いたが、『国際正義とは何か』では、ミラーはネイションの特徴を5つ挙げている。
 第一に、「共通のアイデンティティを備えた集団であり、ネイションへの所属は各構成員のアイデンティティの一部をなす」。第二に、共有しているもののひとつに「公共文化」がある。公共文化とは「自分たちの集団生活をどのように送るべきかについての一連の了解であり、そこには政治結社の条件を定める原則や、大きく見れば政治的意志決定の指針となる原則が含まれる」。第三に、「構成員が相互に特別な義務を負っていることを認識している集団である」。第四に、「ネイションの存続はその構成員にとって価値あるものとしてとらえられている」。第五に、構成員が「政治的に自己決定することへの熱望」を持っている。これらの5点である。
 ここでミラーが強調するのが、ネイションとしての責任という概念である。ミラーによると、ネイションの構成員は、その地位によって利益を受けるだけでなく、負債や負担も受け継ぐ。「ナショナルな集団的責任」は、「世代を超えて引き継がれる」。ネイションとしての責任には「ナショナルな過去に対する責任」「祖先が行ってきたこと」まで含まれる。
 ミラーは、ネイションの行為が自らの集団や他のネイションに何らかの負担を課すとすれば、その負担についての責任は、それに関わる決定や政策に反対した人々も含めて、すべての構成員が負うべきものと説く。ただし、ネイションが外部の支配もしくは専制的支配に服している場合や文化的な分裂が深刻である場合は、これに当たらないとする。
 「世界の貧困者に対する私たちの責任は、原則として同胞市民に対する責任と全く同一であるとするコスモポリタン的見解」にミラーは反対する。急進的なシンガーについては、「最初に結果責任の問題――貧困はどのようにして、また何が原因で発生したのかーーを考えることなく、貧困についての救済責任を富裕国の市民に負わせるのは意味がない」と批判する。穏健的なポッゲについては、「貧困についての結果責任を国際秩序に負わせ、またそれを通して富裕国の市民と彼らの政府にも結果責任を負わせようとするのは妥当でない」と批判する。
 ミラーは、「私たちが社会正義の問題として同国人に負っている義務のすべてを、私たちは世界の貧困者に負っているわけではない」「とりわけ、グローバルな正義というものが何を意味するにせよ、それは資源、機会、福祉等のグローバルな平等を意味しない。したがってさまざまな社会の間に存在する不平等が完全に平均化されるようにグローバルな秩序を改変する必要はない」と説く。
 さらに具体的に次のように言う。「一方には、貿易、投資の流れ、資源に関する権利、その他諸々のグローバル経済の特徴を規定する規則を定める諸政府及び国際機関がある。また他方には、GDPの大部分を軍事費や大統領宮殿やスイスの銀行口座に流用することによって貧困を再生産している体制を支持または黙認している貧困国の人々がいる。責任はこの両者によって分担されるべきである」と。ミラーは、これは結果責任については正当であるとしながら、救済責任については、「世界の貧困やその他のさまざまな窮乏に対して何事かを行うための資源と能力を持っている人々が負担せざるを得ない」と言う。ただし、「救済責任がグローバルな次元で生じてくる際の根拠を区別する必要がある。このことは、さらにすすんで『世界の貧困者は正義の問題として何を義務付けているか』を問うとき重要になってくるだろう」と述べる。
 ミラーは、世界の貧困者への責任と同胞市民への責任を同一視するコスモポリタンの見解に反対するが、ネイションとしての責任には、「一般の市民が正当な形で(たとえば、外国への援助のため徴収された税金を通じて)救済に寄与する義務を負う場合もあり得る」と言う。それゆえ、ネイションの犯罪的行為に個人的には責任がない人々が、ネイションが過去に行った不正に対して賠償するよう求められる可能性があることを認める。また、ある一定のグローバルな不平等を正当化するために、ネイションとしての責任に訴えかけるということが起こり得る。豊かな社会に負担を課し、貧しい社会に利益をもたらす資源の移転や制度の変更を正当化するために、ネイションとしての責任に訴えかけるということも起こり得る、と述べている。
 私見を述べると、ネイションについてのミラーの主張は、責任が中心で、権利の考察が軽視されている点で一面的である。ネイションを含む集団一般には、集団として持つ権利がある。私が第1部に書いたように、権利は集団の持つ能力が権利としての承認を受けて行使されるものである。主体―対象の間の権利の相互作用を力の観念でとらえる時、これを権力という。権利・権力を行使する自由には、責任を伴う。それゆえ、ネイションとしての責任という概念は、能力、権利及び権力という点から論じる必要がある。
 関連する事柄として移民の問題についてここで述べると、ミラーは、人権を基礎として移住の無条件の権利を正当化することはできないとし、国家には領土への立ち入りを許可するかどうかを決定する権利があるとする。ただし、緊急の状況にはない移住希望者の入国を拒否する場合は、入国拒否の公正な理由を伝えねばならないとする。自分が住みたい国に入国したいという移民の利益と、自国の構成や特徴を形づくる力を維持するというネイションの利益の間で均衡が保たれるべきである、とミラーは説いている。ここでミラーは、国家の主権やネイションの権利を述べている。この部分は、権利関係・権力関係に基づく見解となっている。
 個人と個人、集団と集団の間と同じように、富裕国と貧困国の間でも、権利と権力をめぐる関係が存在する。移住権と領土権の問題だけではない。権利関係・権力関係は、基本的に一方の責任・義務の問題ではなく、相互的なものである。ミラーが説くように救済責任が正義の義務ではなく、人道主義的義務であるとすれば、この道徳的義務の実行は、強制ではなく自発的なものであり、援助することのできる主体が、その集団的な能力を自らの意思で発揮するものである。この時、援助を求める側と援助を申し出る側の間で意思の交通と合意が求められる。そして、合成された意思の下で、援助の提供と受容が行われる。援助は、一方の側の責任感と人道主義的倫理意識によってのみ、なされる事柄ではない。このように考えることによって、ミラーの責任志向の議論を、権利関係・権力関係とバランスの取れたものに是正することができるだろう。

 次回に続く。
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中国漁船団に海上民兵が100名以上乗りこんでいた

2016-08-28 08:53:35 | 国際関係
 8月上旬、尖閣諸島周辺の海域に、中国公船20隻以上とともに400隻以上の中国漁船が押し寄せた。その漁船団には、軍事訓練を受けた海上民兵が、少なくとも100名以上乗り込んでいたことが判明した。民兵の大半は、船長などとして漁船を指揮し、公船などと連携を取りながら統一行動をする。漁民を束ねるとともに、周辺海域での情報収集などの任務を担っているとみられる。漁民には政府から、燃料の補助や十数万~約300万円の手当が出ているという。一連の行動は、中国当局が計画的に実行したもので、「海の人民戦争」と称していると伝えられる。
 以下、産経新聞のスクープ記事を掲載する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●産経新聞 平成28年8月16日

http://www.sankei.com/world/news/160816/wor1608160038-n1.html
2016.8.16 20:39更新
【緊迫・東シナ海】
「海の人民戦争だ」中国漁船に潜む海上民兵の実態は…政府から手当ても

 【福建省泉州市(中国東南部)=矢板明夫】 尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺の海域に8月、中国公船20隻以上とともに押し寄せた400隻以上の中国漁船に、訓練を受けた多数の海上民兵が乗り込んでいることが分かった。複数の中国漁業関係者が明らかにした。一連の行動は、中国当局が尖閣諸島の主権をアピールするため計画的に実行。海上民兵は、他の漁民を束ねるとともに、周辺海域の地理的状況や日本側の巡回態勢に関する情報収集などの任務を担っているという。
 福建省の漁業関係者によれば、8月上旬に尖閣周辺に集まった漁船には少なくとも100人以上の海上民兵が乗り込み、大半が船長など船を指揮できる立場にいる。彼らの船には中国独自の衛星測位システムが設置され、海警局の公船などと連携を取りながら前進、停泊、撤退などの統一行動をとる。帰国後は政府から燃料の補助や、船の大きさと航行距離、貢献の度合いに応じて数万~十数万元(十数万~約300万円)の手当てがもらえるという。
 地元の漁民によれば、福建省や浙江省の港から尖閣近くに向かうには約20時間かかり、大量の燃料を使う。また、日本の海上保安庁の船に「作業を妨害される」こともあるため、通常は敬遠する漁民が多いという。
 しかし、今年の夏期休漁期間中の7月、複数の漁船は当局から「(漁が始まる)8月に釣魚島(尖閣諸島の中国名)に行くように」と指示されたといい、その際、海警局の護衛がつくことを示唆されたという。
 中国当局は今回の行動のために海上民兵を動員し訓練を重ねたとされ、福建省石獅市では7月下旬、160人の海上民兵が同市にある大学、泉州海洋学院で軍事訓練を受けた。浙江省でも同様の訓練を実施。海上民兵に日本への憎しみを植え付けるため、「南京大虐殺」や「甲午大海戦」(日清戦争の黄海海戦)といった映画を思想教育の一環として鑑賞させたという。
 常万全国防相も出発前の7月末、浙江省の海上民兵の部隊を視察し「海上における動員準備をしっかりせよ。海の人民戦争の威力を十分に発揮せよ」などと激励した。
  ◇
 中国で「民兵」とは、退役軍人などで構成される準軍事組織で、警戒や軍の物資輸送、国境防衛、治安維持などの役割を担う。このうち漁民や港湾労働者らなど海事関係者が組織するのが海上民兵といわれる。
 中国の民兵は、改革開放当初の1970年代末は3千万人いたのが、2011年には800万人まで減少した。しかし、海上民兵だけは重要視され増強される傾向にあり、中国の軍事専門家によれば、現在は総勢約30万人の海上民兵が存在するという。
 海上民兵が近年、一層重視されるようになったのは、2013年4月、中国の習近平国家主席が海南島の海上民兵部隊を視察して激励したのが契機とされる。その後、南シナ海に武装した海上民兵部隊が出現。東シナ海に面する福建省と浙江省でも同様の準備が進められている。
 毛沢東時代の海上民兵の主な仮想敵は台湾だったが、近年は東、南シナ海での緊張の高まりとともに、仮想敵は東南アジア諸国と日本になったという。
 地元紙によると、浙江省の海上民兵、漁船船長の徐文波氏が今年2月、地元の軍区から「重大な海上軍事任務を完遂した」として「二等功」を授与され、表彰された。具体的な任務は伏せられたが、記事には「約20時間も航海した」との記述があり、距離からして尖閣諸島周辺での任務を実行した可能性もある。
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 海上民兵については、中国による尖閣諸島略取の先兵になるものと考えられる。平成24年6月10日の拙稿に次のように書いた。産経新聞平成24年5月9日号は、陸海空3自衛隊が昨年11月の統合演習で、沖縄・尖閣諸島が中国に占領されたと想定し、詳細な奪還作戦を策定していたと報じた。奪還作戦のシナリオによると、中国側は漁民を装った「海上民兵」が尖閣に不法上陸する。これをきっかけに中国海軍が尖閣周辺海域に艦艇を派遣し、水陸両用・空挺部隊が展開する。戦闘機も九州周辺の日本領空にも波状的に侵入する。これに対し、自衛隊は、陸自部隊の統合輸送・機動展開、防空作戦、対艦攻撃、自衛隊と米軍の施設防護、尖閣での着上陸作戦の5つの作戦で応戦するという。
 本年8月上旬、尖閣諸島周辺海域に、中国公船20隻以上に守られた400隻以上の漁船が押し寄せた際、その漁船に100人以上の海上民兵が乗り込んでいたということは、尖閣占領のための情報収集、行動訓練とも考えられる。

 ところで、中国の公船・漁船の活動が活発になっている背景には、中国の最高人民法院(最高裁に当たる)が中国の「管轄海域」で違法漁労や領海侵入をした場合に刑事責任を追及できるとする「規定」を定め、8月2日に施行されたことがあると見られる。最高人民法院は今年3月の全国人民代表大会で、尖閣諸島近海での「司法管轄権」の明確化を主張し、「海事司法センター」創設を宣言した。中国側は尖閣を含む日本領海内での法執行を正当化する国内根拠を積み重ねており、今回の規定の施行となった。
 中国は、日本の固有の領土である尖閣諸島を自国領域と主張している。大陸棚についても沖縄トラフを含むとしている。今回の規定で、中国の国内法では、尖閣を含む日本側の領域で日本人漁師などを中国側公船が摘発することを正当化した。今後、わが国の領海で日本船が中国によって拿捕・拘束される事態を警戒し、早急に対抗策を打たなければならない。わが国がこの中国側の無法なやり方を前に自主規制を行えば、事実上、尖閣諸島周辺海域は中国の実効支配下に置かれることになる。絶対避けねばならない事態である。

 平成26年11月17日の拙稿に書いたことを、以下に繰り返す。
 中国は、太平洋西部で海洋覇権を確立しようとしている。第一列島線・第二列島線という概念を用いて、対米戦力展開の目標ラインを構築しようとしている。第一列島線は、九州を起点に、沖縄、台湾、フィリピン、ボルネオ島にいたるライン。第二列島線は、伊豆諸島を起点に、小笠原諸島、グアム・サイパン、パプアニューギニアに至るラインである。中国海軍は、第二列島線を2020年までに完成させ、2040~2050年までに西太平洋、インド洋で米海軍に対抗できる海軍を建設する計画を進めている。
 わが国は、戦略的な観点から、尖閣諸島周辺海域に海上警備行動を発令すべき時にある。海上警備行動は、海保だけで対応できない場合に、自衛隊が出動して海上での人命・財産保護や治安維持に当たるものである。過去に3度発令されたことがある。海保と海自が機動的に連携して、日本の海を守り、同時に太平洋の平和維持に貢献する体制を整えるべきである。そして、尖閣・沖縄を含む西南の守りを、しっかり固めていかなければならない。

関連掲示
・拙稿「尖閣:自衛隊による奪還作戦」
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/15d5c5de47e267077c1dc9663f58e3ac
・拙稿「沖縄に辺野古反対派知事。国民は西南の守りを固めよう」
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/s/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E6%B0%91%E5%85%B5
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人権344~コスモポリタニズムの分類とその検討

2016-08-26 09:48:43 | 人権
ミラーによるコスモポリタニズムの分類とその検討

 ミラーは、ネイションを重視する立場から、コスモポリタニズムを批判する。先にコスモポリタニズムに関するポッゲの分類を書いたが、それはコスモポリタンによる分類だった。ミラーは、コスモポリタニズムを批判する立場から、コスモポリタニズムを「政治的コスモポリタニズム」と「道徳的コスモポリタニズム」に分ける。ミラーによると、道徳的コスモポリタニズムとは、「最も一般的に定式化すれば、人間はすべて同じ道徳法則に服するとだけ述べる。すなわち、私たちは他者が世界のどこに住んでいようが、彼らをこの法則に従って処遇しなければならないし、同様に彼らもこれと同じやり方で私たちを処遇しなければならない」と主張するものである。一方、政治的コスモポリタニズムとは、「全員がこの法則を強制する権力を持つひとつの権威に最終的に服しているときにのみ、このような処遇が実現できる」と主張するものである。
 ミラーは今日、政治的コスモポリタニズムによる世界政府・世界連邦というような強固な制度的枠組みを支持する意見は少ないとして、これを検討の対象から除く。私は、この点は安易だと思う。グローバリズムを推進する巨大国際金融資本家には、世界単一市場を実現し、ごく少数の富裕層が残りの人類を統治する世界政府の建設を目指す思想があると見るからである。その思想は、アングロ=サクソン・ユダヤ的な世界観に基づくものである。ミラーは、この点を考慮せず、道徳的コスモポリタニズムに議論の焦点を絞っている。
 ミラーによると、道徳的コスモポリタニズムには、弱い形態と強い形態がある。
 「弱いコスモポリタニズムはどこにいる人間に対しても平等な道徳的関心を示すことを求めるのに対して、強いコスモポリタニズムはこれを越えて実質的な意味でどこにいる人間に対しても平等な処遇の提供を求める」
 ミラーは、後者の「平等な処遇の提供」を求めるグローバルな平等主義に反対する。その理由について、「私たちが本来同胞に負っている特別な責任を無視し、自己決定という価値を適切に説明できず、文化的な差異に十分敏感ではないからであって、言い換えれば政治的のみならず哲学的に欠陥を抱えているからである」と述べている。ネイションにおいては国民の間で相互に特別の責任があり、また文化的に多様な世界では政治共同体が自分自身の将来を決定する能力を持つべきだ、とミラーは考えるわけである。
 ミラーは、このように強いコスモポリタニズムを斥けたうえで、弱いコスモポリタニズムとナショナリズムの関係を検討する。私は、ミラーの「弱い/強い」という対比は、誤解を招きやすいと思う。弱い形態が、道徳的に弱いわけではない。私は、穏健的/急進的とした方がよいと考える。ちなみに道徳的コスモポリタンのうち、この意味で最も急進的なのがプーター・シンガーである。シンガーは、動物の権利や菜食主義を説くオーストラリアの倫理学者である。シンガーは、飢餓で生死の境界をさまよう外国の人々を放置して同国人の福祉を行うことは、「人種差別」にも似た差別を行うことであり、不正だとして批判する。ベイツ、やヌスバウムは、それほど急進的でなく、ポッゲはより穏健である。

●結果責任と救済責任を区別する

 コスモポリタンは、グローバルな不平等の問題に関して、富裕国の市民の責任を問う。これに対し、ミラーは、責任に関して、「結果責任」と「救済責任」を区別することを提案する。結果責任とは、「自らの行為と決断に対して負う責任」であり、「私たちの行動によって帰結する損益についての責任」である。救済責任とは、「助けを必要としている人々の援助に向かわなければならない責任」であり、「それが可能であれば被害や苦痛を取り除く責任」である。この区別は非常に重要である。ただし、私は、この責任論においては、行為者が行為の結果を引き受けること、また要求される行為を実行しない場合には何らの社会的制裁を受けることが、行為者、その行為の対象者及び第三者に認識されていなければならない、と考える。
 ミラーは、コスモポリタンが旧植民地に対する欧米先進国の過去の世代の行為や現在の世界の制度に関して責任を説くのは、結果責任を説くものであると指摘する。結果責任には具体的な分析が必要である。また仮に何らかの結果責任があるとする場合、それがどこまで救済責任に結びつくのかが、検討されなければならない、と主張する。「世界の貧困者に対する救済責任はどの程度まで彼らの現在の窮状に対する結果責任に付随するのか」と問うことが必要なのだというのである。
 「視点を結果責任に狭く限定しすぎると、人々が絶望的な困窮にあえいでいたとしても、これに対する責任が自ら招いた結果である場合や、他人が関与していないような状況(例えば自然災害)に直面した場合には、そこにある不正の跡を見逃すことになるだろう。視点を救済責任に狭く限定しすぎると、被害者意識だけを増幅させ、助けを必要としている人々に自らの生の統御をやり遂げることのできる、またやり遂げるべき行為主体としての地位を否定してしまうことになりかねないだろう」とミラーは言う。
 人間には他者の援助を必要とする側面と主体的に責任を以て行動できる側面がある。これらの両面を総合的に考える必要があることをミラーは強調する。そして、救済責任を以て援助する場合は相手が主体的に行動できるようになるところまでにとどめるべき、とミラーは説く。
 コスモポリタンは救済責任を結果責任と区別せずに、救済責任を以て正義の義務と主張する。ミラーはこれに反論し、救済責任は正義の義務ではなく、人道主義的な義務だと説く。「正義の義務がその履行を要求されるものであるのに対して、人道主義的義務は履行を要求されることはない」「正義の義務の履行を怠った者に対しては、第三者が制裁を課しても差し支えないという意味で、正義の義務には強制力があるが、人道主義的義務はそうではない」とミラーは説く。
 この論点も重要である。ただし、ミラーは正義と人道主義の違いを具体的に述べていない。私見を述べると、何を以て正義とし、何を以て人道主義とするかを明確にしないと、単に履行を強制されるものとそうでないものとの違いになる。各ネイションであれば、正義は法として制度化されている。履行しなければ、強制的に実行を求められ、実行しなければ罰則が科せられる。人道主義は、個人的な倫理の領域、良心の問題であり、客観的な制度ではない。国際社会で正義の義務と言い得るには、国際的な機関を通じて、正義とは何か、正義の義務とは何かの共通認識が確立し、法制度化されていなければならないだろう。現在の国際社会には、国家における主権に当たる地球的統一的な政治権力はないから、厳密に言うと法執行の強制力は存在しない。履行しなければ刑罰を受けるのではない義務は、法的義務ではなく、道徳的義務である。現在の国際社会における義務は、本質的に道徳的な義務である。救済については、援助を求める側も法的権利として求めるのではなく、道徳的権利として主張するものである。
 これに対し、人道主義的な義務というならば、国民道徳的な義務ではなく、人類普遍的な道徳に基づく義務と言わなければならない。だが、人類はそのような人類普遍的な道徳を確立できていない。個人や集団によって異なる様々な道徳観があり、その道徳観を以て人類に普遍的なものとする考え方があるというところまでしか言えない。ロールズの言うところの特定の包括的教説に依拠せずに「重なり合う合意」を作り上げる努力を行わなければ、人類に普遍的な道徳は構築できない。人道主義的な義務という言葉がすべての人に共通した意味を持ち得るのは、そうした人類道徳が確立した時のこととなるだろう。現時点ではミラーが言う人道主義的義務は、様々な個人や集団がそれぞれの倫理観をもとに普遍的なものと意識する義務と言わざるを得ない。道徳に関する緩やかな国際常識といった程度のものである。常識と思う人と思わない人がおり、人間はこうあるべきだ、人間である以上こうすべきだ、と主張する人がいても、同意しない人がいる。拒否・反対する人もいる。そういう意味で、緩やかな国際常識といったところである。

 次回に続く。
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尖閣周辺領海に侵入する中国公船・漁船を積極的に排除せよ

2016-08-25 09:24:19 | 国際関係
 中国は、南シナ海で傍若無人の振る舞いを強めている。7月12日ハーグの国際仲裁裁判所が、南シナ海における中国の歴史的権利は存在しないとして、中国の領有権を否定した。この判決に対し、中国は「紙くず同然」だとしてまったく拒否する姿勢を示した。国際法を無視して、力づくで実効支配しようとしている。当然、東シナ海でも中国は着々と手を伸ばしてきている。
 8月6日午前、中国海警局の船6隻と中国漁船約230隻が、尖閣諸島周辺の接続水域に入ったと報告された。外務省の分析によると、接続水域に入った中国海警局の船のうち、3隻はその外観から武器を搭載したという。海警局の船の中には、軍艦を改造したものと見られるものもあり、明らかに中国は計画的に行動をエスカレートさせてきた。
 翌7日には、尖閣諸島の沖合で、中国当局の船13隻がわが国領海への接続領域を航行しているのが確認された。うち6隻が日本の領海への侵入を繰り返した。13隻が同時に航行するのは、わが国が尖閣諸島を国有化して以降最も多いものとなった。わが国の海上保安庁が保有する巡視船は12席ゆえ、それを上回る数を繰り出して、威圧したものだろう。
6~7日に尖閣諸島周辺海域を航行した中国公船の数は、当初13隻と報じられたが、最終的に20隻以上と修正された。中国漁船の数も、当初の約230隻から400隻以上に修正された。

 元海将の伊藤俊幸氏は、6月9日の中国軍艦初の接続水域航行後、産経新聞のインタビューに応え、「中国の狙いは尖閣接続水域航行の常態化だ。次に軍艦が領海侵犯し、知らぬうちに尖閣が占拠される」と警告した。
http://www.sankei.com/premium/news/160702/prm1607020008-n1.html

--中国公船の日本の接続水域航行、領海への侵犯は、民主党政権下での尖閣諸島の「国有化」を境に急激に増え、今や常態化している。だが、軍艦が接続水域に入ったのは初めてだ
 「これまでとは全く意味が異なる。中国海警局の公船だと海上保安庁が対応できるが、軍艦が出て来たら、海上保安庁の巡視船は近寄ることもできない。軍艦は武力を持った国家がそのまま動いているのと同じだ。これに対し、巡視船はパトカーに相当する。パトカーの警官が泥棒を撃つことはあるだろうが、軍艦を撃てば戦争だ。軍艦と軍艦がやりとりすることは、国家と国家の外交になる。軍艦とコーストガードの船は、国際的にはそれくらい意味が違ってくる。いずれにせよ、軍艦を出したことは、中国側が完全にステージを上げたということだ」
 「危惧されるのは、今後、中国軍艦の尖閣諸島の接続水域航行が常態化することだ。そうなれば、メディアもいちいち報道しなくなるだろう。すると、その次には軍艦による領海侵犯が起き、知らないうちに尖閣諸島が占拠されるという事態になりかねない」

--中国の尖閣諸島を奪おうと長期的、戦略的に取り組んでいる
 「1968年の国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の調査で、東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘された後、中国は急に『ここは自分のものだ』と言い出した。そこから全て始まっている。そのときから中国は尖閣諸島を獲る気満々だ。まず、自分のものだと宣伝し、1992年には領海法なる国内法で、尖閣諸島は中国の領土だと定めた。そして、この10年で、中国にとっての尖閣諸島が持つ意味は、資源から、安全保障上の必要性へと変化した。彼らが描いているのは、日本列島の南端から台湾、フィリピンを結ぶ『第一列島線』の外側で海軍が動き、内側は中国の海として『海警』という巡視船が守るという将来図だ。そのために、既成事実を積み重ねている」

--尖閣諸島周辺で中国海軍の活動が常態化する事態は避けなければならない
 「そのためには、日本は常に毅然とした態度を示し続けるべきだ。まずは海上保安庁と自衛隊が警戒監視を強化することだが、さらに必要だと私が考えるのが、他国の海軍との共同パトロールだ。日米に限らず、日米韓、日米豪、日米印、あるいは4カ国、5カ国でもいい。『中国の行動は間違っている』とのメッセージを日本以外の国も共同で発信することになるからだ。今回の日米印の『マラバール』は共同訓練だったが、訓練の終了後、実任務に切り替えて一緒にパトロールしてもよかったもしれない。安全保障関連法が施行され、外国艦船を攻撃から守れるようになった。共同パトロールをすれば、中国はそう簡単に尖閣諸島に手は出せないはずだ」
「その上で、いざというときには、海上警備行動をかけて、武器を使用するぞとアナウンスしておくことも大事だ。海上警備行動が発令されれば、自衛隊の艦艇は、武器が使用できるようになる。『武器の使用』は武力の行使とは異なる概念で、破壊や殺傷を目的とするものではなく、相手の動作を止めるために引き金を引く行為だ。とはいっても、軍艦が武器を使うというのはそれなりの意味があり、少なくとも不正な侵害に対する対処行動になる。『海上警備行動をかける』と言っておくことが抑止力になる」

 以上のような伊藤元海将の分析と警告は、中国の行動のエスカレーションとともに、ますます重みを増している。
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人権343~ミラーはネイションを踏まえて国際的な正義を検討

2016-08-24 09:56:50 | 人権
●ミラーはネイションを踏まえて国際的な正義を検討

 イギリスの政治学者デイヴィッド・ミラーは、コミュニタリアンであり、またリベラル・ナショナリストである。もっともミラー自身はリベラル・ナショナリストと呼ばれることを好まず、「ナショナリスト」または「ソーシャル・ナショナリスト」を自称する。
 ミラーは、社会民主主義による社会正義論からナショナリズムの研究に進んだ。その研究をもとに、ネイションとしての責任という観点から、グローバルな正義を論じている。
 第6章で人権と国民国家とナショナリズムの関係に関する項目に書いたが、アーネスト・ゲルナーは、ナショナリズムとは「第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理である」と定義した。ナショナリズムは、民族的な集団が政治的な集団でもあろうとし、政治的権力を獲得し、維持・拡大しようとするものである。アンソニー・スミスは、ネイションとは「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」と定義した。一個の集団が、このように定義されるところのネイションを形成し、発展させようとする思想・運動が、ナショナリズムである。
 ミラーは、著書『ナショナリティについて』(1995年)で、ゲルナー、スミス等の業績を踏まえて、ネイションに関する研究を発展させた。リベラル・デモクラシーの前提であるデモクラシー、平等、個人の権利という要素を分析し、これらが実現できるのはネイションにおいてであることを明らかにした。ネイションは党派的対立を含みながらも公共の利益を追求し、また財産を社会正義のために再配分し、さらに最低限の個人の自由や権利を保障するために必要な連帯意識を提供する。それゆえに、ナショナリティつまり国民・国家・民族・国籍は肯定されるべきものであると説く。
 ミラーによると、ナショナリズムはアイデンティティを創造し、人々に自分が独自の性格と文化を持つ世代を超えた共同体の一員であることを認識させる。ナショナル・アイデンティティは、人々の自己理解のなかで発展する。ただし、ネイションの構成員の基準は変わり得るし、人種的あるいはエスニックな基準で理解される必要はない。ナショナリティは人格的アイデンティティの重要な要素だが、排他的である必要はなく、またそうあるべきでない。あるネイションに所属することは、多くの下位集団つまり郷土的・文化的・宗教的等の集団の一員であることを排除することではなく、むしろそれらによって補完される。ネイションへの所属によって人は同胞に対して特別の義務を負うが、このことは外部の人々への義務を負うことと矛盾しない。すべてのネイションは自己決定権を持つので、いかなるネイションも自決の名のもとに同様の権利を他のネイションに認めないような政策を進める権利を持たない。ネイションには他のネイションの自己決定を尊重する義務がある。相互尊重の態度から、国民国家による国際秩序が導き出される。
 ちなみに、ミラーの説くネイションにおける特別の義務は、サンデルの説く「連帯の義務」に当たる。ただし、サンデルは、家族における連帯の義務とネイションにおける連帯の義務の質的な違いを明確にしていない。ミラーのいう国民以外の人々への義務は、サンデルの説く「自然的義務」に当たる。サンデルはこの普遍的な義務を認めるが、積極的には論じていない。この点でミラーの義務論は、サンデルより具体的で優れている。
 ミラーは、グローバル化によって人間の連帯意識が低下し、ネイションの文化が後退して、福祉や教育の弱体化が生じることにより、社会的格差が拡大すると指摘する。グローバル化の中でこそナショナリティの機能を回復・強化しなければならないと主張する。この点は、伝統的な価値の回復を説く佐伯啓思に通じる。ちなみに佐伯は、ネイション重視のコミュニタリアンに近いが、自由主義への批判を徹底し、自由民主主義からの脱却と「日本的な価値」の回復を説いている。自由主義的な側面を持つリベラル・ナショナリストとは一線を画す。
 ミラーは、閉鎖的なコミュニタリアンでも、偏狭なナショナリストでもない。グローバルな貧困や不平等の問題に関心を持ち、この問題を論じるために『国際正義とは何か』(2007年、原題「ネイションとしての責任とグローバルな正義」)を著している。本書でミラーは、ネイションとしての責任という概念を基に、ナショナリズム、コスモポリタニズム、及びグローバルな正義について、詳細かつ綿密な検討を行っている。
 ミラーはこの検討に当たり、最初に三つの一般的な指針を示す。第一の指針は、「人間をつねに行為の受け手であり、また主体でもあると見なすこと」である。つまり、人間を「他人の助けなしには生存し得ない貧しく傷つきやすい存在」であるとともに、「自らの生のために選択をなし責任を取ることのできる存在」であるとして、これらの両面から見ることである。この指針は、貧困者は単に救済されるべき対象ではなく、支援することによって自立を促すべき対象であるという認識に導く。第二の指針は、正義の要請に関して「個人としての観点」に立つ個人倫理的アプローチと、「国家を含めて大規模な人間的組織への参加者としての観点」に立つ制度的アプローチの双方から理解することである。この指針は、制度的なアプローチに個人倫理的なアプローチを結びつけたグローバルな正義の理論への方向を指し示す。第三の指針は、「国内的文脈と国際的文脈との大きな違いを考慮に入れ、それゆえたんに社会正義のよく知られた原理を拡大するのではない形で、グローバルな正義を理解すること」である。この指針は、正義は一元的なものではなく多元的であり、また文脈によって決定されるという理解に基づく。
 これらの三つの指針は、どれも重要なものである。今日、国際的な正義を検討する上で、欠かせない指針と言えよう。なお、ミラーが説く「グローバルな正義」は、コスモポリタンの言う意味とは異なり、ネイションを単位とした国際社会における国際的な正義を意味する。混同しやすいので注意を要する。

 次回に続く。
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人権342~リベラル・ナショナリズムとは

2016-08-22 08:52:20 | 人権
リベラル・ナショナリズムとは

 コスモポリタニズムを批判するコミュニタリアニズムは、地域的(ローカル)、民族的(エスニック)またはナショナル(国民的)な共同体に関心を集中する傾向がある。その中でも特にネイションの役割を重視する考え方に、リベラル・ナショナリズムがある。続いて、リベラル・ナショナリズムについて述べたい。
 リベラル・ナショナリズムは、コミュニタリアニズムと同様、個人主義的な自由主義や国家否定のコスモポリタニズムを批判する。ネイションは、各種の共同体のうち、政治的な共同体の最大のものである。リベラル・ナショナリズムは、個人主義的自由主義を批判する集団主義的自由主義の立場から、ネイションに特別の価値を認める。そしてリベラル・デモクラシーは連帯意識や相互信頼感を備えた共同体としてのネイションを基礎としてはじめて成り立つ、と考える。自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等の価値も、ネイションを通じてこそ実現されるとする。こうした考え方によって、リベラル・ナショナリズムは、リベラリズム(自由主義)とナショナリズム(国家・国民・民族主義)の融和・総合を図るものとなっている。
 歴史的には、ヒュームやアダム・スミスにおいて、自由主義とナショナリズムは不可分のものだった。彼らは自由貿易を説きながら、個人や私的資本の利益の追求だけではなく、各国のネイションの国際的な繁栄を目指した。中野剛志のいう「経済ナショナリズム」である。またケインズは、1920~30年代のイギリスの深刻な不況の際、自由を守るために自由に一定の制限をかけ、雇用を創出する失業対策を打ち、ネイションの繁栄を目指すナショナリズム的な経済学を構築した。私は、リベラル・ナショナリズムをこの系統に立つ現代の思想と見ている。
 ナショナリズムは、ともすると偏狭になったり、排外的になったりしやすい。リベラル・ナショナリズムは健全な愛国心や国民の誇りを肯定しつつ、ナショナリズムにリベラリズムという制約をかけ、他のネイションの自決権を尊重し、自国のマイノリティ(少数者)の権利に配慮する。
 リベラル・ナショナリズムは、リベラリズムによってナショナリズムに制約をかけるという点だけでなく、ナショナリズムによってリベラリズムの欠陥を補正するという点も持っている。リベラリズムは、18世紀「啓蒙の世紀」に発達した。啓蒙思想は理性を信奉し、近代西洋文明における理性の擬似的な普遍性を前提としていた。啓蒙思想の影響を受けたリベラリズムは、文化的に中立であると考えられた。いわば無色透明なものと想定された。この発想は前期ロールズの『正義論』にまで貫かれている。しかし、実際のリベラリズムは、イギリス、アメリカ、フランス等で異なる特徴を示す。コミュニタリアニズムは、文化的多様性を認め、コミュニティによって価値観が異なり、価値観は文化的文脈(context)によって異なることを指摘する。リベラル・ナショナリズムは、ネイションの独自性に注目してこの点をより明確にとらえる。そして、リベラリズムは文化的に中立ではなく、ナショナルな特色を持つと考える。
 文脈という言葉は、まさに言語を前提にした概念だが、文化の中核的要素には言語がある。人間は、言語があって初めて有意味な思考が可能になる。個人の自由は、言語を中核とする文化的な共同体という枠組みにおいて、確保され、拡大される。国家は、文化的な共同体を基礎とする政治的な共同体である。政府は公用語を用いて国民を統治する。言語は多様であり、その言語を中核とする文化もまた多様である。それゆえ、政府が文化的に中立であることはありえない。
 リベラリズムの要素である自由・平等・デモクラシー・法の支配・人権等は、各国や各文化によって異なる特色を持つ。リベラル・ナショナリズムは、それらの特色はネイションによるものであり、それぞれのネイションにおける伝統・文化・習慣と関連があるとする。この見方は、トッドが家族型による自由/権威、平等/不平等の価値の組み合わせの違いを明らかにしたことによって、人類学的にも確認できる。リベラル・ナショナリズムは、自由・デモクラシー等の発達はネイションが役割を果たしてこそ、可能になると考える。仮にあるネイションにおけるリベラリズムを文化的に中立、無色透明なものと考えて、ほかのネイションに押し付けるならば、それは一つの文化の押し付けとなり、他のネイションの文化的自己決定権を侵害するものとなる。
 リベラル・ナショナリズムは、文化的な多様性を認め、相互の文化の尊重を原則とする。ロールズの「穏健な多元性の事実」の認識は、包括的な宗教的・哲学的・道徳的教説の多元性、広く言うと文化的な多様性を認め、そのうえで社会を統合する原理を求めるものだが、リベラル・ナショナリズムは、これをネイション重視の姿勢で追及する。
 ロールズの『正義論』は個人主義的自由主義に立ち、コスモポリタンな志向を孕んでおり、ベイツやポッゲは、その志向性を理論的に追求した。これに対し、リベラル・ナショナリストは、前期ロールズを継承したコスモポリタンを批判する。ロールズ自身はその後、政治的自由主義による「重なり合う合意」の考え方に転じ、「諸国民衆の法」では主体を個人から人民・民衆(ピープル)に変更した。この時、ロールズはネイションを積極的に評価しようとはしなかった。これに対し、リベラル・ナショナリストは、ロールズが軽んじたネイションの役割を再評価する。ロールズは民衆を主体とする立場からコスモポリタンを批判したが、リベラル・ナショナリストはネイションを重視する立場から、ロールズとコスモポリタンをともに批判する。
 リベラル・ナショナリズムはコミュニタリアニズムの一種だが、コミュニタリアニズムのうち地域的・民族的な共同体に焦点を合わせるものは、国際的な問題やグローバルな課題に対する関心が低い。リベラル・ナショナリストは、国際的な問題やグローバルな課題への関心を示し、コスモポリタンと対話しつつ、コスモポリタンに対してネイションの再評価を迫る。正義については、ネイションを越えたグローバルな正義ではなく、各ネイションの自己決定と協調に基づく国際的正義を追求する。人権については、脱国家的な個人の人権ではなく、ネイションを基礎とする国際社会での個人の人権を保障しようとする。私は、こうしたリベラル・ナショナリズムには、様々な文明・文化が共存共栄できる世界を目指す政治理論に発展し得る可能性があると考えている。次にその代表的論者であるデイヴィッド・ミラー、ウィル・キムリッカ、ヤエル・タミールの思想を見ていきたい。

 次回に続く。
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中国の横暴、”世界秩序の破壊者”露・朝と連携~石平氏

2016-08-21 09:33:43 | 尖閣
 8月6日から数日のうちに、尖閣諸島周辺の海域に、中国公船20隻以上とともに400隻以上の中国漁船が押し寄せた。中国の行動は、6月初めから、どんどんエスカレートしてきている。その動きについて、振り返っておきたい。

 6月9日午前0時50分ごろ、中国海軍のフリーゲイト艦が尖閣諸島周辺の接続水域に入った。わが国領海に近接する接続水域に、いよいよ中国の軍艦が初めて出現したのである。その直前に行われた米中戦略・経済対話で、中国は南シナ海に関して国際法無視の身勝手な主張をした。その主張と軌を一にして、東シナ海でも軍事力のデモンストレーションをした格好である。
しかも、この時、中国だけでなく、ロシアの軍艦も同時に航行した。これについては、偶然同時になったという見方、中国軍艦がロシア軍艦の動きに乗じたという見方、日米の連携強化に対して中露が連携して牽制したという見方などがある。
 一度、軍艦が接続海域に入ったということは、今後、そうした行動が繰り返され、またエスカレートしていくことが予想された。中国が良く採る手だが、南シナ海に注意をひきつけておいて尖閣を襲うという可能性もあり、要注意である。
 6月15日には、中国海軍の情報収集艦が鹿児島県の口永良部島付近の領海に侵入し、16日には同じ艦艇が沖縄県の北大東島周辺の接続水域を航行した。この時は、日米印の共同演習に関する情報の収集と見られるが、無人島の尖閣諸島周辺と異なり、鹿児島県の口永良部島付近を中国軍艦が航行したのは、より強い威圧感を与える行動だった。
 このように計画的に行動をエスカレートさせて、根拠のない支配権を既成事実化していくのは、中国の常とう手段である。日本国民は、中国の手引きをする朝日・毎日や親中派野党の情報操作・世論誘導に騙されてはならない。

 シナ系日本人評論家の石平氏は、6月16日付の産経新聞に「世界秩序の破壊者同士の露朝を巻き込む『毛沢東外交』へ先祖返り」と題した記事を書いた。
 石氏は「米中戦略・経済対話で、南シナ海をめぐる米中の話し合いは、完全にケンカ別れとなり、米中の対立はより決定的なものとなった。その直後に、中国は直ちに前述の威嚇行動に打って出た」とし、「追い詰められた中国は、ロシアの虎の威を借りて日米主導の中国包囲網に対する徹底抗戦の意思を示したのであろう」と分析している。
 これに加えて、次のように書いている。「その前に、中国はもう一つの布石を打った。今月(ほそかわ註 6月)1日、習近平国家主席は訪中した北朝鮮の李洙●(スヨン)労働党副委員長との会談に応じたが、立場の格差からすれば北朝鮮に対する異例の厚遇であった。つまり習主席は日米牽制のために、北朝鮮の核保有を容認したまま、金正恩政権との関係改善に乗り出した」と。そして「このように、日米主導の中国包囲網に対抗して、習近平政権は今、世界秩序の破壊者同士であるロシアや北朝鮮を抱き込んで対決の道を突き進んでいる。ある意味ではそれは、1950年代初頭の冷戦時代の毛沢東外交への先祖返りである」と石氏は見ている。
 氏によれば、<日米主導の中国包囲網>対<中・露・朝の世界秩序破壊国家群>という対立の構図が、明確になりつつある。わが国は、こうした大局的な見方を以て、中国の覇権主義的な行動に対処していく必要があるだろう。
 以下は、石氏の記事の全文。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●産経新聞 平成28年6月16日

http://www.sankei.com/world/news/160616/wor1606160027-n1.html

2016.6.16 12:33更新
【石平のChina Watch】
世界秩序の破壊者同士の露朝を巻き込む「毛沢東外交」へ先祖返り

 政府は今月9日未明、中国、ロシア軍艦艇が相次いで、尖閣諸島周辺の接続水域に入った、と発表した。
 中国軍艦が侵入してきたことは、日本に対する重大な軍事的挑発であるに違いないが、ロシア軍艦が同時に侵入した真相は不明だ。中露両国が事前に示し合わせた計画的行動である可能性もあれば、この海域を通過するロシア艦隊に中国軍が便乗して行動を取ったのかもしれない。いずれにしても、中国が意図的に、ロシア軍の動きと連動して日本への挑発的行為に乗り出したことは事実だ。
 日本とともに尖閣防備にあたるべきなのは同盟国の米国である。中国の戦略的意図は明らかに、軍事大国のロシアを巻き込んで「中露共闘」の形を作り上げ、日米両国を威嚇して、その同盟関係に揺さぶりをかけることにあろう。
 中国はなぜ、日米同盟に対してこのような敵対行為に出たのか。その背後にあるのは、先月下旬の伊勢志摩サミット前後における日米の一連の外交行動である。
 5月23日、オバマ米大統領はサミット参加の前にまずベトナムを訪問し、ベトナムに対する武器禁輸の全面解除を発表した。
 中国からすれば、南シナ海で激しく対立している相手のベトナムに、米国が最新鋭武器をもって武装させることは、中国の南シナ海制覇戦略に大きな打撃となろう。
そして、伊勢志摩サミットの首脳宣言は名指しこそ避けているものの、南シナ海での中国の一方的な行動に対する厳しい批判となった。
 これに対し、中国政府は猛反発してサミット議長国の日本だけを名指して批判した。つまり中国からすれば、サミットを「反中」へと誘導した「主犯」は、まさにこの日本なのである。
 6月に入ると、外交戦の舞台はシンガポールで開催のアジア安全保障会議に移った。そこで、米国のカーター国防長官は先頭に立って中国を名指しして厳しく批判し、大半の国々はそれに同調した。今まで南シナ海問題でより中立な立場であったフランスまでがEU諸国に呼びかけて、南シナ海で米国と同様の「航行の自由作戦」を展開する意向を示した。
 中国の孤立感と焦燥感はよりいっそう深まった。
 そして、今月7日に閉幕した「米中戦略・経済対話」で、南シナ海をめぐる米中の話し合いは、完全にケンカ別れとなり、米中の対立はより決定的なものとなった。
 その直後に、中国は直ちに前述の威嚇行動に打って出た。追い詰められた中国は、ロシアの「虎の威」を借りて日米主導の中国包囲網に対する徹底抗戦の意思を示したのであろう。
その前に、中国はもう一つの布石を打った。今月1日、習近平国家主席は訪中した北朝鮮の李洙●(スヨン)労働党副委員長との会談に応じたが、立場の格差からすれば北朝鮮に対する異例の厚遇であった。つまり習主席は日米牽制(けんせい)のために、北朝鮮の核保有を容認したまま、金正恩政権との関係改善に乗り出した。
 このように、日米主導の中国包囲網に対抗して、習近平政権は今、世界秩序の破壊者同士であるロシアや北朝鮮を抱き込んで対決の道を突き進んでいる。
 ある意味ではそれは、1950年代初頭の冷戦時代の「毛沢東外交」への先祖返りである。ソ連や北朝鮮などの社会主義国家と連携して「米国帝国主義打倒」を叫びながら西側文明社会と対抗した毛沢東の亡霊が現在に蘇(よみがえ)った感がある。
 人や国が窮地に追い込まれたとき、先祖返り的な退行に走ることは往々にしてあるが、もちろんそれは、窮地打開の現実策にはまったくならない。南シナ海への覇権主義的野望を完全に放棄することこそ、中国が外交的苦境から脱出する唯一の道ではないのか。

●=土へんに庸
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人権341~ロールズとコスモポリタンの論争

2016-08-19 06:39:56 | 人権
●ロールズとコスモポリタンの論争

 ロールズの「諸国民衆の法」に対する代表的なコスモポリタンの批判を概説した。もしロールズの社会契約説による正義論が正しいとすれば、その正義論を国際社会に当てはめる場合は、主体を民衆に切り替えるロールズの方法と、これを批判し主体を個人で一貫するコスモポリタンの方法のどちらが正しいかという議論になるだろう。
 ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムは、ロールズの正義論を支持・継承しながら、ロールズが国際的正義の主体を個人ではなく民衆とすることについては、三者とも批判的である。その一方、三者には次のような違いがある。
 ベイツは、ロールズの原初状態に着目し、グローバルな原初状態を仮設することで、国内社会の正義の原理をそのまま国際社会に適用し、国際的分配の原理として格差是正原理をグローバルに拡張する。それによって、世界的な貧困問題の解決を図ろうとし、偶然的な要素の強い天然資源の配分における公正を追求する。
 ポッゲは、ロールズの正義論が社会の基本構造を重視したことを受け、国際的な制度に焦点を当てる。国際的な財の移転に関わる既存の制度の不公正を指摘し、人権の侵害をグローバル制度秩序に起因するものとして、消極的義務の実行による制度改革で貧困を改善するため、地球資源配当を提案する。
 ヌスバウムは、ロールズが体力、知力、能力においてほぼ等しい当事者たちによる相互利益のための契約を想定したことを批判し、ケイパビリティ・アプローチによるグローバル正義論を主張する。一人ひとりのケイパビリティの向上を目標とし、グローバルな正義の10原理を提示している。
 こうしたコスモポリタンによる批判に対し、ロールズが直接反論したのは、主にベイツに対してである。これは批判者との年齢・年代の違いによる。ロールズの主張はベイツの項目に書いたが、ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムに共通することとして、ロールズはコスモポリタンを次のように批判した。
 「世界市民的な見方の究極的な関心は、諸個人の福利にあり、諸々の社会の正義ではない。世界市民的な見方によれば、各々の国内社会が正義に適った諸制度をその内部で確立した後になってもなお、さらなるグローバルな分配の必要をめぐる問題が存在することになる。(略)世界市民的な見方は、諸個人の福利に関心を持ち、それゆえ、全世界で最も困窮している人の状況を改善することができるか否かということに関心を持つからである。だが、諸国民衆の法にとって重要なものは、秩序だった諸国民衆社会の一員として生きる自由な社会と良識ある社会の正義、並びに正しい理由による安定性である」と。
 このようにロールズが説くのに対し、コスモポリタンは反論する。その結果が、ベイツ、ポッゲ、ヌスバウムそれぞれの主張となっている。今日、彼らコスモポリタンの主張は、世界的に影響力を増しつつある。人道的な行為を普遍的な義務とし、人々の道徳心に訴える主張は、一定の説得力を持つ。特に社会民主主義者、アナキスト、フェミニスト、動物愛護運動家等への影響が目立つ。
 私見を述べると、ロールズのコスモポリタン批判には、十分な説得力がない。その原因は、個人と集団の関係に関する考察が浅く、特にネイション(国家・国民・民族)の独自性を把握できていないことにある。ロールズは、基本的に個人主義的自由主義の思想を持ち、社会契約説に固執する。歴史的な事実と国際社会の現実を軽んじ、抽象的な理論の構築を志向する。個人主義的自由主義は個人を単位とする思想であり、社会契約説は抽象的・原子的な個人が集まって国家を形成するという仮説である。そのため、親子・夫婦・兄弟等による家族の生命的なつながり、共有生命に基礎を持つ親族・部族・民族・国民のつながりを把握できない。そのため、ロールズは、「諸国民衆の法」で主体を個人から人民・民衆に切り替える際、もともとの個人単位の思想の問題点を見直すことができていない。コスモポリタンは、ロールズの個人主義的自由主義を国際社会で徹底しようとする立場だから、ロールズ及び「諸国民衆の法」の支持者は、コスモポリタンの批判に対して、有効な反論ができないのである。
 そもそもロールズが採用した社会契約説は歴史的事実と異なる仮想の理論であり、社会契約説を一般化して正義の原理を考案したのは、自己の主張を公共的理性を持つ者なら誰でも当然考えることだとして正当化しようとしたものである。その社会契約説を、個人から民衆へと主体を替えて、国際社会に適用したのは、無理のある手法である。ましてやコスモポリタンがそれをグローバルに拡張するのは、無理の上に無理を重ねている。人権と正義は、歴史的事実と国際社会の現実に基づいて考察されるべき事柄である。また、世界の貧困と不平等の改善は、国連に加盟する国民国家を主要な主体とし、国際機関や民間団体、諸個人の活動を補助的なものとして、進めていくべきものである。
 国連は基本的に国家を単位とし、加盟国は190以上にのぼる。各国は、政治的自由によって国連に加盟し、一個の集団的主体として討論や投票に参加している。この主体を個人単位にすると、70億人もの個人を等しく国連の参加者とすることになる。これは、現実的に不可能である。人権条約は諸個人が直接採択しているのではなく、諸政府が採択している。個人の人権を擁護するのは、基本的に各国の政府が行うべきことである。その国の政府ができない場合やどの国の政府もできない場合に、国際機関や民間団体、篤志ある個人等が補助するという副次的なものでなければならない。
 コスモポリタニズムは、国民国家を政治的単位とすることに反対する思想ゆえ、こういう現実的な考え方を認めない。国境を越えて徹底した個人主義を追求する。国民国家に所属していながら、あたかも無国籍者のような諸個人の連帯を作ろうとする。だが、国連で2000年に採択されたミレニアム宣言は、各国代表の討議の末に合意された。その実行の主要な主体は、国家である。主体を個人へと個別化していくと、大きな国際的な取り組みはできない。

 次回に続く。
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憲法改正はまず可能な緊急事態条項から~百地章氏

2016-08-18 08:53:27 | 憲法
 7月10日の参院選はいわゆる改憲勢力が3分の2を超え、憲法改正の発議が戦後初めて可能になった。これから国会で改正の論議が始まる。もっとも参院で改憲勢力を165議席とカウントしても、公明党は加憲という立場であり、現行の条文の改正には消極的である。参院選後、公明党は早々と「9条改正には当面、反対」の方針を打ち出した。そのため、9条2項の改正は、現状のまま進めるのは難しい。改憲に賛成な政党間で合意の可能性のある条文は、緊急事態条項の新設などにごく限られる。一歩一歩進めていかざるを得ない状況である。
 産経新聞7月12日付で日本大学教授・百地章氏は、「緊急事態条項であれば、公明党も「加憲」の立場であり無碍(むげ)に反対できないだろうし、平成26年11月の衆議院の憲法審査会では、共産党を除く7与野党が必要性という点で一致している。これだけの一致をみたテーマは緊急事態条項以外には存在しない」と述べている。
 また、緊急事態条項に関して、「例えば衆議院の解散中に大規模地震が発生し、総選挙を実施することができない場合などのために、国会議員の任期を延長するといった特例を憲法に定めておくことについては、民進党の一部議員を含む与野党議員の間で共通の理解ができつつあるようだ」と書いている。
 だが、国家の緊急事態を想定するに当たって、国会議員が、国民の生命・財産を守ることよりも自らの地位を守ることを優先して考えるような姿勢であれば、国民は支持しないだろう。そこで、百地氏は「緊急事態条項から取り組むにしても、まず危機を克服するための規定を明記し、その上で国会議員の地位や選挙の特例を定めるべきであろう」と主張している。
 百地氏は近年、緊急事態条項の新設を行うべきことを、繰り返し主張している。一方、改憲反対派は、緊急事態条項の阻止に狙いを定めて、デマを流している。安保法制の時と同様に、国民の不安を煽り立てる方法を取っている。
 反対派の主張の一つは、緊急事態条項は、戦前のドイツでヒトラー独裁に道を開いたとか、戦前のわが国の国家総動員法そのものだというものである。これに対して、百地氏は次のように反論する。「戦前のドイツの場合は、大統領の緊急措置権が乱用されたためだ。だからこそ、西ドイツはその反省に立って、より周到な緊急権を定めた」「緊急事態条項を導入しただけで独裁に繋がるのならば、世界の先進国はすべて独裁国家になっているはずである」と。
 次に、反対派は、災害対策基本法などの法律を使いこなせば十分としている。これに対して百地氏は、次のように反論する。「その法律が現実に役立たなかった」「法律万能主義こそ立憲主義の否定につながる」「何もかも法律でやってしまおうというのは、国家総動員法と変わらない」と。
 次に、反対派は、東日本大震災の時に「ガソリン不足で緊急車両が走れない事例などなかった」と主張したり、「所有者の了解なしにガレキを処分すれば財産権の侵害に当たると考えたため処分が進まなかった自治体など本当に存在するのか」と批判している。これに対して、百地氏は具体的な事例を挙げて反論している。ガソリン不足により緊急車両に支障を来した例として、「東日本大震災時は、石油燃料の供給が不足し、病院での救急対応や支援物資運搬車両の運行に支障を来すなど、県民生活に大きな影響が生じました」(青森県庁のウェブサイト)、「活動で一番困ったのが燃料の不足である。消防隊用はもちろんのこと、避難所の連絡用や食料配達用の公用車の燃料にも事欠く有様であった」(福島県いわき市消防本部総務課の大平公規氏)等の報告がある。ガレキ処理については、樋高剛環境大臣政務官が宮城県の被災地を訪問した際に、多賀城市長と市議会議長から「私有地における廃棄物も含めて処理するためには、財産権の問題に関する制度的解決が必要であり、国として早急に結論を出してもらいたい」旨の要請があったと伝えられる。
 百地氏は、東日本大震災で、多数の震災関連死いよる死者が出たことも指摘している。復興庁の「東日本大震災における震災関連死に関する報告」(平成24年8月)は震災関連死は1632人として、その中には原因の一つとして「救急車を呼んだが、ガソリンがなく自力で運ぶよう要請があった」ことと明記している。厚生労働省の報告書「厚生労働省での東日本大震災に対する対応について」(平成24年7月)は、「ガソリン不足による給油制限のため、発災後初期には医薬品等の被災地への広域輸送や現地卸業者による医療機関等への搬送に支障が生じた」と記している。
 このような東日本大震災の経験を踏まえ、百地氏は、「多くの国民の命と安全を守るためにはガソリンなどの物資の統制が必要だったこと、しかし憲法で保障された国民の権利や自由を制限し物資の取引制限を行うためには、単に法律によるのではなく憲法上の根拠が必要であり、緊急事態条項を設けるべきである」と訴え続けている。
 百地氏が指摘しているように、東日本大震災の時、人命救助や緊急物資輸送に必要な緊急車両の通行のために、緊急道路を最優先で確保する必要があった。だが、道路上に大量に散乱したガレキ等を所有者の同意がなく勝手に処理することは財産権の侵害になることからと各自治体は対応に苦慮した。燃料不足も深刻だった。緊急援助物資を各避難所に輸送することや患者の緊急輸送などで多大な困難が生じた。憲法に緊急事態条項があれば、権限を一時的に政府に与え、政府は人命救助を最優先した必要な指示や命令を出せた。
 大震災の影響で首都圏や南海トラフ等で巨大地震が起こる可能性が高まり、日本は天変地異の時代に入っている。だが、現行憲法は、緊急事態の時どう対応するかを決めていない欠陥憲法である。世界では憲法に緊急事態条項を規定しておくのが常識になっている。1990年以降に制定された各国(102か国)憲法は100%導入している。わが国では東日本大震災後、5年たってもまだ緊急事態条項が盛られていない。共産党以外の政党は、緊急事態条項の必要性を認めている。まずこの点から速やかに合意を作り、万が一の災害に備えるための改正を発議することは、国会議員の責務である。
 以下は、百地氏のここ数か月の記事から。

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●産経新聞 平成28年4月26日

http://www.sankei.com/premium/news/160426/prm1604260006-n1.html
2016.4.26 13:50更新
【正論】
憲法改正反対派のデマ、レッテル貼りに屈するな 改正が独裁につながるなら世界は皆、独裁国家だ! 日本大学教授・百地章

 安倍晋三首相が憲法改正を「在任中に成し遂げたい」と発言して以来、憲法改正論議が過熱化してきた。改正反対派はすでに緊急事態条項の阻止に狙いを定め、ネガティブ・キャンペーンを展開している。このまま手をこまねいていたら、憲法96条(改正条項)のときと同じ轍(てつ)を踏みかねない。

≪国民の不安を煽り立てる反対派≫
 96条改正論議が盛り上がったのは平成24年12月、第2次安倍内閣が登場した頃からだった。世界で一、二を争うほど厳しい改正手続きをフランス憲法並みに緩和し、憲法を主権者国民の手に取り戻そうというだけなのに、反対派はデマやレッテル貼りを行い、改正の動きを止めてしまった。
 「九六条の会」(代表・樋口陽一東大名誉教授)は「96条改正は憲法の破壊」と主張(東京、平成25年5月24日)、石川健治東大教授も「立憲国家への反逆」であり「革命」であると述べている(朝日、同年5月3日)。また小林節慶応大名誉教授も96条改正は「裏口入学」(朝日、同年5月4日)「憲法の本質を無視した暴挙」(毎日、同年4月9日)と訳の分からない理屈を展開した。
しかし憲法に定められた改正手続きに従って96条を改正することは「憲法の破壊」でも「裏口入学」でもない。大石眞京大教授の言うとおり「96条を見直すとどうして立憲主義が破壊されてしまうのか」(読売、同年7月2日)。にもかかわらず、96条改正の可能性は遠のいてしまった。
 反対派は緊急事態条項についても、再びデマを流し始めた。そして先の安保法制と同様、国民の不安を煽(あお)り立てている。インターネットは反対派の記事のオンパレードだ。それ故、早急に反論を展開していく必要がある。
 朝日新聞は戦前のドイツで「ヒトラー独裁に道を開いた苦い歴史もある」(平成27年4月3日)といい、サンデー毎日も「『緊急事態条項』は国家総動員法そのものだ!」と決めつけた鼎談(ていだん)を載せている(2016年2月21日号)。

≪導入だけで独裁に繋がるのか≫
 しかし戦前のドイツの場合は、大統領の緊急措置権が乱用されたためだ。だからこそ、西ドイツはその反省に立って、より周到な緊急権を定めたことは、本欄でも指摘した(拙稿「緊急事態条項で改憲の発議を」平成27年5月4日)。それに緊急事態条項を導入しただけで独裁に繋(つな)がるのならば、世界の先進国はすべて独裁国家になっているはずである。
 反対派は、災害対策基本法などの法律を使いこなせば十分としている。しかしその法律が現実に役立たなかったことや、法律万能主義こそ立憲主義の否定につながることも、先に本欄で批判した(拙稿「国民の生命守る緊急事態条項を」平成28年2月11日)。何もかも法律でやってしまおうというのは、国家総動員法と変わらない。
 そこで新たに出てきたのが、東日本大震災の折も「ガソリン不足で緊急車両が走れない事例などなかった」と強弁する弁護士や、所有者の了解なしにガレキを処分すれば財産権の侵害に当たると考えたため処分が進まなかった自治体など本当に存在するのか、といった批判である。
ならばいくつかの具体例をあげよう。ガソリン不足により緊急車両に支障を来した例として、青森県庁のウェブサイトには「東日本大震災時は、石油燃料の供給が不足し、病院での救急対応や支援物資運搬車両の運行に支障を来すなど、県民生活に大きな影響が生じました」とある。また、福島県いわき市消防本部総務課の大平公規氏も「活動で一番困ったのが燃料の不足である。消防隊用はもちろんのこと、避難所の連絡用や食料配達用の公用車の燃料にも事欠く有様であった」(消防防災科学センター)と述べている。

≪大切なのは命より改憲阻止?≫
 ガレキ処理については、枝野幸男官房長官が「緊急立法」に言及、津波で流された家財や自動車にはそれぞれ所有権があり、勝手に処分すれば財産権の侵害になりかねないため、と朝日の記事は説明している(平成23年3月23日)。同記事には、村井嘉浩宮城県知事も「流された大量の家屋や車をどう処分するのか。やっかいなのは柱一本でも私有財産ということだ」と発言したとある。
 さらに樋高剛環境大臣政務官が宮城県の被災地を訪問した際に、多賀城市長と市議会議長から「私有地における廃棄物も含めて処理するためには、財産権の問題に関する制度的解決が必要であり、国として早急に結論を出してもらいたい」旨の要請があったという(www.env.go.jp/jishin/attach/110320-21_sendai.pdf)。
 反対派は現行法だけで首都直下型大地震などに対処できると本気で考えているのだろうか。彼らにとって大切なのは、実は国民の命より「改憲阻止」ではないのか。熊本地震で国民の関心も高まっている折、堂々と緊急事態条項の必要性を訴えていくべきである。(日本大学教授・百地章 ももち あきら)

●産経新聞 平成28年5月17日

http://www.sankei.com/column/news/160517/clm1605170009-n1.html
2016.5.17 09:43更新
【正論】
一方的資料で緊急事態条項に反対したTBS報道特集 「燃料不足と震災関連死は無関係」に異議 日本大学教授 百地章

≪ガソリン不足と無関係か≫
 4月30日放送のTBS報道特集「憲法公布70年『緊急事態条項』は必要か」がネットで話題になっている。
 番組によれば「岩手・宮城・福島の被災3県にある全36の消防本部に取材したところ、燃料不足によって救急搬送できなかったという回答は1件もなかった」という。そしてそれを根拠に、緊急車両がガソリン不足で出動できず、被災者の命を救うことができなかった、などといった事実は存在しないとし、ガソリン不足による震災関連死を指摘した『まんが女子の集まる憲法おしゃべりカフェ』(筆者監修)の記述についても疑問を呈した。
 それを受けて、TBSラジオでは荻上チキ氏が「震災関連死とガソリン不足は無関係」であり、そのような主張は「デマ」であると喧伝(けんでん)している。
 果たしてこの主張は正しいのか。争点は、第1に「そもそもガソリン不足によって緊急車両の出動に支障が生ずることなどあったのか」、第2に「ガソリン不足に起因する震災関連死は本当に存在したのか」ということになろう。
そこで以下、再検証を試みることとする。
 その際、大切なことは、震災後5年が経過した今頃になって取材し、その結果得られた消防本部からの回答だけで結論を下すのではなく、当時の新聞報道やさまざまな震災報告書なども踏まえて、客観的な検討を加えることである。
 まず、第2の震災関連死の問題だが、復興庁の「東日本大震災における震災関連死に関する報告」(平成24年8月)を見ると、震災関連死は1632人、その中には原因の一つとして「救急車を呼んだが、ガソリンがなく自力で運ぶよう要請があった」(24頁(ページ))ことがはっきりと明記されている。
 同報告には、以下のような記述もある。「一般病院(や施設)の機能停止が大きな死亡要因となった。長期間のライフラインの停止、物資や人の支援が遅れたため。背景にガソリン不足がある」(3~4頁)

≪合理的に推測できる震災関連死≫
 震災関連死により245人の犠牲者を出した仙台市の「東日本大震災 仙台市被害状況」(平成24年12月)でも、「迅速な対応を阻害した要因」の第1に「燃料の不足」があげられ「重油、ガソリン、軽油、灯油」「非常用発電、緊急車両・公用車・作業車の燃料、避難所の暖房のための燃料が払底」とある。
 さらに、厚生労働省の報告書「厚生労働省での東日本大震災に対する対応について」(平成24年7月)にも、「ガソリン不足による給油制限のため、発災後初期には医薬品等の被災地への広域輸送や現地卸業者による医療機関等への搬送に支障が生じた」(15頁)とある。
 このようにガソリン不足が直接ないし間接の原因となって、多くの震災関連死が発生したであろうことは、さまざまな資料によって証明ないし合理的に推測できる。
 次に、震災当時、ガソリン不足により緊急車両の運行に支障があったのか。この点は以上に加え、報道からも明らかである。
当時の新聞を見ると、「緊急車両もガソリン不足」(読売3月16日)「ガソリン枯渇深刻」(河北新報3月16日)「緊急車両は優先的に給油できたものの、台数が多くて供給が追いつかない」(河北新報社『東日本大震災全記録』209頁)などといった記事が各所にみられる。
 米紙ウォールストリート・ジャーナル(3月22日、日本版)にも「深刻なガソリン不足が救援活動の妨げ-東日本大震災」と題する以下の記事がある。「深刻な燃料不足が、東日本大震災の救援活動の大きな妨げとなっている。当初の地震や津波から1週間以上がたつが、被災地ではガソリン不足のため生存者の捜索や食品などの生活必需品の配送が遅れ、灯油の足りない避難所では被災者が凍える日々を過ごしている」
 これこそ、当時私たちがテレビや新聞などのニュースで知ることのできた被災地の現状そのものではないか。

≪国民の命を守る緊急事態条項≫
 筆者はこのような東日本大震災の経験を踏まえ、多くの国民の命と安全を守るためにはガソリンなどの物資の統制が必要だったこと、しかし憲法で保障された国民の権利や自由を制限し物資の取引制限を行うためには、単に法律によるのではなく憲法上の根拠が必要であり、緊急事態条項を設けるべきである-と訴え続けてきた。
 これに対し、TBSの特集では現地消防本部への取材をもとに震災関連死を否定し、緊急事態条項に反対している。むろん反対は自由だが、一方的な資料だけで結論を導き出し、対立する意見を退けるやり方はいかがなものか。
 放送には特に政治的公平性が求められる。その意味でも、今回のように大きく意見が対立している問題を扱うときには慎重さが必要であり、この報道特集には疑問が残るのである。(日本大学教授・百地章 ももち あきら)

●産経新聞 平成28年7月12日

http://www.sankei.com/column/news/160712/clm1607120011-n1.html
2016.7.12 14:30更新
【正論】
まずは「緊急事態条項」が焦点 速やかに憲法改正の国会発議を 日本大学教授・百地章

≪護憲派の壁を突き崩した≫

 参議院で改憲勢力が3分の2を超えることになった。これにより、公布以来70年、ようやく憲法改正が現実味を帯びてきた。
 憲法改正の決定権を持つのは、主権者国民である。この憲法改正のための国民投票は、単に人を選ぶだけの選挙と異なり、国民一人一人が直接、国のあり方や将来を決めることができる、極めて重たいものである。その重要さについては、先の欧州連合(EU)離脱をめぐる英国の国民投票からも想像できよう。
 ところが、憲法制定以来、国会は一度も改憲のための発議を行うことがなく、国民は国民投票を行うことができなかった。その原因は、世界で一、二を争うほど厳しい改正手続きにある。憲法96条によれば、衆参両院のそれぞれ総議員の3分の2以上の賛成が得られなければ発議できない。逆にいえば、両院のいずれか3分の1以上(参議院でいえばわずか81人)が改正に反対すれば、改憲を阻止することが可能である。
 そこで、旧社会党などの護憲派や共産党などは、常に国会で3分の1の反対勢力を確保することに全力を注ぎ、その結果、国民は少数の反対派のために主権行使の機会を奪われ続けてきた。
しかし、今回の参議院選挙によって、ようやく反対派の壁を突き崩すことができたわけである。それ故、主権者国民の負託に応えるべく、国会は速やかに憲法改正を発議すべきである。

≪9条2項は喫緊の課題≫
 問題は、どこに焦点を絞るかだが、真っ先に考えられるのは、9条2項を改正して「軍隊」の保持を明記すること、および緊急事態条項ということになろう。
 特に、最近の中国による軍事的脅威の増大、とりわけ中国の軍艦がとうとう尖閣諸島周辺の接続水域や口永良部島周辺の領海にまで侵出し始めたことを考えれば、9条2項の改正は喫緊の課題である。今後の成り行き次第では、一気に改憲のテーマに浮上する可能性があろう。
 ただ、現状で改憲発議の可能性を考えた場合、果たしてどうだろうか。改憲勢力と頼む公明党が、早々と「9条改正には当面、反対」の方針を打ち出したからである。この点、緊急事態条項であれば、公明党も「加憲」の立場であり無碍(むげ)に反対できないだろうし、平成26年11月の衆議院の憲法審査会では、共産党を除く7与野党が必要性という点で一致している。これだけの一致をみたテーマは緊急事態条項以外には存在しない。
さらに、例えば衆議院の解散中に大規模地震が発生し、総選挙を実施することができない場合などのために、国会議員の任期を延長するといった特例を憲法に定めておくことについては、民進党の一部議員を含む与野党議員の間で共通の理解ができつつあるようだ。
 とすれば、例えば緊急事態における国会議員の地位についてであれば、国会の3分の2を確保することは可能かもしれない。問題は国民がどのように考えるかだ。
 恐れるのは、国家的緊急事態が発生したにもかかわらず、国会議員はいかにして危機を克服し国民の生命や安全を守るかということより、自らの身分の方が心配なのかといった誤解を招きかねないことである。もしそうなれば、国会の発議に成功したとしても、国民の支持は得られないだろう。
 他方、改正反対の共産党などは、一字一句たりとも改正させまいとしているから、支持者は必死になって投票に向かうであろう。その結果は、容易に想像できる。
 それ故、緊急事態条項から取り組むにしても、まず危機を克服するための規定を明記し、その上で国会議員の地位や選挙の特例を定めるべきであろう。

≪超党派議連で原案の作成を≫
 次に、憲法改正原案のとりまとめ方であるが、安倍晋三首相は秋の臨時国会から、衆参両院の憲法審査会で具体的な改正項目の検討に入ることを期待しているようだ。それ故、今後、憲法審査会が中心になって改憲論議がなされることは間違いなかろう。
 しかし国会法をみれば明らかなとおり、憲法改正原案の発議権は第一に国会議員にあり、衆議院で100人、参議院で50人の賛成があれば憲法改正原案を提出できる(68条の2)。憲法審査会も憲法改正原案を提出することはできるが(102条の7)、これはあくまで二義的なものと考えられる。
 つまり、憲法改正原案の作成は憲法審査会のメンバーでなくても、国会議員であれば誰でも自由に行うことができるわけである。
 それ故、憲法審査会に丸投げしてしまうのではなく、緊急事態条項や9条2項の改正、天皇の地位の明確化、家族保護条項など、それぞれ積極的に賛同者を集めて超党派の議連をつくり、憲法改正原案の作成に当たるべきである。
 そのためにも、地元や支援者からの国会議員への積極的な働きかけは不可欠である。また、発議の先には国民投票が控えており、1千万賛同者拡大運動をさらに推進していく必要があると思われる。(日本大学教授・百地章 ももち あきら)
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関連掲示
・拙稿「緊急事態条項から改憲の発議を~百地章氏」
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/a4db28757e90228c4c53419f61e88262
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