1994年のお盆休みに、5泊6日掛けて南アルプスの南部を歩きました。
本当は北部にも足を延ばすつもりでしたが、塩見小屋に着いた時に、靴底の剝がれに気づき、そこから先を断念せざるを得なくなりました。
今から考えると、靴と底を紐で括ってでも歩き通せばよかったと悔やんでもいますが、それ以後の天気が下り坂でしたので、無理を通さなかったのは正解だったかもしれませんね。
この時は新幹線で静岡まで行き、そこからはバスを乗り継いで入山しました。
塩見岳からの下山は伊那側にして、JR飯田線、東海道本線を利用して帰ってきました。
北半分 ↓
南半分 ↓
行程断面図 ↓
歩いた距離は、実際には70kmを超えていたようです。
背負ったキスリング ↓
この頃はすでに、こういうキスリングスタイルは古くて、珍しくなっていました。(三日目の朝撮影)
大井川鐡道井川駅 ↓
バスは、これからあと、なおも山の中に入っていきます。(8月7日)
畑薙大吊橋 ↓
ここでバスから降りたのは小生一人だけで、乗り合わせた他の登山者たちは皆もっと奥まで入っていきます。
この橋は全長181.7メートルで、幅20センチとありました。随分狭い幅ですが、これは木の板の幅のようですね。
下は畑薙湖で、湖水面の標高は936mです。
ウソッコ沢小屋 ↓
最初の晩はここに泊まりました。その日の晩は丼蕎麦で軽く済ませました。翌朝からは行動食になります。(8月7日泊)
茶臼岳 ↓
8月8日。南アルプスで、最初の高みは茶臼岳(2604m)でした。ここから稜線を北上していきます。
上河内岳 ↓
上河内岳(2803m)の頂上では登山者が一人、昼寝をしていました。
このあとから激しい雷雨がやって来て、小生は命からがら樹林帯に潜り込んで雷の遠のくのを身を縮めて待っていましたが、あの、午睡者は急にやって来た雷雨からどう逃れたのか未だに気がかりです。
聖平小屋 ↓
雷雨に打たれて、やや濡れた体を小屋に入れましたが、ここでは食事の提供はなくて、自炊専門でした。
聖岳頂上 ↓
8月9日。聖平小屋から恐らく3時間ほどだったと思いますが、聖岳の山頂(3013m)に着きます。
赤石岳 ↓
山頂では、目の前に赤石岳が根張り大きく・太く構えています。
富士山 ↓
この日は午前中、富士山が良く見えました。
赤石岳を目指して長い道のり ↓
聖岳の次に目指すは赤石岳ですが、山が大きくて、この日のうちには近づくだけです。
手前の山をひとつづつ越えて行きます。
百閒洞山の家 ↓
ここでは珍しい思いを二つ体験できました。
一つは、トイレが沢水を跨いでいるので、完全な”水洗”のトイレであったことでした。
もう一つは、食事がフランス料理であったことでした。スタッフにその経験者がいるとかで、なかなかのものでしたね。
赤石岳に取付く ↓
8月10日。 まだ暗いうちから歩き出し、赤石岳の大きな山体に取付いています。
木曽の御嶽が、中央アルプスの背後に見えました。
富士山 ↓
この日も富士山は良く見えました。
赤石岳 ↓
赤石山脈の大親分たる赤石岳(3120m)に着くと、そこには畑薙大吊橋のところでバスから降りた小生と別れた他のパーティの人が来ていて、小生のことを覚えていてくれました。昔風のレトロなキスリングで歩く人間を多少なりとも奇異に感じて、記憶に残っていたのでしょうね。
挨拶を交わして、お別れします。
北の方角 ↓
行く手には3000m級の山々が見えています。
恵那山 ↓
西の方角には雲の上に恵那山が見えています。
振り返り ↓
振り返ると、歩いて来た、聖岳や兎岳が見えています。
赤石岳の山頂から下り、小赤石岳を目指します。
赤石岳を振り返る ↓
小赤石岳まで来て、先ほどまで居た赤石岳を振り返ります。大きな山体ですね。
穂高岳と槍ヶ岳 ↓
遠くに穂高岳と槍ヶ岳も見えていました。
荒川岳(前岳) ↓
赤石岳の山頂から5時間近く後になって、荒川岳の前岳(3061m)に着きました。人が誰もいなかったので、そこでは雷鳥の雛が砂浴びをしています。早くも雲が出て来ていて、これからの天気はあまりよくなさそうです。
中岳と避難小屋 ↓
前岳からそう離れていない距離に中岳(3069m)があり、そこには立派な避難小屋があります。
この小屋は無人ですが、夕方近くに、他所の場所から年配の男性が、小屋使用料を徴収にやってきます。
悪沢岳(=東岳) ↓
中岳の小屋に荷物を置いて、悪沢岳まで往復することにします。眼前の大きな山体に正対します。
悪沢岳の山頂 ↓
悪沢岳の山頂(3141m)までは中岳の避難小屋から小一時間歩いたような気がします。
3141メートルという高さは半端ないものですね。あたりはガスが立ち篭めていました。
これからあと、中岳避難小屋に戻り、一夜を過ごします。
小河内岳 ↓
8月11日。中岳避難小屋から稜線を北上して塩見岳に近づいていきます。
荷物は日を追うごとに軽くなり、身体は山慣れして快調です。天気は午前中は未だ日が差しますが、お昼過ぎ夕刻が近づくと、確実にガスって来るのがパターン化しています。
小河内岳(2802m)は通過点の一つで、しっかりと記憶には残っていないのが残念です。
2800メートル超えという高さは侮ることはできないのですが、重鎮たちの中にあると埋没してしまいますね。
甲斐駒ヶ岳 ↓
これは烏帽子岳(2726m)あたりから写したものでしょうか。甲斐駒ヶ岳が良く見えています。
塩見岳 ↓
三伏峠から北に延びる稜線上から撮ったものでしょうか。これから向かう塩見岳が大きく聳えています。
稜線上は日差しが強くて、随分暑い思いをしました。
塩見小屋 ↓
塩見小屋に着いた時も暑さのさなかでした。ここでリュックをおろし、身の回りを片付けている時に、山靴の底のゴムが剥げてペラペラしていることに気づき、それが修復不可能であることから、これから先のハードな山行は無理であると判断して、この小屋での泊りを最後にして、下山することを決意しました。
白根三山 ↓
夕刻には小屋から外に出て、こんなに見事な景色がありました。
(この景色を最後にして、翌日は朝から天気が怪しくなります。)
仙丈岳 ↓
仙丈岳も、この山行中では一番姿を良く現わしていたようです。
翌12日の早朝、ガスの中を塩見岳山頂を往復しておいて、それから下山の途につきます。
靴底がしっかりして居たら・・・・・なんてことを考えることなく、サッパリと諦めをつけて下った山道でした。
本当は北部にも足を延ばすつもりでしたが、塩見小屋に着いた時に、靴底の剝がれに気づき、そこから先を断念せざるを得なくなりました。
今から考えると、靴と底を紐で括ってでも歩き通せばよかったと悔やんでもいますが、それ以後の天気が下り坂でしたので、無理を通さなかったのは正解だったかもしれませんね。
この時は新幹線で静岡まで行き、そこからはバスを乗り継いで入山しました。
塩見岳からの下山は伊那側にして、JR飯田線、東海道本線を利用して帰ってきました。
北半分 ↓
南半分 ↓
行程断面図 ↓
歩いた距離は、実際には70kmを超えていたようです。
背負ったキスリング ↓
この頃はすでに、こういうキスリングスタイルは古くて、珍しくなっていました。(三日目の朝撮影)
大井川鐡道井川駅 ↓
バスは、これからあと、なおも山の中に入っていきます。(8月7日)
畑薙大吊橋 ↓
ここでバスから降りたのは小生一人だけで、乗り合わせた他の登山者たちは皆もっと奥まで入っていきます。
この橋は全長181.7メートルで、幅20センチとありました。随分狭い幅ですが、これは木の板の幅のようですね。
下は畑薙湖で、湖水面の標高は936mです。
ウソッコ沢小屋 ↓
最初の晩はここに泊まりました。その日の晩は丼蕎麦で軽く済ませました。翌朝からは行動食になります。(8月7日泊)
茶臼岳 ↓
8月8日。南アルプスで、最初の高みは茶臼岳(2604m)でした。ここから稜線を北上していきます。
上河内岳 ↓
上河内岳(2803m)の頂上では登山者が一人、昼寝をしていました。
このあとから激しい雷雨がやって来て、小生は命からがら樹林帯に潜り込んで雷の遠のくのを身を縮めて待っていましたが、あの、午睡者は急にやって来た雷雨からどう逃れたのか未だに気がかりです。
聖平小屋 ↓
雷雨に打たれて、やや濡れた体を小屋に入れましたが、ここでは食事の提供はなくて、自炊専門でした。
聖岳頂上 ↓
8月9日。聖平小屋から恐らく3時間ほどだったと思いますが、聖岳の山頂(3013m)に着きます。
赤石岳 ↓
山頂では、目の前に赤石岳が根張り大きく・太く構えています。
富士山 ↓
この日は午前中、富士山が良く見えました。
赤石岳を目指して長い道のり ↓
聖岳の次に目指すは赤石岳ですが、山が大きくて、この日のうちには近づくだけです。
手前の山をひとつづつ越えて行きます。
百閒洞山の家 ↓
ここでは珍しい思いを二つ体験できました。
一つは、トイレが沢水を跨いでいるので、完全な”水洗”のトイレであったことでした。
もう一つは、食事がフランス料理であったことでした。スタッフにその経験者がいるとかで、なかなかのものでしたね。
赤石岳に取付く ↓
8月10日。 まだ暗いうちから歩き出し、赤石岳の大きな山体に取付いています。
木曽の御嶽が、中央アルプスの背後に見えました。
富士山 ↓
この日も富士山は良く見えました。
赤石岳 ↓
赤石山脈の大親分たる赤石岳(3120m)に着くと、そこには畑薙大吊橋のところでバスから降りた小生と別れた他のパーティの人が来ていて、小生のことを覚えていてくれました。昔風のレトロなキスリングで歩く人間を多少なりとも奇異に感じて、記憶に残っていたのでしょうね。
挨拶を交わして、お別れします。
北の方角 ↓
行く手には3000m級の山々が見えています。
恵那山 ↓
西の方角には雲の上に恵那山が見えています。
振り返り ↓
振り返ると、歩いて来た、聖岳や兎岳が見えています。
赤石岳の山頂から下り、小赤石岳を目指します。
赤石岳を振り返る ↓
小赤石岳まで来て、先ほどまで居た赤石岳を振り返ります。大きな山体ですね。
穂高岳と槍ヶ岳 ↓
遠くに穂高岳と槍ヶ岳も見えていました。
荒川岳(前岳) ↓
赤石岳の山頂から5時間近く後になって、荒川岳の前岳(3061m)に着きました。人が誰もいなかったので、そこでは雷鳥の雛が砂浴びをしています。早くも雲が出て来ていて、これからの天気はあまりよくなさそうです。
中岳と避難小屋 ↓
前岳からそう離れていない距離に中岳(3069m)があり、そこには立派な避難小屋があります。
この小屋は無人ですが、夕方近くに、他所の場所から年配の男性が、小屋使用料を徴収にやってきます。
悪沢岳(=東岳) ↓
中岳の小屋に荷物を置いて、悪沢岳まで往復することにします。眼前の大きな山体に正対します。
悪沢岳の山頂 ↓
悪沢岳の山頂(3141m)までは中岳の避難小屋から小一時間歩いたような気がします。
3141メートルという高さは半端ないものですね。あたりはガスが立ち篭めていました。
これからあと、中岳避難小屋に戻り、一夜を過ごします。
小河内岳 ↓
8月11日。中岳避難小屋から稜線を北上して塩見岳に近づいていきます。
荷物は日を追うごとに軽くなり、身体は山慣れして快調です。天気は午前中は未だ日が差しますが、お昼過ぎ夕刻が近づくと、確実にガスって来るのがパターン化しています。
小河内岳(2802m)は通過点の一つで、しっかりと記憶には残っていないのが残念です。
2800メートル超えという高さは侮ることはできないのですが、重鎮たちの中にあると埋没してしまいますね。
甲斐駒ヶ岳 ↓
これは烏帽子岳(2726m)あたりから写したものでしょうか。甲斐駒ヶ岳が良く見えています。
塩見岳 ↓
三伏峠から北に延びる稜線上から撮ったものでしょうか。これから向かう塩見岳が大きく聳えています。
稜線上は日差しが強くて、随分暑い思いをしました。
塩見小屋 ↓
塩見小屋に着いた時も暑さのさなかでした。ここでリュックをおろし、身の回りを片付けている時に、山靴の底のゴムが剥げてペラペラしていることに気づき、それが修復不可能であることから、これから先のハードな山行は無理であると判断して、この小屋での泊りを最後にして、下山することを決意しました。
白根三山 ↓
夕刻には小屋から外に出て、こんなに見事な景色がありました。
(この景色を最後にして、翌日は朝から天気が怪しくなります。)
仙丈岳 ↓
仙丈岳も、この山行中では一番姿を良く現わしていたようです。
翌12日の早朝、ガスの中を塩見岳山頂を往復しておいて、それから下山の途につきます。
靴底がしっかりして居たら・・・・・なんてことを考えることなく、サッパリと諦めをつけて下った山道でした。
南アルプスの縦走はもう20年以上前でしたか。それも、一度に茶臼から塩見までとは健脚そのものですね。登山靴に支障がなければ甲斐駒までも可能じゃなかったようですね。百閒洞の自然の水洗トイレは、鮮明に記憶に残っています^^
山ちゃんは、甲斐駒~塩見、悪沢~光と二回に分けて行きましたから、三伏峠~荒川が途切れていましたが、数年前に何とか繋ぐ事が出来て南アルプスが一本の線繋がりました。でも、3回も足を運びましたから、一度に縦走するのは大変な事ですね。
遡るともう22年も前になっていたのですね。
今から考えると、重い荷物を背負えて、まだ身体が大分若かったような気がしました。
小生がまだ20歳の頃、仙塩尾根を北上している単独行者に出遇いましたが、彼は高校生で、光岳をあの長いアプローチ40kmを歩き通して、その後北上を重ね、甲斐駒ケ岳まで行くと言っていましたから相当なものですね。
小生はそれよりもずっと優しくして、茶臼岳から入って、甲斐駒を狙いましたが、韓国産の安物の靴を使っていた、バチが当たってしまいました。
山ちゃん様は線が一本につながりましたか。
三伏峠と荒川岳が繋がったのは例の夜10時ころまで歩いた、あの強烈な日帰りロングコースの時でしたね。
小生は塩見岳から農鳥岳までと、茶臼岳と光岳間がつながっていません。
さて、それではこれからどうしましょうかね。
凄いですね、歩いた距離が静岡県から信州まで南アルプス縦走
大きなキスリング、重かったでしょう。
総歩行距離は、どのくらいだったでしょうか?
靴底が剥がれなかったらと思います。
あらためて、ぶちょうほう様の経験に驚きました。
未だひざと腰を痛めるずっと前のことですから、身体は無理が利きました。
それでも今と比べて、さしたる違いはないのではないかと自負していますが、思い違いかもしれませんね。
総歩行距離は、おそらく75kmに近かったと思いました。
あの頃は歩数とか距離とかについては全く無頓着でしたから、今から考えると、惜しいことをしていましたね。
韓国産の安物登山靴を履き潰すつもりで使っていましたが、肝心の場所で、期限切れとなり、残念でした。
サラリーマン時代は貴重な夏の休みには、小屋掛けの縦走をやっていたものでしたね。
昔のものを出していて心苦しいのですが、これも自分の中のボケ防止のための悪あがきとしてお許しください。
これまでに昔のものはほとんど見返すことがありませんでしたが、この”ボク防止”の一環で見ています。
それにしても昔のビデオカメラでは、物凄く画像が粗いですね。
回想の山歩き、良いですね。
私も昔のアルバムを見ながら時々昔の歩きを思い出したりしますが、天気が良く写真がたくさん残っている山行は思い出もいっぱい残っています。
逆に雨や曇りでパッとしない天候の時は写真を撮ることが少なくなるので、どうしても記憶も薄れています。
広河原~北岳~間ノ岳~農鳥ピストン~熊ノ平~塩見~三福峠と歩いたときは快晴で記憶も結構あります。
赤石から塩見を歩いたときは10月末で稜線で雨に降られ風に吹かれて、山も見えてないので、ぶちょうほう様の御画像で楽しませていただきました。
1994年当時でもキスリングはもう珍しかったのですね。
私のキスリングも15年ほど前にあまりにも汗と汚れがひどくて捨ててしまいましたが、今思うと記念に撮っておけばよかったと思っています。
1976年ごろの卒業前ごろは先輩方の間でアタックザックと言って細長い今のザックの前身みたいなのを持っている人がすでにいました。
テントも三角テントからエスパーステントに変わろうかという時代だったようです。
明日は高知ですでに咲いているというバイカオウレンを見に行く予定ですが、もしかしたら雪の中で咲いているフクジュソウも見られるかもと期待しています。
「回想」シリーズはネタ不足でブログが止まってしまっていますので、ボケ防止のために苦肉の策でやっています。
幸いなことにこのブログを始める2003年以前のもので、アナログのビデオ映像が残っていますので、それをデジタルに変換し、キャプチャーしながら画像を拾っています。
流石に画質は粗くてお恥ずかしい限りですが、ソニーは意外に良い色を出しています。
白根三山を完全にこなしてから塩見に入るには、農鳥岳はどうしてもピストンになってしまいますね。
この区間で快晴に出逢えればもう何も言うことはないのではないでしょうか。
小生の赤石から塩見間もなかなかのものではありました。
こういうキスリングはもう時代遅れになりましたね。
歳を食べて、残念ながらこんな重量は背負えませんので、7-8年ほど前にゴミとして出してしまいましたが、この登山の時でもすでに古臭いという感じがありました。
このひとつ前には蟹型の横に長いキスリングでしたね。
アタックザックは名前がそれらしくて、恰好良かった所為か、一世を風靡したような感じがありましたね。
テントも随分軽量化して、進化しましたね。
小生もダンロップの3-4人用を持っていましたが、もっぱら山入りの前夜泊専用に使っていました。
これもキスリングを処分した時に同時に捨てました。
バイカオウレンがもう咲きだしましたか。この花を初めて見たのはGWに恵那山で、残雪の周りで咲いていましたが、この花の可憐さにはぞっこんでしたね。
お天気に恵まれると良いですね。