ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

「安保法制の課題取り組みの加速を」をアップ

2016-05-27 08:38:02 | 時事
 5月17〜24日にブログとMIXIに連載した安保関連法に関する拙稿を編集し、マイサイトに掲示しました。昨年6月に掲示した拙稿に追加し、その第2部としたものです。

■安全保障関連法制の整備と課題取り組みを
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion08p.htm
 第2部 安保法制の課題取り組みを加速しよう
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人権312〜サンデルにおける正義と善の結合

2016-05-25 08:53:13 | 人権
●正義と善の結合

 サンデルの連帯の義務は、カントやロールズの正義論のように正義と善を区別するのではなく、正義と善を結合する必要があることを説くものである。
 サンデルは、カントやロールズの「負荷なき自己」の概念は、正義と善は切り離すことができ、正義は善よりも優先されるという考え方と深く結びついたものだと指摘する。
 サンデルの理解するところでは、カントは、道徳的な義務はいかなる善の概念にも左右されることはないと考えた。人間の自由は道徳的存在であることによる。道徳的存在は理性によって自らの行動原理を自由に定めることができる。この考え方によれば、正義と善は区別でき、正義は善よりも優先される。前期ロールズは、こうしたカントの思想を継承している。彼らは、自由に選択できる「負荷なき自己」という自己認識に立っているから、このように正義と善の関係を説くのである。
 これに対し、サンデルは、「位置づけられた自己」という別の自己認識を示す。「位置づけられた自己」は、連帯の義務を負う。連帯の義務においては、カントやロールズにおける正義と善の関係とは異なった正義と善の関係が示される。
 サンデルは、ロールズ的な自由主義と自分の見解の争点は、正義が重要かどうかではないという。「そうではなく、善い生き方について特定の考え方を前提とせずに正義を規定し、正当化できるかどうかである。問題は、個人の主張とコミュニティの主張のどちらを重視すべきかではない。そうではなく、社会の基本構造を支配する正義の原理が、市民の抱く相容れない道徳的・宗教的な信念に関して中立であり得るかということだ。言い換えれば、根本的な問題は、正義は善に優先するかどうかである」と問題の焦点を示す。
 そして、次のように述べる。「カントにとってもロールズにとっても、正義の善に対する優先は、二つの主張を意味している。それらを区別するのが大事である。一つ目の主張は、ある種の個人的な権利は非常に重要なものであり、公共の福祉ですらそれを踏みにじることは許されないという主張である。二つ目の主張は、われわれの権利を規定する正義の原理の正当性は、善い生き方をめぐる特定の構想、最近のロールズの表現を借りれば、包括的な道徳的・宗教的構想に依拠するものではないという主張である」と。そしてサンデルは、「自分が異議を唱えるのは二つ目の主張であり、一つ目の主張ではない」と言う。
 サンデルは、カントや前期ロールズにならって、普遍的な人権を尊重する。また人類には、普遍的な自然的義務があることを肯定する。サンデルは、カントの『道徳形而上学原論』(別訳は『人倫の形而上学の基礎づけ』、1785年)について、本書は「18世紀の革命主義者が人間の権利と呼んだもの、そして21世紀初頭のわれわれが普遍的人権と呼んでいるものの強固な礎となっている」という。
 カントについて、サンデルは、次のように述べている。「カントによれば、人間はみな尊敬に値する存在である。それは自分自身を所有しているからではなく、合理的に推論できる理性的な存在だからである。人間は自由に行動し、自由に選択する自律的な存在でもある」「われわれはもはや、誰かが定めた目的を達成するための道具ではない。自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものである。この能力が人格と物とを隔てているのである。カントにとって、人間の尊厳を尊重するのは、人格そのものを究極目的として扱うことである」「カントのいう尊厳は、人間性そのものへの尊敬であり、すべての人に平等に備わっている理性的な能力への尊敬である。だから自分自身の人間性を侵害するのは、他者の人間性を侵害するのと同じように好ましくない。だからこそカントの尊敬の原理は、普遍的人権主義に一役買っているのである。カントにとっては、すべての人間の人権を守ることが正義である。相手がどこに住んでいようと、相手を個人的に知っていようといまいと関係ない。ただ相手が人間だから、合理的推論能力を備えた存在だから、したがって尊敬に値する存在だから、人権は守られるべきなのである」と。
 今日の普遍的人権という観念にカントが強い影響を与えていることを、これほど明確に述べているものは他になかなかないほど、サンデルはカントの思想に従っている。
 サンデルはカントを踏まえて次のように言う。「あらゆる国家には人権を尊重する義務があり、どこであろうと飢餓や迫害や強制退去に苦しむ人がいれば、それぞれの力量に応じた援助が求められる。これはカント流の論拠によって正当化され得る普遍的義務であり、われわれが人として、同じ人類として他者に対して負う義務である」と。
 サンデルは、こうしてカント主義的な普遍的義務を認めた上で、人間には家族・部族・民族・国民等の共同体における特殊的な義務、連帯の義務のあることを強調する。連帯の義務は、正義を善と区別し、正義を善より優先する考え方では説明できない。連帯の義務のあることを認めるならば、正義と善を切り離して考えることはできないというわけである。
 サンデルは、次のように説く。「哲学的な問題としては、正義に関するわれわれの省察は、善い生き方の本性や人間の最高の目標に関する省察から合理的には切り離せない。政治的な問題としては、正義や権利について討議する場合、その討議の土俵となる多くの文化や伝統の中に現れる善の概念に言及しない限り、前進はあり得ない」と。
 またサンデルは、次のようにも述べている。「平等主義であれリバータリアニズムであれ、権利に基づく自由主義の出発点には、次のような主張がある。すなわち、われわれはバラバラの独立した個人であり、それぞれが自分なりの目的、関心、善の概念を持っているという主張である」と。
 サンデルは、平等重視的なロールズやドゥオーキン、また自由至上的なノージックの個人主義的自由主義は、権利基底的な理論だと見ている。権利基底的な理論は、個人の権利は、共同体の目的やカント的な義務に先立つという理論である。権利基底的な自由主義は、「負荷なき自己」を前提としている。自己は善を選択する自由を持ち、正義は私的な善を選択する権利を保障する枠組みのこととする。権利基底的な理論は、正義と善を区別し、正義を善より優先する。サンデルは、これに対して、「位置づけられた自己」を対置し、正義と善は切り離せないと反論する。
 私は、この点においてサンデルの見解を支持する。実際の社会は、個々に全く異なる善の構想を持つバラバラの個人の集合ではない。歴史的・社会的・文化的に共通の価値を形成し、その価値を世代から世代へと継承してきた集団である。その集団は、共通の価値としての公共善を持っている。それが集団の目的でもある。集団の中で生まれ育った諸個人は、自ずとその共通の善のもとに価値観を形成する。諸個人の権利を保障する枠組みも、自ずと公共善を踏まえたものとなる。正義の前提として公共善が存在する。私的ではなく公的な善が、正義に先立つ。公的な善の実現という集団の目的が、私的な善の選択という個人の権利に先立つ。
 正義は法に表現される。成文憲法を持たない国家または社会では、社会規範の中に集団の目的としての公共善が盛られており、公共善に基づく規範が正義の原理となっている。成文憲法を持つ国家では、憲法に国家の目的としての公共善が書かれ、それを実現するための正義が表わされ、憲法のもとに個別的な法が制定されている。この公共善と正義の体系の中で、諸個人の権利の保障が規定されている。諸個人の権利は、基本的な人権とされる場合と、国民の権利とされる場合があるが、どちらにしても、実態としてはまず集団の権利があり、そのもとに個人の権利が承認されている。集団の権利は、公共善を実現するための権利であり、その目的のもとに集団の合意によって行使される。

 次回に続く。
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新安保法制の課題取り組みの加速を3

2016-05-24 08:53:19 | 時事
●安保関連法廃止運動に惑わされるな

 わが国の安全保障関連法には、欧米や東南アジア諸国をはじめ世界59カ国が支持や理解を示している。そのことは、安保関連法が他国を侵攻するための戦争法などではないことの証である。中国や北朝鮮が一方的に軍事的緊張を高めるアジア情勢において、日本が防衛法制を改めることは、アジアの平和と安全に寄与するものとなる。また、地球の平和と安全のために、日本は世界の多くの国々から積極的な貢献を求められている。
 ところが、最大野党の民進党は、共産・社民・生活と一緒になって安保関連法を「戦争法」と決めつけている。街頭で安保関連法廃止を訴え、夏の参院選の共闘の旗印としている。マスメディアの多くも、世論を操作するような報道を繰り返している。だが、野党5党は安保関連法の廃止法案を国会提出しながら、民進党幹部は国会での審議入りを強く求めることなく、安保関連法の施行となった。もし審議入りした場合、民進党と他の3党の安保政策の不一致が露呈するだろうから、敢えて審議入りを求めなかったと見られる。
 安保関連法に反対する政治家やジャーナリストは、戦勝国から押し付けられた憲法によって非武装平和主義を理想として植え付けられ、中国・韓国・北朝鮮によって反日思想を吹き込まれている。中には、中国や韓国・北朝鮮の代弁者となっている者もいる。国民は、彼らの言論に惑わされることなく、日本の平和と繁栄のために、真に必要なことは何かを考えなければならない。

●与那国島に陸自部隊を配備

 新法制の施行により、自衛隊の活動は質量ともに拡大され、高度な即応性の確保と米軍との強い連携が期待される。だが、27年(2015)9月の安保関連法成立後、自衛隊をどのように活用していくか、装備・人員・予算をどう整えていくかの検討は、まだ不十分である。政府は今後、隊員に対し新法制の内容を周知するとともに、任務遂行に必要な訓練内容の検討を本格化する。米軍と自衛隊の協力に関する日米協議や、武器使用の手順などを定めた部隊行動基準(ROE)の策定も進めるという。
 東シナ海での中国の脅威が拡大するなか、具体的な動きが報じられている。安全保障関連法が施行される前日の3月28日、防衛省は、南西諸島の防衛力強化のため、日本最西端の沖縄県・与那国島(与那国町)に陸上自衛隊の駐屯地と沿岸監視隊を創設した。沿岸監視隊は対ロシア警戒で北海道に2つ配置しており、与那国島は3か所目となる。
 与那国島の部隊は約160人で編成され、周辺の海や空で活動する船舶や航空機をレーダーで監視する。監視隊は地上レーダーで数十キロ先までの主に海域を警戒し、レーダーが艦艇を探知すれば、隊員が高性能双眼鏡で種別を確認する。与那国島の北方約150キロには尖閣諸島(同県石垣市)があり、中国公船が領海侵入を繰り返している。今度は、それらが与那国島周辺に接近すれば探知できるようになる。
 監視隊は実戦部隊ではない。だが、有事の際、拠点となる駐屯地があれば、部隊や装備を即座に緊急展開させることが可能となる。
 政府は南西地域の離島で防衛力強化を図るため、沖縄県の宮古、石垣両島や鹿児島県の奄美大島でも陸自の実戦部隊を配備することも計画している。
 産経新聞3月28日付の半沢尚久記者の記事によると、陸自は宮古・石垣両島に有事で初動対処にあたる警備部隊と地対空・地対艦ミサイルを配備する方針である。奄美大島にも同様の部隊を置く。これらがそろえば当面の南西シフトは完了する。
 ただし、課題もあると半沢氏は指摘する。与那国島の港は水深が浅く大型艦艇は接岸できない。実戦部隊を送り込むにはホーバークラフト型揚陸艇(LCAC)での輸送も必要で、訓練により上陸方法を確認しておくことが欠かせない。また、南西諸島全体で本土からの増援を含めた部隊をだれがどのように指揮するかも定まっていない。陸自の洋上目標捕捉システムでは地対艦ミサイルの射程を生かし切れない。より遠方にいる敵艦艇の位置を把握できる海自・空自との情報共有も不可欠であり、訓練と検証を重ね、実効的な態勢を整えていくことが求められる、と。

●今年から来年にかけて憲法の改正を

 安保関連法の施行は、わが国の安保政策の大きな前進となった。だが、本来の課題である憲法改正を早期に実現しなければ、日本の平和と安全は守れない。
 日本の主権と独立、国民の生命と財産を守るため、国益を第一とした判断がされねばならない。また、集団的自衛権の行使も、自衛隊の海外活動も、国会の承認を必要とする。国会の承認ということは、最終的には国民の意思によるということである。
 国際環境は、ますます厳しくなっている。ただ平和を祈っていれば、中国も北朝鮮も攻めて来ず、イスラーム過激派も日本人にテロを起こさないのではない。国民が自ら国を守るという意思、そのために必要な取り組みをするという努力が必要である。その意思を欠き、取り組みもしない国民は、日本の富や技術を狙う勢力によって攻めこまれ、他国に支配・略奪され、滅びの道をたどるだろう。
 日本人は滅びの道へ進みたくなければ、自ら自国を守るという意思を持ち、国を守るための努力をしなければならない。そのために、為すべき課題が憲法の改正である。
 当面できることとして安保法制を整備して国防を強化し、戦争抑止力を高め、いざという時には適切な対処ができるように一歩前進はできた。そのうえで、できるだけ早く憲法を改正し、国家を再建して、日本の平和と繁栄を守る体制を確立しなければならない。
 現行憲法のもとでは、国防を米国に大きく依存しているので、米国に協力しないと、中国・北朝鮮が侵攻したときに助けない、と言われると協力せざるを得ないことになる可能性がある。米国追従ではなく、主体性が大切である。またその主体性を発揮できるように、憲法を改正し、いざとなったら米国に頼らずに国を守ることのできる国になる必要がある。
 本年(平成28年)夏の参院選で改憲勢力が多数を占めれば、秋の国会に憲法改正案が提出される。各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国民に発議される。発議後、6か月以内に国民投票が行われる。平成29年の早期までに国民投票を実施することが、改憲派の目標となっている。これがいま最も順調に行った場合の最速のスケジュールである。
 厳しい国際環境で、日本の平和と安全を守るには、政治家のレベルアップとともに、国民のレベルアップが必要である。その努力を怠ったならば、混迷と衰亡の方向に進んでしまう。日本人は日本精神を取り戻し、憲法を改正して、日本の再建を力強く進めよう。(了)
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人権311〜サンデルの連帯の義務

2016-05-23 08:47:24 | 人権
●連帯の義務

 サンデルは、カントやロールズの「負荷なき自己」ではなく、マッキンタイアの「物語る存在」という概念を支持する。その理由は、道徳的責任には三つのカテゴリーがあるが、「負荷なき自己」の概念ではそのうちの一つをまったく説明できないためだとする。
 サンデルのいう道徳的責任のカテゴリーとは、次の三つである。

(1) 自然的義務:理性的存在者として他者に対して負う責任。敬意を以て人に接すること、正義を行い、残虐行為を避けること等。普遍的な義務であり、合意を必要としない。
(2) 自発的義務:他者との間で自らが負うと同意した責任。自分が約束したことを守ること。個別的な義務であり、合意を必要とする。
(3) 連帯の義務:家族や一定の歴史を共有する人々に対する責任。個別的な義務であるが、合意を必要としない。

 カントやロールズが道徳的な責任として認めるのは、これらのうち、(1)と(2)のみである。しかし、サンデルは(3)の連帯の義務が存在するという。サンデルは、「公的な謝罪と補償、歴史的不正に対する共同責任、家族や同胞が互いに負う特別な責任、兄弟や子としての忠誠、村やコミュニティにみられる連帯の要求は、われわれの道徳的、政治的体験によく見られる特色」であり、連帯の義務の存在は否定できないと主張する。カントやロールズの正義論では、こうした種類の道徳的責任を認めることができない。それは、「負荷なき自己」という自己認識によるためだ、とサンデルは考える。これに対し、「物語る存在」または「位置づけられた自己」という認識に立てば、(1)の「自然的義務」、(2)の「自発的義務」とは異なる(3)の「連帯の義務」を自己は負っているという意識が働く。
 連帯の義務として、サンデルがまず挙げるのは、家族が互いに負う特別な責任である。母親の介護等がこれに当たる。次に、サンデルは、コミュニティの成員の責任を挙げる。フランスのレジスタンスのパイロットが、自分の住んでいた村を破壊する爆弾を拒否した例やイスラエルによるエチオピアのユダヤ人救出の例を述べる。後者の例は、とりわけ興味深いものである。
 サンデルは、1980年代前半、エチオピアで飢饉が起こった時、イスラエルがエチオピアのユダヤ人を救出してイスラエルに搬送した行動は適切だったか、と問う。「連帯と帰属の責務を受け入れるならば答えは明らかだ」とサンデルは言う。「イスラエルはエチオピアのユダヤ人の救出に特別の責任を負っており、その責任は難民全般を助ける義務(それはほかのすべての国家の義務でもある)よりも大きい。あらゆる国家には人権を尊重する義務があり、どこであろうと飢餓や迫害や強制退去に苦しむ人がいれば、それぞれの力量に応じた援助が求められる。これはカント流の論拠によって正当化され得る普遍的義務であり、われわれが人として、同じ人類として他者に対して負う義務である。いま答えを出そうとしている問いは、国家には国民の面倒を見る特別な責任がさらにあるかどうかである」と述べ、国家には、無差別的に人権を尊重する普遍的な義務とは別に、自国の国民の面倒を見る特別な責任がある、と主張している。
 そして、「愛国心に道徳的根拠があると考え、同胞の福祉に特別の責任があると考えるなら、第三のカテゴリーの責務を受け入れなければならない。すなわち、合意という行為に帰することのできない連帯あるいは成員の責務である」と説いている。
 私見を述べると、カントや前期ロールズの思想は個人主義的で世界市民的傾向が強く、普遍的な人権の尊重を強調する一方で、家族的生命的なつながりによる共同体の一員としての特殊的な責任を基礎づけられない。だが、自己は家族や地域社会や国家社会から様々なものを負っており、それゆえに自己は家族や地域の人々や自国の国民に対し、特別の責任を負っている。親や先祖に感謝し、その恩に報いようとすること。民族や国民の一員として、民族の繁栄や国家の存続のために尽力しようとすること。これらは、「物語る存在」または「位置づけられた自己」として、果たすべき義務である。
 カントやロールズの正義論とサンデルの正義論の違いは、移民問題を考える時、さらに重要な違いとなって現れる。サンデルは移民政策について、次のように書いている。
 「最も恵まれない人々を助けるという観点からすれば、移民に門戸を開くという政策にも一理ある。とはいえ、平等主義に共鳴する人々も、それを支持するのは躊躇する。この躊躇には道徳的根拠があるだろうか? そう、確かにある。だがそれは、共同生活と共有する歴史ゆえにわれわれが同胞の福祉に対して特別の責務を負うと認める場合に限る。そして、そう認めるかどうかは、人格をめぐる物語的な考え方を受け入れるかどうかによる。この考え方によれば、道徳的行為者としてのわれわれのアイデンティティは、われわれが暮らすコミュニティと不可分である」と。
 「負荷なき自己」と「物語る存在」または「位置づけられた自己」という自己認識の違いは、一国の政策の違いとなって現れる。前者の個人主義的自由主義を信奉すれば、移民の大量受け入れと多文化主義の政策が正当となり、後者の共同体主義を支持すれば、移民より国民の権利を優先し、移民を制限し移民を文化的に同化する政策が正当となる。移民問題は人権論と正義論の接点に存在する問題であり、近代西洋文明による自己認識に固執するならば、あらゆる国家は流入する移民に対して国民の権利を守ることができず、その結果、国民を統合している正義の仕組みをも失うことになる。
 私は、サンデルの「連帯の義務」という考え方は、共同体の道徳的意義を認め、ローカリズム(地域主義)、エスニシズム(民族主義)、ナショナリズム(国民主義)を評価するものとなると考える。ローカル、エスニックまたはナショナルな連帯の義務は、道徳的責任として集団を構成する諸個人が果たすべき義務とされるだろう。この時、自然的義務と連帯の義務、普遍的義務と個別的義務の二者択一を迫られる状況が考えられる。西方キリスト教はすべての人への無差別的な愛を説くが、人間の家族を単位とした集団生活を行うという特徴を踏まえると、家族から段階的に広がる差別的な愛が、人間の本質に適っている。道徳的義務については、家族的・部族的・民族的・国民的等の義務を優先し、そのうえで他の集団への支援を行う援助義務を担うとすべきである。それぞれの家族・部族・民族・国民等の集団において、集団内の連帯の義務を果たしつつ、集団間で相互に可能な支援をし合うことによって、より広い範囲での共同性を実現するという自助自立と相互援助の道徳が基本となるべきである。

 次回に続く。
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人権310〜サンデルは公共善を説く

2016-05-21 08:38:46 | 人権
●サンデルは公共善を説く

 アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルは、ハーバード大学の歴史で最も多くの聴講者を集めている教授として知られる。サンデルは、コミュニタリアン(共同体主義者)の一人に数えられるが、サンデル自身は、自分に対するコミュニタリアンというレッテルは、「多くの点で誤解を招く」と言う。自分は「常にコミュニタリアン側が正しいと考えているわけではない」「コミュニタリアニズムが多数決主義の別名、あるいは正義とはある時代のあるコミュニティで主流をなす価値観に依存すべきものだという考え方の別名である限り、私はそれを擁護しない」と述べている。その点に留意しつつ、本稿の分類ではコミュニタリアンに含める。
 ロールズ、ノージック、ドゥオーキンらの自由主義の正義論は、近代的自己を前提とするものゆえ、基本的に権利基底的理論である。公共善や道徳的義務よりも、権利を優先する。一方、彼らを批判するコミュニタリアンは、共同体において歴史的・社会的・文化的に形成され、受け継がれてきた共通の価値を重視する。サンデルは、さらに積極的に公共善の必要性を説き、また、正義を認定する論拠はそれが促進する目的や目標の道徳的重要性にあるという目的論的な考えを支持し、権利基底的な理論から目的基底的な理論への転換の方向を指し示している。

●位置づけられた自己

 サンデルは、カントやロールズの自由に選択できる独立した自己の概念を「負荷なき自己(unencumbered self)」と呼んで批判する。「負荷なき自己」とは、いかなる歴史的・社会的・文化的な制約からも自由な選択の主体である。「主意主義的自己(voluntarist self)」とも呼ぶ。
 実際には、諸個人は、何の負荷も受けずに存在しているのではない。生まれた社会、家族の関係、置かれた状況等において、さまざまな重荷を負っている。そこでサンデルは、マッキンタイアの「物語る存在」という概念を支持する。「人間は物語る存在だ。われわれは物語の探求としての人生を生きる。『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語の中に自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ」とサンデルは言う。物語を語るということは、「自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去のさまざまな負債、正当な期待、責務を受け継ぐ」ということである。「マッキンタイアによる人格の物語的な考え方は、自由に選択できる負荷なき自己としての人格を見る主意主義的な考え方とは好対照をなす」とサンデルは指摘する。
 サンデルは「人間の義務と責務はすべて意志や選択に帰することができるか。できない。われわれは、選択とは無関係な理由で連帯や成員の責務を負うことがある。その理由は、物語と結びついており、その物語を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて解釈するのである」と述べている。
 サンデルは、「負荷なき自己」に対して、共同体との繋がりを自覚したコミュニタリアン的な「位置づけられた自我(situated self)」を対置する。situated は「〜に位置すること」「特定の場所にいること」を意味する。「位置づけられた自己」とは、「自ら選んだのではない道徳的絆に縛られ、道徳的行為者としてのアイデンティティを形づくる物語に関わりを持つ自己」である。
 サンデルの自己論は、単なる自己認識ではなく、道徳意識や政治的関心に裏付けられているところに特徴がある。サンデルは、「自分自身をまったく負荷なき自己として構想することは、われわれが通常認めている、広範囲な道徳的で政治的な責務の意味を理解できなくなることである。その責務によってわれわれは、特定のコミュニティ、生活史、伝統による成員であることと結びついているからである」という。また、「家族や同胞の行動に誇りや恥を感じる能力は、集団の責任を感じる能力と関連がある。どちらも、自らを位置づけられた自己として見ることを必要とする」と述べている。
 私は、自己認識について、この見方を妥当と考える。ただし、訳語の問題として「位置づけられた自己」は、日本語として練れていない。situated は、特定の場所や地位にあることを言う。社会関係の中で特定の立場や地位にある自己という意味であり、「特定の立場にある自己」という説明的な表現の方が良いと思う。

 次回に続く。
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新安保法制の課題取り組みの加速を2

2016-05-20 08:45:52 | 時事
●平時と有事の中間的事態の対応(続き)

 平時と有事の中間的事態には、重要影響事態もある。重要影響事態とは、従来朝鮮半島有事や台湾海峡有事などを想定していた周辺事態の概念を改めたものである。放置すれば日本への直接の武力攻撃に至るおそれがある事態を意味する。
 新法制は、重要影響事態における自衛隊の他国軍への後方支援には、地理的制約がないことを明確にした。また、他国軍への弾薬提供や発進準備中の戦闘機への給油などの後方支援が可能である。日本のシーレーン(海上交通路)に位置する南シナ海やインド洋、中東でも重要影響事態が認定される可能性がある。
 これもかかる事態が発生したとき、実際にどう対処するのかの具体化が必要である。特に北朝鮮の核実験の強行、弾道ミサイルの発射実験が続き、米国・韓国と北朝鮮の緊張関係が高まっている現在の状況において、朝鮮半島有事にどのように対処するか、速やかに具体化されなけれなければならない。防衛当局や自衛隊は、そのための研究・準備を進めてきているだろうが、政治のレベルで適切な装備、人員、予算、訓練等がかのうにしなければならない。また、わが国はあくまで後方支援であるので、米軍支援を充実させる日米物品役務相互提供協定(ACSA)の改正も必要である。

●平時の対応

 次に、平時における対応として、まず海外の邦人救出がある。現在の世界では、いつどこでテロリストが日本人を拘束する事態が生じても不思議ではない状況になっている。それに対し、速やかに有効な対処ができるようにすることが課題である。
 平成25年(2013)1月のアルジェリア人質事件を機に、政府は自衛隊による在外邦人の輸送について従来の航空機や艦艇だけでなく、陸上輸送を可能にした。新法制では、これに救出任務を追加した。ただし、救出任務の実行には、当該国の同意のほか、当該国の権限がその地域に及んでいることなど3つの要件を満たさなければならない。また、要件を満たした時に、自衛隊が邦人を救出できるようにするには、自衛隊の対処に法的な根拠を定め、必要な武器使用権限を与えることが不可欠である。
 また、平時における別の対応として、自衛隊の国際平和支援活動がある。自衛隊による国際貢献については、他国軍の後方支援のための自衛隊の海外派遣を随時可能とする新法が施行された。新法施行によって、自衛隊は事前の訓練や検討ができ、任務を安全に遂行できる。ただし、支援実施には国会の例外なき事前承認を必要とする。事前承認を要件とすることは無制限に支援を広げることのないようにするために欠かせないが、逆に急ぎ実行すべきものに対して、国会休会中などに速やかな承認が可能なのか疑問が残る。
 新法制では、国連平和維持活動(PKO)に参加する自衛隊が武装勢力に襲われた非政府組織(NGO)を救助する「駆け付け警護」や、平時から米艦を守る「武器等防護」なども実施できる。ただし、政府は夏の参院選への影響をにらみ、当面はこうした任務を見送る方針だと報じられる。
 だが、その間にも、駆け付け警護や武器等防護を求められる事態が発生する可能性がある。政局的な判断で、検討すべき課題を棚上げするのではなく、議論と準備の積み重ねが必要だろう。

 次回に続く。
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人権309〜コミュニタリアニズムによる自由主義批判

2016-05-18 08:22:05 | 人権
●コミュニタリアニズムによる自由主義批判

 コミュニタリアニズムは、1980年代に、ロールズ、ノージック、ドゥオーキンらを批判する思想として出現した。コニュニタリアニズムは、コミュニティ(共同体)を重視する思想である。コミュニタリアン(共同体主義者)は、近代西洋文明で主流となった自由主義に、根本的な疑問を呈する。私的な善を公的な善より優先し、政府に価値中立であることを求める思想の問題点を抉り出し、共同体の復権と自律的・自覚的な主体による共同社会の建設を説く。アラスデア・マッキンタイア、チャールズ・テイラー、マイケル・ウォルツァー、マイケル・サンデルらがその代表的な論者である。
 コミュニタリアニズムは、現代のさまざまな社会的病理現象が、自由主義に起因するとする。社会的病理現象とは、共同体の崩壊であり、それに伴って人間関係が希薄となり、人間の主体性が失われていることである。自由主義は、個人単位の考え方によって、家庭や社会に深刻な事態を招いている。例えば、個人の幸福追求の結果として離婚が増加し、社会福祉への依存によって家族ヘの責任感が弱まっている。それによって、夫婦・親子の関係が不安定になり、家庭の崩壊が進んでいる。また個人の自由や福祉が重視されるあまり、社会のさまざまな集団で人々の結びつきが弱くなり、道徳意識の低下や政治的な無力感が社会全体に広がっている。
 コミュニタリアンは、自由主義がこうした社会病理を生み出したのは、個人主義的な自己観念にあると指摘する。自由主義は、個人は社会関係から離れて、それ自身として自分自身の所有者であり、自分自身の意志にしたがって善を選択し生きていくものと考える。それゆえ、個人は他者との関係や相互の承認とは無関係に、社会になんら責任や義務を負うことなく、権利を持つものとした。こうした近代的自己を、テイラーは「遊離せる自己(the disengaged self)」、サンデルは「負荷なき自己(unencumbered self)」と呼ぶ。彼らによれば、近代的自己は、社会関係から切り離され、自己の意思決定だけを拠り所とする「内容を欠いた空虚な自己」である。これに対し、コミュニタリアンは、「共同体の中にある自己」という別の自己認識を対置する。
 マッキンタイアは、著書『美徳なき時代』(1981年)で次のように述べる。「われわれはみな、特定の社会的アイデンティティの担い手として自分の置かれた状況に対処する。私は、ある人の息子や娘であり、別の人の従兄弟や叔父である。私はこの都市、あるいはあの都市の市民であり、ある同業組合や業界の一員である。私は、この部族、あの民族、その国民に属する。したがって、私にとって善いことはそうした役割を生きる人々にとっての善であるはずである。そのようなものとして、私は、自分の家族や、自分の都市や、自分の部族や、自分の国家の過去からさまざまな負債、遺産、正当な期待、責務を受け継いでいる。それらは私の人生に与えられたものであり、私の道徳的出発点となる。それが私自身の人生に道徳的特性を与えている部分もある」と。
 そして、マッキンタイアは、人間を「物語る存在」ととらえる。マッキンタイアによると、人間は本来的に自己解釈的で物語的(narrative)な存在である。人間は自らの意識の中で、過去、現在、未来を統一する。人間は言語共同体の中で他者と会話しながら、「何をなすべきであり何をなすべきでないか」を判断して行動する。善は単に主観の問題であるにとどまらず、一定の客観性を帯びるに至る。共同体における共通の善との関わりにおいて、初めて自己の生に意味が与えられ、アイデンティティも保障される。
 マッキンタイアは、近代的自己と「自己についての物語的見解との対照ははっきりしている」という。「私の人生の物語はつねに、私のアイデンティティの源である共同体の物語のなかに埋め込まれているからである。私は過去を持って生まれる。だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離そうとするのは、自分の現在の関係を歪めることである」と述べる。
 マッキンタイアらのコミュニタリアンによれば、近代西洋哲学は感情主義か主観主義に陥っている。善を直接的に問うことを避け、価値の選択を個人の感情や主観に委ねている。これは人間の存在と道徳的な行為についての根本的な誤解によるものである。価値相対主義が支配的な現代社会では、道徳も政治も個人の選好の問題へと矮小化されてしまう。こうした社会において、コミュニタリアンは、個人の主体性の確立が重要だと主張する。自分が生まれ、育ち、あるいは参加する共同体の中で自己のアイデンティティは形成され、個人は真に道徳的・政治的主体性を確立することができる、と説く。
 私見を述べると、コミュニタリアニズムの自由主義批判は、自由主義の個人主義的形態を批判するものであって、コミュニタリアニズムは近代西洋文明の自由の価値を否定しているのではない。コミュニタリアニズムは、集団主義的自由主義の立場から、個人主義的自由主義を批判するものである。
 コミュニタリアニズムによる個人主義的自由主義への批判は、わが国における近代的自己の乗り越えに通じるものがある。19世紀後半から近代化・西洋化の大波を受けてきたわが国では、近代的な個人意識が発達する一方、共同体や国柄への回帰を説く思想が登場した。国粋主義や日本主義がそれである。その哲学における最良の成果は、人間を間柄的存在ととらえた和辻哲郎の倫理学である。欧米では、1980年代に入ってようやく日本での議論に100年近く遅れて、個人主義的自由主義を根本的に批判する動きが現れたと見ることができる。そこでもわが国の場合と同じように、アイデンンティティや主体性の拠り所は、伝統や文化に求められている。
 コミュニタリアニンはコミュニティ一般を重視し、地域的(ローカル)、民族的(エスニック)、国民的(ナショナル)な共同体の問題に強く関心を向ける。そのことによって、近代市民社会で失われつつある共同性の回復を志向する。
 こうしたコミュニタリアニズムによる個人主義的自由主義への批判は、近代西欧合理主義的な人間観の見直しにつながるものでもある。ロールズが原初状態で想定した市民は、正義感覚への能力と善の構想への能力を持つ人間だった。これらの二つの能力は、理性的な能力である。だが、人間が集団において共通の意識を持つには、同胞意識や連帯感、共通の記憶が必要である。言い換えれば、基本的な信頼関係であり、生命的な一体感である。その根底にあるのは、他者と喜怒哀楽を共にする感情的な能力である。そうした感情的な能力は、家族において親子・夫婦・兄弟姉妹・祖孫等の間で家族愛を通じて培われ、家族的生命的なつながりに基づく共同体で発達するものである。ロールズは、近代西欧合理主義的な人間観に立つことによって、理性的能力に偏った発想をし、感情的能力が軽視されている。近代西欧合理主義の隘路を抜け出すには、理性と感情のバランスを求める発想が必要である。コミュニタリアンの自己像は、理性中心ではなく、理性と感情のバランスを持った人間観に向かうものとなるだろう。私は、理性と感情の共通の根に関わる能力として、共感に注目すべきだと考えている。共感については、第4部のまとめとなる第12章の人権の基礎づけに関する項目に書く。
 さて、ロールズらの個人主義的自由主義を根本的に批判するコミュニタリアンのうち、最大の存在はサンデルである。次に、サンデルの主張を詳しく見てみよう。

 次回に続く。
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新安保法制の課題取り組みの加速を1

2016-05-17 06:40:05 | 時事
●はじめに

 平成28年(2016)3月29日安全保障関連法が施行された。集団的自衛権の限定的行使が可能になったことなどにより、日米同盟の対中国・対北朝鮮の戦争抑止力は強化され、日本の防衛体制はより強固となった。自衛隊が国際社会の平和と安定に貢献する活動の幅も格段に広がる。日本の安全保障体制は、歴史的転換点を迎えた。
 だが、安保関連法には欠陥も多く、実効性を高めるには多くの課題がある。中国による尖閣侵攻や朝鮮半島有事、中東複合危機の深刻化等に備えるために、課題取り組みの加速が必要である。

●新法制の概要

 安保関連法は27年(2015)9月、自民、公明両党などの賛成により可決、成立した。6か月の周知期間を置いて、このたびの施行となった。私は、平成27年(2015)6月、同法の国会審議中に「安全保障関連法制の整備を急げ」を書いた。本稿は、同法の成立・施行後に書いた続編となる。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion08p.htm
 安保関連法は、自衛隊法や武力攻撃事態法など10本をまとめて改正した「平和安全法制整備法」と、他国軍の後方支援のため自衛隊の海外派遣を随時可能にする新法「国際平和支援法」の2本で構成される。
 新法制は、あらゆる事態に対応し、国家と国民の安全を守る防衛体制を構築することが目的だが、成立から施行までのこの6か月の間にも、東・南シナ海における中国の「力による現状変更」の動きや、北朝鮮の核実験の強行、長距離弾道ミサイル発射などが相次いでいる。新法制で起こりうる事態に即応できるかどうか、現状では疑問を禁じ得ない。有事、有事と平時の中間的な事態、平時の3段階に分けて概述する。

●有事の対応

 現在わが国にとって最も起こりうる有事は、中国が尖閣諸島を軍事力で侵攻した場合と、北朝鮮がわが国にミサイル攻撃を行った場合である。日本の有事では、これまで日本が直接武力攻撃を受ける武力攻撃事態での個別的自衛権しか認められていなかった。だが、新法制では、集団的自衛権の限定的行使が可能になった。米国など「密接な関係にある他国」に対する武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされるなど3条件を満たせば、集団的自衛権を行使できる。集団的自衛権の限定的行使の容認によって、自衛隊は米軍などの外国軍と互いに守り合える。それによって日米同盟の絆が強化され、戦争抑止力が高まった。
 だが、実際に日本を守る米軍が第三国に攻撃を受けた場合、わが国は自衛隊が武力を行使して援護するかどうかの判断をしなければならない。集団的自衛権の行使は「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限定している。こうした制約条件は世界で最も厳しい。「根底から」とか「明白な」といっても、その基準は明確ではない。小田原評定で判断が遅れれば、わが国は重大な損害を被る恐れがある。

●平時と有事の中間的事態の対応

 次に、有事と平時の中間的な事態の一つとして、グレーゾーン事態がある。グレーゾーン事態は、自衛隊に防衛出動が命じられる有事ではないが、治安維持を担う警察や海上保安庁による対処では不足する事態である。例えば、(1)武装集団による離島への不法上陸・占拠(2)外国軍艦の日本領海への侵入、(3)公海上での日本の民間船舶への攻撃などの場合である。わが国を取り巻く現在の情勢では、こうした事態が起こる可能性が高まっている。
 グレーゾーン事態への対処のために、政府は27年(2015)5月、自衛隊の治安出動や海上警備行動を迅速に発令するため、電話による閣議決定を導入することを決めた。意思決定の迅速化はよいとして、重要なのは実際にどのように対処するかである。
 中国による尖閣諸島への侵攻は、軍隊ではなく武装集団による離島への不法上陸・占拠という方法で開始されることが考えられる。治安出動や海上警備行動は警察権の一環であるため、自衛隊の武器使用は制約され、武装組織に十分な対応ができないだろう。国土防衛に有効な対応ができるように、対処法を整える必要がある。

 次回に続く。
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人権308〜自由至上と平等重視の立場からのロールズ批判

2016-05-16 08:53:58 | 人権
●自由至上と平等重視の立場からのロールズ批判

 ロールズの正義に関する理論は、英米圏にとどまらず、わが国を含めて世界的に大きな反響を呼んだ。彼の見解をめぐって重要な論争が展開され、哲学・政治学・法学等の多くの分野で幅広い議論が行われてきた。ロールズの理論に対し、自由と平等の重点の置き方についてノージックとドゥオーキンが、個人と社会の関係についてコミュニタリアンが、権利と目的の関係についてサンデルが、自由とケイパビリティ(潜在能力)の違いについてセンが、国家間的な国際的正義と個人間的なグローバル正義の違いについてベイツ、ポッゲ、ヌスバウムが批判を繰り広げている。本稿は、こうした議論が特に人権論に大きな影響を与えていることに注目する。
 ロールズは、自由を優先しつつ、機会の平等と格差の是正を図ることで、自由と平等の調和的な均衡を実現しようとした。ロールズは、自分の「公正としての正義」を現実政治の文脈に置くと、米国では「リベラル左派」、イギリスでは「社会民主主義」もしくは「労働党支持派」というレッテルを貼られるだろうと書いている。ロールズは、政治的自由を擁護しながら経済的自由の制限を求める政府の市場介入や累進的所得税による再分配に肯定的である。その点で、彼の思想はミルの修正自由主義の系統であり、ニューディール政策やケインズ主義、福祉国家論に通じるものがある。
 1970年代の米国に、こうしたロールズを批判する思想家たちが現れた。ロールズ以上に自由を重視する主張をしたのは、ロバート・ノージックである。ロールズ以上に平等を重視する主張をしたのは、ロナルド・ドゥオーキンである。
 ノージックは、ロールズを古典的自由主義の立場から批判した。今日米国で「リベラル」と言えば、主に修正的自由主義を意味する。そこで、古典的自由主義者は、自らの自由主義が修正的自由主義と異なることを主張するため、リバータリアニズムを標榜する。リバータリアニズムは、個人の自由を至上の価値とする思想である。自由至上主義または絶対的自由主義と訳される。
 ノージックは、著書『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)で、すべての個人は、生命、自由及び財産の権利を侵害されることなく、侵害されれば処罰や賠償を求めることができる絶対的な基本的権利を持つとする。ノージックは、この権利を、人間は単なる手段ではなく目的であり、本人の同意なしに何かの目的を達成するために利用したり犠牲にしたりすることは許されないというカント的な思想で基礎づける。ノージックによると、道徳的に正当化できる国家(政府)は、暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の履行の強制に限定される「最小国家」のみである。所得の再分配等の機能を果たそうとする「拡張国家」は、人々の権利を侵害するゆえに正当化されない。最小国家は、人々の自由な活動と結合による自発的共同体であるユートピアのための枠組みとして「メタ・ユートピア」という性格を持つとする。
 ノージックは、国家に必要なのは市場の中立性と矯正的・手続き的正義の確保であると説く。また取得と交換の正義が満たされている限り、どのようなものであっても、結果としての配分は正しいとする。功利主義やロールズの格差是正原理については、分配の結果を何らかの範型に当てはめようとするものであり、政府によるそうした押し付けは、個人の自由を侵害し、専制的な再分配を正当化するものであると批判する。この考え方は、政府による市場への介入に対して全体主義への道と強く反対したハイエクや、第2次大戦後、新古典派経済学の中心となり、新自由主義の経済理論を説いたフリードマンに通じるものである。
 次に、ドゥオーキンは、ロールズより平等主義的な立場から彼を批判した。ドゥオーキンの著書『権利論』(1977年)によれば、権利は既に個別化された政治的目的であり、どのような社会的目標よりも優先される。個人の権利の中で最も基底的な権利は、「平等な配慮と尊重への権利」である。これは、立法に先立つ道徳的権利であり、人々の根源的平等を確保する権利である。諸個人の持つ平等権こそが、私的な善を尊重する自由主義の核心をなす。この権利は、政府に対し、諸個人を自律的な道徳的人格として尊重し、一定の生活様式を押し付けないことだけでなく、諸個人が人間らしい生活を送ることができるように配慮することを求める。
 ドゥオーキンは、分配的正義について、結果の平等や機会の平等ではなく、「資源の平等」を説く。「資源の平等」とは、政府は、各人の生まれつきの能力の相違や自然的・社会的偶然から生じる資源の差について、財の再分配によって市場経済の欠陥を公正の観点から是正する義務を負うとするものである。ロールズは、格差是正原理を「社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最大の利益となるということ」として抑制的に定式化したが、ドゥオーキンは、個人は一定の生活水準を確保するための経済権・福祉権を持ち、政府はそれらの権利を実現する義務を負うと説いた。この点で、ドゥオーキンは、ロールズより社会権を遥かに重視している。ロールズよりもっと社会民主主義的である。
 ドゥオーキンは、政治理論を目的・権利・義務の結合の仕方から、目的基底的、権利基底的、義務基底的の三つに分ける。「基底的」は、“-based”の訳である。ドゥオーキンは、行為はあらかじめ善とされた目的に貢献する限りでのみ善いとするアリストテレス的な目的基底的理論や、行為の道徳性を重視し義務は義務のためになされるべきとするカント的な義務基底的理論を退ける。そして、個人の意志と選択を尊重し、権利が義務に先立つとする権利基底的理論を提示している。これは、平等を求めて、義務よりも権利の実現を求める主張である。個人主義的な社会民主主義と言えよう。
 ロールズに対するノージックとドゥオーキンの批判は、ロールズよりも自由を重視するか、平等を重視するかの違いによる批判である。人権論の観点から言うと、ここには自由を至上の価値としその実現を以て人権の実現とする考え方、社会的な平等の実現こそ人権の実現とする考え方、また自由を優先しつつ自由と平等の均衡点に人権の実現を目指す考え方がある。人権は普遍的・生得的として自明の権利とされるというのに、その人権について、これだけ違う考えがあるわけである。
 ノージックもドゥオーキンも、ロールズと同じく、公共善の実現を目的とせず、私的な善の追求を保障する枠組みを正義とし、正義を善より優先する。その点で、彼らは三人とも、個人主義的な自由主義の思想家である。これに対し、自由主義を根底的に批判する思想が欧米に現れた。それが、コミュニタリアニズム(共同体主義)である。次に、コミュニタリアニズムによるロールズ及び自由主義への批判を見てみよう。

 次回に続く。
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人権307〜国際的な正義の追求

2016-05-14 08:45:06 | 人権
●国際的な正義の追求

 ロールズの正義論は、原初状態を想定する社会契約説に立つものゆえ、もともと一個の政治社会の成立を説明するために立てられた仮説である。近代西欧で形成された国民国家をモデルとしている。ロールズは、当初自らの正義論の適用範囲を「他の社会から孤立している閉鎖システム」に限定していた。国際的な正義は検討の対象としていなかった。だが、国家は仮想的な空間に存在するのではない。第2部に書いたように、近代西欧の国家は、様々な集団の権利関係・権力関係の中で形成され、複雑な国際関係の中で生成興亡してきた。そうした国家が構成する国際社会の決まりごととして、17世紀西欧で国際法が生まれ、以後発展を続けている。ロールズが「公正としての正義」を打ち出すのであれば、国際的な正義や法についてどう考えるのか、見解を問われるのは当然である。そのうえ、ロールズの理論を継承しつつ、国民国家の枠組みを破って国際社会における正義を論じる動きが現れた。ロールズもこれに応え、自身の理論を国際法の領域へと拡大することを試みた。
 ロールズは、前期に立てた正義の原理について、これは想定される或る社会における正義の原理のあり方であって、唯一のあり方ではないという考えに、自ら考え方を変えた。このことはまず国民国家一般ではなく、一個の国民国家におけるあり方を示すものであることを意味する。英国や米国、ドイツでは違うということになる。また西洋文明と非西洋文明でも違うということをも意味する。こうなると、抽象的・普遍的な国家社会を設計する社会契約説を止めて、歴史的・実証的な立場に転換すべきところである。だが、ロールズは社会契約説に固執しつつ、1980年代の終わりころから、国際的正義論の構築に取り組んだ。そして、「諸国民衆の法」(the law of peoples)という構想を発表した。
 ロールズは、『公正としての正義 再説』において、正義には三つのレベルがあると書いている。「われわれは正義の三つのレベルを持つ。第一にローカルな正義、すなわち諸々の制度や結社に直接適用される原理。第二に国内的正義、すなわち社会の基本構造に適用される原理。そして最後にグローバルな正義、すなわち国際法に適用される原理である」と。
 ここでロールズは「グローバルな正義」と書いているが、彼の場合は実質的に国民国家の人民を主体とした正義を考えているので、グローバルというより国際的な正義の趣旨である。
 「諸国民衆の法」は、その第三のレベルの正義を構築しようとするものである。古代ローマにおける「万民法」に着想を得ているが、法の主体をネイション(国家・国民・民族)ではなく、ピープル(人民・民衆)とする。また、個人ではなく集団を主体としている点に特徴がある。原題の“the law of peoples”は「万民の法」とも訳されているが、後で述べるように、ロールズは普遍的な法を提示しているのではなく、合意のできる民衆と民衆の間での法の構築を追求しているので、私は「諸国民衆の法」という訳の方がよいと考える。「万」の文字は、万物・万有等の熟語において、「すべての」という意味を表すため、ロールズの著書の名称に当てるのは適当でない。
 ロールズが最初に「諸国民衆の法」について発表したのは、1993年にオクスフォード大学で行われたアムネスティ・インターナショナル主催による公開講座においてだった。ロールズは、この公開講座に講演者の一人として参加した。講座の記録は、『人権について』と題され、日本語の翻訳版が出版されている。
 「諸国民衆の法」と題した講義の始めに、ロールズはこの講義の目的について、一つは「諸国民衆の法が自由(リベラル)な正義の理念からどのように展開され得るか、そのあらましをのべること」、次に「自由な正義の政治的構想を諸国民衆の法へと拡張したうえで、政治的自由主義のあり方について明らかにすること」だとし、特に問題にするのは「寛容の道理ある限界はどこに設定されるべきか」だと述べる。
 ロールズは、「諸国民衆の法」とは「国際法および国際慣行の諸原理や諸規範に関わる正しさ(the right)と正義(justice)についての政治的構想」だと定義する。実定法である国際法が「正しいかどうかを判断するための諸概念と諸原理」を提供するものということである。ロールズは、こうした構想のもとに検討を続け、1999年に著書『諸国民衆の法』を刊行した。
 本書で、ロールズは社会契約説の手法と政治的自由主義の立場のもとに、国際的正義の理論を提示している。その中で、国際的正義との関係で人権についても論じている。ロールズの政治哲学は、もともと直接人権を主題とするものではなかったが、ロールズの正義論を巡る議論は人権論の領域に広がった。人権こそ、自由と平等、個人と共同体、国民国家と国際社会の交差点に立つ概念だからである。こうして、正義論において人権が論じられ、また人権論において正義が重要な概念となった。『諸国民衆の法』は、国際社会における人権の考察を含めて活発な議論を引き起こした。ロールズに対する批判的な意見と、彼の理論を継承・発展する試みとが多く現れている。『諸国民衆の法』の内容及びその批判・継承・発展については次章「国際的正義とグローバル正義」に書くこととし、ここでは続いてロールズの理論全般を批判する論者について述べることにする。

 次回に続く。
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