ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

深まってきた秋 田園散策を楽しむ(下):明治用水やそれを推進した人、活用した先賢たち

2015-10-24 11:50:27 | 草花
明治用水は、西三河南西部に農業用、工業用の水を供給する用水です。
幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠する栄誉ある命名がされました。

これを立案したのは都築弥厚(つづきやこう 1765年-1833年)で、それは江戸時代のことでした。
1822年に石川喜平(1788-1862:数学者)の協力を得て用水路の測量に着手し、1826年に測量が完了しました。
翌1827年には開墾計画を『三河国碧海郡新開一件願書』にまとめ、幕府勘定奉行に提出しました。
願書によると、碧海台地が原野のままである理由は用水がないためであるとし、越戸村(現豊田市平戸橋町)で矢作川の水を分水し、台地上に水路を建設するといった計画でありました。
1833年に、幕府は都築の計画を許可したが、残念なことにその年に都築は68歳で病没してしまいます。

これによって計画は頓挫してしまいますが、40年の時を経て伊豫田与八郎1822年-1895年)と岡本兵松(1821年-1903年)によって計画が提出され、その6年後の1879年に工事が始まり、1891年に明治用水は完成しました。

明治用水の通水によって、原野であった碧海台地は一躍沃野に変身することになり、開通後30年ほど経った1924(大正13)年頃には碧海一帯が「日本デンマーク」と呼ばれるようになるわけですが、明治用水をハード面のインフラとすれば、ソフト面のインフラは何だったのでしょうか。

ソフト面のインフラ整備は山崎 延吉(やまざき のぶよし、1873年6月26日 - 1954年7月19日):石川県出身の日本の農政家・教育者、衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。1901年愛知県立農林学校初代校長、帝国農会幹事・・・・の旗振りによるところが絶大だったようです。
彼は愛知県の農業教育活動と農業改善に力を尽くしたそうですが、もちろんそれを実践した農民の力も大したものだったと思います。

今回は散策の途中で、明治用水とゆかりのある場所にも立ち寄ってきました。
アメリカ鈴懸の木 ↓

小学校の校庭で、いつも見るプラタナスとは違う種類を見ました。葉の形が違っていて、そのほかには実が小さく感じました。



ハナミズキ ↓

公園に一本だけ植えられていたハナミズキですが、きれいな実がなっていて、その葉も色づいて来ました。



遊歩道 ↓

遊歩道添いの桜並木が紅葉を始めました。



マートル ↓

ハーブとしても使われるそうですが、小生的にはパス。実も食べられるようですが、これもスルーですね。



大池公園 ↓

街の真ん中に大きな池があり、その周囲を比較的広い歩道が巡っています。これによって市民の早起きウォーキングは盛んだそうでした。



水の環境学習館 ↓

いかめしい名前のミュージアムに立ち寄ります。入口に都築弥厚翁のブロンズが出迎えてくれます。
翁の業績については記事の始めを参照ください。



大きなカボチャ ↓

こんなものもありました。10kgほどですが、存在感はありますね。



宮様 ↓

昨年の11月に皇太子殿下ご夫妻がこちらに来られ、小生たちも野次馬的にお迎えしたのでした。



明治用水会館 ↓

こんな立派な建物が広い敷地を持って建っています。水の環境学習館はこの敷地の一角にあります。



山崎延吉翁 ↓

愛知県立安城農林高等学校の正面にこのブロンズがあります。(翁の業績は記事の始め参照)
1901年に彼がここの初代校長になってやってきたのは、彼が28歳の時でした。若いうちから実力があったようですね。



JRの電車 ↓

帰りは線路沿いに歩きます。暑い一日でしたので、かなり疲れました。夕日を浴びて東海道本線の電車はノスタルジックに見えます。
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