この山行のあった、今から27年前の1993年という年は、結構てんこ盛りにいろいろなことがあった年でした。
今上天皇がまだ皇太子であった時ですが、雅子様とのご成婚がありました。
サミットが東京の赤坂迎賓館で行われました。
エリツインロシア大統領が来日した年でもありました。
そして、法隆寺・姫路城・白神山地が世界遺産登録されました。
田中角栄さんが亡くなったのもこの年のことでした。
この年に生まれた子供に「悪魔」という名前を付けた親もいましたね。
8月には、この山行に出掛けたその日に細川内閣が発足しました。いわゆる55年体制の終焉です。
この山行で一番我が身に迫ったことと言えば台風7号のことになります。
マリアナ諸島付近で発生した台風が北上、大型で非常に強いものに成長して、沖縄から九州をかすめて北上し、10日の朝6時頃には日本海側を進んだために、この山行では10日、11日にかけて強い風雨の影響を受けたのです。
それが今回レポートする薬師岳山荘から黒部五郎小屋までの稜線歩きとぴったり一致するのです。
今回のレポート部分 ↓
青い線の部分ですが、それは8/10日に薬師岳山荘を出て---強い雨風に打たれながらも行進し、黒部五郎小屋に着き、そこで一泊。 翌8/11日に三俣蓮華岳を目指して、まだ強い風の残る山道を進んで行くところまでのレポートです。
断面図 ↓
アップダウンを繰り返して歩いたことよりも、未だに雨風が半端なかったことを記憶しています。休みなく降る雨に強い風ですので、ビデオ機材をリュックの外に出すことが出来ず、ほとんど歩き詰めでした。
そのためにこの日のビデオ映像は非常に短かいものとなりました。
途中で、 ↓
薬師岳山荘でこの日の移動を諦めて、もう一日の停滞を覚悟していましたが、やはり少しでも進んでおこうと考えて、朝遅くに歩き始めました。
すぐに強い風にあおられて、身体を投げ出されて、転倒しました。
山歩き中に風に吹き飛ばされたのはこの時が初めてのことでした。
後で気づいたことですが、ザックカバーも吹き飛ばされて無くなっていました。
黒部五郎岳 ↓
この日はビデオカメラをリュックの中から出すことがほとんどなくて、黒部五郎岳の山頂に着いて「カメラが濡れても仕方がない」と覚悟して、やっと外に出しました。
黒部五郎小屋 ↓
黒部五郎小屋に遅くに着きました。小屋の中では停滞する人でいっぱいになっていました。
案内してくれた寝床もぎゅうぎゅう詰めで、一旦は収まりましたがトイレに立ったらもうスペースがありませんでした。こんなところに来ても人間のいやらしいサガに直面するとは・・・・
仕方なく便所の前の通路で、持参した寝袋にくるまって一夜を過ごしました。
翌朝(8/12) ↓
便所の前で過ごした一晩は不潔で不愉快でしたが、なんとか睡眠時間は確保できたようです。明けて、不愉快な場所から一刻も早く抜け出そうと、朝の食事もせずに小屋を後にします。
雨はやみましたがまだ風は吹いています。小屋前の平原にはコバイケイソウが群舞しています。その背後の山は笠ヶ岳。
笠ヶ岳をズームアップ ↓
端正な左右対称ですね。
小屋の背後の道を、三俣蓮華岳に至る稜線目指して登って行きます。標高差は約500mほどです。
薬師岳 ↓
二日前に強風の中、山頂で雲の切れ間を待っていた、薬師岳には未だ日差しが来ていません。
黒部五郎岳 ↓
前の日に雨と濃いガスに見舞われた黒部五郎岳でしたが、一夜明けて凄い眺めがありました。
朝日が当たって輝いています。
迫力の黒部五郎さんをズームアップ ↓
カールの上に朝日が当たり、山頂部は迫力満点の金色の輝きを見せつけてくれます。
白山 ↓
黒部五郎の背後に加賀の白山が見えています。稜線上に出ると未だ台風の余波で強い風が吹き続けていますが、雨が無いので心配はしなくて済みます。稜線歩きの中で行動食として持って来ていた大塚製薬のカロリーメイトを食べ始めます。
笠ヶ岳 ↓
笠ヶ岳方面にも日が当たって来ています。
剱・立山・赤牛岳 ↓
カシミールで描画 ↓
※今回はバランス栄養食ということで、カロリーメイトを行動食として、ずっと食べ続けました。
大塚製薬に直接電話して、「食べ続けても支障はないか」と、問い合わせたところ、「全く問題はない」とのことでしたので、大量に買い込んで担ぎ上げて来たのです。
女優の和泉雅子さんが北極点に犬ぞりで到達した時にカロリーメイトを待ち歩いたと聞き、それを体験したかったからです。
(和泉さんの帰国後の講演では、探検中は毎日肉を1㎏平らげ、その他に砂糖を大量に摂取し、ご飯も食べていたそうです。カロリーメイトは非常食程度のものだったかも。)
小生がこの山行でカロリーメイトを食べ続けたところ、食べ飽きてしまい、4日目の昼飯の時に我慢が出来なくなり、山小屋に駆け込んで、カレーライスを所望したほどになりました。
この山行以後、しばらくの間はカロリーメイトを口にしなくなりました。
今上天皇がまだ皇太子であった時ですが、雅子様とのご成婚がありました。
サミットが東京の赤坂迎賓館で行われました。
エリツインロシア大統領が来日した年でもありました。
そして、法隆寺・姫路城・白神山地が世界遺産登録されました。
田中角栄さんが亡くなったのもこの年のことでした。
この年に生まれた子供に「悪魔」という名前を付けた親もいましたね。
8月には、この山行に出掛けたその日に細川内閣が発足しました。いわゆる55年体制の終焉です。
この山行で一番我が身に迫ったことと言えば台風7号のことになります。
マリアナ諸島付近で発生した台風が北上、大型で非常に強いものに成長して、沖縄から九州をかすめて北上し、10日の朝6時頃には日本海側を進んだために、この山行では10日、11日にかけて強い風雨の影響を受けたのです。
それが今回レポートする薬師岳山荘から黒部五郎小屋までの稜線歩きとぴったり一致するのです。
今回のレポート部分 ↓
青い線の部分ですが、それは8/10日に薬師岳山荘を出て---強い雨風に打たれながらも行進し、黒部五郎小屋に着き、そこで一泊。 翌8/11日に三俣蓮華岳を目指して、まだ強い風の残る山道を進んで行くところまでのレポートです。
断面図 ↓
アップダウンを繰り返して歩いたことよりも、未だに雨風が半端なかったことを記憶しています。休みなく降る雨に強い風ですので、ビデオ機材をリュックの外に出すことが出来ず、ほとんど歩き詰めでした。
そのためにこの日のビデオ映像は非常に短かいものとなりました。
途中で、 ↓
薬師岳山荘でこの日の移動を諦めて、もう一日の停滞を覚悟していましたが、やはり少しでも進んでおこうと考えて、朝遅くに歩き始めました。
すぐに強い風にあおられて、身体を投げ出されて、転倒しました。
山歩き中に風に吹き飛ばされたのはこの時が初めてのことでした。
後で気づいたことですが、ザックカバーも吹き飛ばされて無くなっていました。
黒部五郎岳 ↓
この日はビデオカメラをリュックの中から出すことがほとんどなくて、黒部五郎岳の山頂に着いて「カメラが濡れても仕方がない」と覚悟して、やっと外に出しました。
黒部五郎小屋 ↓
黒部五郎小屋に遅くに着きました。小屋の中では停滞する人でいっぱいになっていました。
案内してくれた寝床もぎゅうぎゅう詰めで、一旦は収まりましたがトイレに立ったらもうスペースがありませんでした。こんなところに来ても人間のいやらしいサガに直面するとは・・・・
仕方なく便所の前の通路で、持参した寝袋にくるまって一夜を過ごしました。
翌朝(8/12) ↓
便所の前で過ごした一晩は不潔で不愉快でしたが、なんとか睡眠時間は確保できたようです。明けて、不愉快な場所から一刻も早く抜け出そうと、朝の食事もせずに小屋を後にします。
雨はやみましたがまだ風は吹いています。小屋前の平原にはコバイケイソウが群舞しています。その背後の山は笠ヶ岳。
笠ヶ岳をズームアップ ↓
端正な左右対称ですね。
小屋の背後の道を、三俣蓮華岳に至る稜線目指して登って行きます。標高差は約500mほどです。
薬師岳 ↓
二日前に強風の中、山頂で雲の切れ間を待っていた、薬師岳には未だ日差しが来ていません。
黒部五郎岳 ↓
前の日に雨と濃いガスに見舞われた黒部五郎岳でしたが、一夜明けて凄い眺めがありました。
朝日が当たって輝いています。
迫力の黒部五郎さんをズームアップ ↓
カールの上に朝日が当たり、山頂部は迫力満点の金色の輝きを見せつけてくれます。
白山 ↓
黒部五郎の背後に加賀の白山が見えています。稜線上に出ると未だ台風の余波で強い風が吹き続けていますが、雨が無いので心配はしなくて済みます。稜線歩きの中で行動食として持って来ていた大塚製薬のカロリーメイトを食べ始めます。
笠ヶ岳 ↓
笠ヶ岳方面にも日が当たって来ています。
剱・立山・赤牛岳 ↓
カシミールで描画 ↓
※今回はバランス栄養食ということで、カロリーメイトを行動食として、ずっと食べ続けました。
大塚製薬に直接電話して、「食べ続けても支障はないか」と、問い合わせたところ、「全く問題はない」とのことでしたので、大量に買い込んで担ぎ上げて来たのです。
女優の和泉雅子さんが北極点に犬ぞりで到達した時にカロリーメイトを待ち歩いたと聞き、それを体験したかったからです。
(和泉さんの帰国後の講演では、探検中は毎日肉を1㎏平らげ、その他に砂糖を大量に摂取し、ご飯も食べていたそうです。カロリーメイトは非常食程度のものだったかも。)
小生がこの山行でカロリーメイトを食べ続けたところ、食べ飽きてしまい、4日目の昼飯の時に我慢が出来なくなり、山小屋に駆け込んで、カレーライスを所望したほどになりました。
この山行以後、しばらくの間はカロリーメイトを口にしなくなりました。
自分のことで言えば、27年前と比べて現在は随分脆弱になったものです。
そのことが一番如実に表れるのが、睡眠の質のようですね。
何かあると寝付くのに障碍となってしまいますから、随分やわなものです。
寝ることについていろいろなことを要求するようになった時、そのあたりで身体の衰えが始まるようですね。
お風呂についても安眠するのには相当重要な要素かもしれませんね。
小生の場合は子供のころからお風呂嫌いでしたので、その点は要求度が緩いようです。
今頃の富士山はどうなっているのでしょうか。