昨日は、天気が良いので、午後からウォーキングで知立方面を歩いて来ました。
歩き始めは団地の高楼で遠くの山並みを眺めることから始まりましたが、最遠点として目指すのは知立神社であり、そこからの帰途に弘法山 遍照院(弘法様)にも立ち寄ることにしました。
歩行実行図 ↓
最南端から時計回りで歩いています。歩行数は2万歩に少し足りませんでした。
歩行距離は14km弱でした。
団地の14階建て ↓
内部にエレベーターはもちろん設置されていますが、山に親しむ人間のサガとして、毎度のことですが外部階段を必ず歩いて登ることになります。
外部階段 ↓
奥の丸い突起が外部階段のある場所で、地上から数えて212段目が14階のフロアーになります。
木曽御嶽 ↓
時刻が午後1時43分と遅いので、山並みは霞の中に見えています。
中央アルプス ↓
これが朝の7時半頃なら最高の見え方をしていたかもしれません。
恵那山 ↓
ここのところいつも、恵那山はこんな見え方ですね。
伊吹山 ↓
伊吹山も薄っすらとしか見えていません。
今回は歩いて目指す場所が、もっと遠くにありますので、山岳景観の楽しみは切り上げて、高楼から下りて行きます。
高架の下 ↓
大きな円筒状の橋げたが何本も連なっています。上の道路は国道23号です。
新幹線 ↓
すぐそばに新幹線の軌道があり、待っていると上りの電車が疾走してきました。
知立古城跡 ↓
平安時代から戦国時代にかけて、神職で豪族の永見氏の居館が始まりとされ、戦国時代にはこの城を巡り、今川義元、織田信長、徳川家康の名前が錯綜します。
1699年の地震で建物は倒壊して、現在は跡地があるだけです。
石碑には「明治天皇駐蹕地」とありますが(「駐蹕」=ちゅうひつとは、天子が行幸の途中で、一時乗り物を停めること。)その詳細は不明です。
知立神社 ↓
知立神社に着いたのは、午後3時20分のことで、そぞろ夕日が気になる時間帯となっていました。
この神社の旧称は「池鯉鮒大明神」。江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられた・・・とあります。
社伝では、第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願し、平定後の帰途に感謝して建国祖神4柱を祀ったのが創建といわれます。
多宝塔(国の重文) ↓
wikiより引用 ↓
室町時代後期の永正6年(1509年)の再建とされる。三間四方の2層の塔で、塔高は約14.5メートル、屋根は柿葺、四隅には宝珠を置く。社伝では嘉祥3年(850年)に円仁が神宮寺を建立した際に2層の塔を建立したというが、現在の遺構はその後の再建になる。明治元年(1868年)の廃仏毀釈の際には、本尊(愛染明王)・仏壇を塔内から除いて文庫に改めたため、難を逃れている。その後、大正9年(1920年)の解体修理で復元された。なお、塔内にあった本尊は現在総持寺にある。この多宝塔は、神宮寺の遺構を伝える全国でも珍しい例とされ、国の重要文化財に指定されている。
お焚き上げ ↓
絵馬やお札、正月飾り、お守りなどを焼くようです。この時も火がついていました。
拝殿 ↓
ここでお詣りをします。
阿形 ↓
吽形 ↓
拝殿前には狛犬が鎮座しています。吽形の方は一本角なんですね。
扁額 ↓
鎌倉時代のもので、薬研彫り(刻んだ谷間がV字型になり、立体感が良く表される彫り方)にて「正一位智鯉鮒大明神」とあります。「池」鯉鮒ではなくて、「智」鯉鮒とあるのが、(重要な社名なのにもかかわらず)表記が揺れていて不思議ですね。 愛知県指定文化財になっています。
芭蕉の句碑 ↓
神社の西側には芭蕉の句碑があります。
「不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市」(ふだんたつ ちりゅうのしゅくの もめんいち)と読むそうですが、意味がよく分かりませんし、秀句のようにも思えませんでした。ただし、往時の池鯉鮒宿の風物や雰囲気は出ているのかもしれません。
二宮尊徳像 ↓
小さな尊徳像を木陰で見ました。
これにて知立神社を後にします。
弘法様 ↓
今度はお寺詣りになります。三河及び近在の人からは知立の「弘法様」と言われて、かつて毎月の縁日には特急電車も出るほどの賑わいであったこのお寺は、正式名称を「弘法山 遍照院」といいますが、今でも誰もが”弘法様”と呼んでいます。
念ずれば花ひらく ↓
境内に坂村真民の筆跡で「念ずれば花ひらく」の石碑があります。
本堂 ↓
本堂に向かって歩を進めます。
祭壇 ↓
お参りします 合掌。
四季桜 ↓
境内には四季桜がチラホラと咲いていました。
これにてすべての訪問が終わり、家路につきます。
日が落ちて、薄暗くなった17時02分に帰宅しました。
歩き始めは団地の高楼で遠くの山並みを眺めることから始まりましたが、最遠点として目指すのは知立神社であり、そこからの帰途に弘法山 遍照院(弘法様)にも立ち寄ることにしました。
歩行実行図 ↓
最南端から時計回りで歩いています。歩行数は2万歩に少し足りませんでした。
歩行距離は14km弱でした。
団地の14階建て ↓
内部にエレベーターはもちろん設置されていますが、山に親しむ人間のサガとして、毎度のことですが外部階段を必ず歩いて登ることになります。
外部階段 ↓
奥の丸い突起が外部階段のある場所で、地上から数えて212段目が14階のフロアーになります。
木曽御嶽 ↓
時刻が午後1時43分と遅いので、山並みは霞の中に見えています。
中央アルプス ↓
これが朝の7時半頃なら最高の見え方をしていたかもしれません。
恵那山 ↓
ここのところいつも、恵那山はこんな見え方ですね。
伊吹山 ↓
伊吹山も薄っすらとしか見えていません。
今回は歩いて目指す場所が、もっと遠くにありますので、山岳景観の楽しみは切り上げて、高楼から下りて行きます。
高架の下 ↓
大きな円筒状の橋げたが何本も連なっています。上の道路は国道23号です。
新幹線 ↓
すぐそばに新幹線の軌道があり、待っていると上りの電車が疾走してきました。
知立古城跡 ↓
平安時代から戦国時代にかけて、神職で豪族の永見氏の居館が始まりとされ、戦国時代にはこの城を巡り、今川義元、織田信長、徳川家康の名前が錯綜します。
1699年の地震で建物は倒壊して、現在は跡地があるだけです。
石碑には「明治天皇駐蹕地」とありますが(「駐蹕」=ちゅうひつとは、天子が行幸の途中で、一時乗り物を停めること。)その詳細は不明です。
知立神社 ↓
知立神社に着いたのは、午後3時20分のことで、そぞろ夕日が気になる時間帯となっていました。
この神社の旧称は「池鯉鮒大明神」。江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられた・・・とあります。
社伝では、第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願し、平定後の帰途に感謝して建国祖神4柱を祀ったのが創建といわれます。
多宝塔(国の重文) ↓
wikiより引用 ↓
室町時代後期の永正6年(1509年)の再建とされる。三間四方の2層の塔で、塔高は約14.5メートル、屋根は柿葺、四隅には宝珠を置く。社伝では嘉祥3年(850年)に円仁が神宮寺を建立した際に2層の塔を建立したというが、現在の遺構はその後の再建になる。明治元年(1868年)の廃仏毀釈の際には、本尊(愛染明王)・仏壇を塔内から除いて文庫に改めたため、難を逃れている。その後、大正9年(1920年)の解体修理で復元された。なお、塔内にあった本尊は現在総持寺にある。この多宝塔は、神宮寺の遺構を伝える全国でも珍しい例とされ、国の重要文化財に指定されている。
お焚き上げ ↓
絵馬やお札、正月飾り、お守りなどを焼くようです。この時も火がついていました。
拝殿 ↓
ここでお詣りをします。
阿形 ↓
吽形 ↓
拝殿前には狛犬が鎮座しています。吽形の方は一本角なんですね。
扁額 ↓
鎌倉時代のもので、薬研彫り(刻んだ谷間がV字型になり、立体感が良く表される彫り方)にて「正一位智鯉鮒大明神」とあります。「池」鯉鮒ではなくて、「智」鯉鮒とあるのが、(重要な社名なのにもかかわらず)表記が揺れていて不思議ですね。 愛知県指定文化財になっています。
芭蕉の句碑 ↓
神社の西側には芭蕉の句碑があります。
「不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市」(ふだんたつ ちりゅうのしゅくの もめんいち)と読むそうですが、意味がよく分かりませんし、秀句のようにも思えませんでした。ただし、往時の池鯉鮒宿の風物や雰囲気は出ているのかもしれません。
二宮尊徳像 ↓
小さな尊徳像を木陰で見ました。
これにて知立神社を後にします。
弘法様 ↓
今度はお寺詣りになります。三河及び近在の人からは知立の「弘法様」と言われて、かつて毎月の縁日には特急電車も出るほどの賑わいであったこのお寺は、正式名称を「弘法山 遍照院」といいますが、今でも誰もが”弘法様”と呼んでいます。
念ずれば花ひらく ↓
境内に坂村真民の筆跡で「念ずれば花ひらく」の石碑があります。
本堂 ↓
本堂に向かって歩を進めます。
祭壇 ↓
お参りします 合掌。
四季桜 ↓
境内には四季桜がチラホラと咲いていました。
これにてすべての訪問が終わり、家路につきます。
日が落ちて、薄暗くなった17時02分に帰宅しました。