ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

12/25日 村積山を下りて奥殿陣屋に(下=最終):奥殿陣屋を見て帰宅の途につく

2014-12-29 09:43:18 | 草花
階段の山道を自転車と一緒に下りるのに、相当エネルギーを使いました。
普段はこういう山道は必ず歩いて下りるものですが、今回は自転車を押して山頂まで上がってきたという成り行きがありましたので、下りは違う道を採りましたが、勢いで自転車ごと山道を下りるということを選択しました。
しかしこれは村積山がいかに低山といえども、ずいぶん乱暴なことでした。
汗を掻いて、相当草臥れて山を下りてきました。
下り立ったそこは、岡崎市の奥殿町地内であり、立派な車道が通っていて、すぐ近くに奥殿陣屋址があります。
奥殿陣屋については、小生の下手な説明よりも、wikiの記述を以下にそっくり引用しておきます。

(引用部分) ↓
>徳川秀忠に仕え、大坂の陣の戦功により3千石を与えられた松平真次が、大給(豊田市)に陣屋を構えたことから奥殿松平家は始まる。
第2代乗次のとき1万6千石の大名となり、宝永4年(1707年)に奥殿に陣屋が完成したため第4代乗真が移った。
以後、文久3年(1863年)に田野口に移転するまで奥殿藩の中心となった。
最後の藩主乗謨(後に大給恒 1839年~1910年)は博愛社(日本赤十字社の前身)の設立に尽力した人物として知られる。

当時は御殿・役所・書院・学問所・厩・馬場などがあったが、廃藩置県後にそれらは移築や取り壊しが行われ、陣屋の跡地はほぼ田畑となってしまった。
しかし昭和59年(1984年)に、近辺(岡崎市桑原町)にある曹洞宗の寺院・龍渓院の庫裏になっていた書院が移築復元された。
現在は「村積山自然公園」の一部として整備され、書院や日本庭園、食事施設、観光農園などを持つ観光施設となっている。
そのほか裏に歴代藩主の墓所や土塁も残されている。
(引用終了)

今回はこの辺りの風景などをレポートしていきます。
奥殿陣屋址入り口 ↓

入り口には門松が飾られていました。

書院入り口 ↓

これが廃藩置県の荒療治の時にはお寺の庫裏になっていたものを、近年移築して復元したもののようですね。

日本庭園 ↓

いろんな要素の混じった趣きある庭園がありました。

土塁 ↓

ここの土塁は①境界線 ②敵からの防御 などの役割よりもむしろ、③降雨時の雨水逃がし  くらいの意味合いのほうが強かったのではなかったでしょうか。

歴代藩主の廟所 ↓

山の斜面を利用して、このほかにも何段かに分けて墳墓が並んでいました。

矢作川に架かる天神橋 ↓

奥殿陣屋を後にして、自転車を漕いでいきます。この矢作川に架かる橋は岡崎市と豊田市の境目になります。

矢作川 ↓

下を矢作川が流れています。上流方面を見ていますが、遠くに小さく見えるのは猿投山ですね。

ヒメオドリコソウ ↓

日当たりで咲いている花を見つけました。

国道1号を渡る ↓

岡崎・豊田・安城市の境界あたりを走りますので、どこでどの市になっているのか分かりづらくなっていますが、国道を越えると安城市を走っていることになります。
夕方近くになり、お腹も空き、疲れも相当感じるようになってきました。

田圃に立派な一本 ↓

夕景の田圃の中に立派な木がそびえていて、根元には地蔵尊が祀られているのでしょうね、祠があり、その横に少年が座っていました。
なにか懐かしくなるような景色でしたので、これを頂きました。

新幹線の保守管理車両 ↓

夕日に照らされて高架上に浮かび上がっているのは、高所作業用の新幹線軌道の車両ですね。
「幹鉄電気部」とありましたが、これは所有部署の名前のようです。

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