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アンティキティラ島の機械
「アンティキティラ島の機械」、実物は初めて見ました!
@アテネ考古学博物館。
1901年にギリシャのアンティキティラ島付近の海底で発見された、高度な技術を示す「機械」は、「古代のコンピュータ」と呼ばれた。
これぞオーパーツ...ワクワクします。
オーパーツ(OOPARTS: Out Of Place ARTiifactS)は、そのモノの存在が、歴史上の技術の進化にそぐわない、あるいは矛盾すると思われる物品を指す。
他に有名なのは例えば、聖徳太子の地球儀、水晶ドクロ、バグダット電池、ヴォイニッチ手稿...
英国のストーンヘンジ、ペルーのナスカの地上絵も。
これらのオーパーツものは、その時代、地域では、ありえない技術や知識を示していると主張される。
だから、「古代文明は宇宙人によってもたらされた!」というトンデモも出てくる。
が、ほとんどは誤解やファンタジーに基づいての主張であり、科学的な検証・研究によって説明可能であると判明することが多い。
「アンティキティラ島の機械」。
ムー界隈では、古代のコンピューターではないかとウワサされてきたものの、紀元前2世紀ごろの高度な天文学装置であることが判明している。
21世紀に入ってからは、CTスキャンや3D画像解析によって、機械の内部構造が詳細に可視化され、動作原理が明確になった。
その結果、太陽、月、惑星の位置を計算するための歯車を持ち、日食や月食、4年ごとに開催されるオリンピックの時期を計算する機能ほか、天文学的な周期を正確に算出できる装置であるとの結論が出た。
コンピューターという可能性は消えても、やはり、古代ギリシャの高度な天文学知識と工学技術が否定されるものではない。
すごい...
こういったものを発明する人、ほんとうにすごいなあ!
古代ギリシャ人は、哲学にしても、(前回の記事で述べた名将の)戦術にしても、既存の価値観や臆断の檻から出ていく、というのが得意だったんだなあ...
@アテネ考古学博物館
西洋人である夫は時々「古代にこんなものが可能だったなんて」と心から感嘆しつつ、無邪気な発言をするが、非常に西洋的な発想であると思う。
それは、「アジアでこんなものが可能だなんて」という彼らの独特の上から目線と同根である。
わたしはそれを許さないよ(笑)。
彼らの歴史観というのは、ヘーゲル的な弁証法的歴史観である。
進歩主義的なといいますか。
西洋の考え方の枠組みとしてすでにセットされている感じだ。OS のようなものですな。
ちなみにこのOSが、先ほど書いた「既存の価値観や臆断の檻から出ていく」の、「檻」のことである。
ガリアの瀕死の戦士。紀元前2世紀ごろ。
アンティキティラ島の機械とほぼ同年代の作品。この表現力...
@アテネ考古学博物館
弁証法とは、矛盾を解消しながら、より高い次元へと発展する動きのことである。
ヘーゲル的な弁証法的歴史観は、歴史を一連の進歩と発展の過程として理解し、例えば、産業革命、民主主義、平等、人権、グリーンな成長、SDGs 、核抑止、クジラを食べるなとか、イスラエルは自衛権を行使しているのであるとか...などを含め、歴史がより「良い」方向に直線的に進化しているという見方である。
一部はそうであろうと確かに思う。
しかし問題は、自分たちの「真理」がただひとつの真理であり、自分たちだけが曇りない目でものごとを見きわめていて、「いずれは」西洋以外でもそのように考えるべきであるなど...他の価値観にはまるで想像も及ばなかったりすることだ。
まあ、真理はひとつだと思っているのだから、そもそも他にも真理や価値があるとは思いもしないか...
それが先ほどから繰り返している「檻」。
こちらもアンティキティラ島の機械とほぼ同年代の作品。
この躍動のとらえ方! 目の前で見ると本当に動いているよう。
@アテネ考古学博物館
彼らの名誉のために書き添えるが、それが西洋で修正されてきたかというと、レヴィ=ストロースのような優れた学者も登場した。
彼の構造主義は、歴史を必然的な進歩や発展のプロセスとして見るのではなく、歴史や文化を普遍的なパターンや構造を通じて理解するという視点を提示し、「一直線の歴史」を乗り越えた。
つまり、どの文化もそれぞれの文脈の中で意味があり、「別々の思考」であり、他の文化と比較するのはナンセンス、優劣を論じること自体が無意味である、と。
まあ、こう書いているわたしも「檻」から出られない臆断の奴隷なのだ...
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スパルタでスパルタ教育
第一次ペルシャ戦役時のテルモピュレーの戦い(紀元前480年)は、ギリシャ連合軍とペルシャ帝国軍との戦闘。
スパルタ王レオニダス率いる300人のスパルタ重装歩兵は、20万のペルシャ軍に敗れ全滅。
スパルタの考古学博物館にて撮影。
今年の夏休み第一弾で訪れたギリシャでは、とにかく観光に励んだ。
どちらかというと、好みのホテルに宿泊して何もせずに何週間も過ごすのが好きなものの、久しぶりにギリシャ本土へ来たので...
古代ギリシャの遺跡、戦跡は全部見たい! となる。
昼間は暑すぎて活動ができないため(実際今年は夏も早くから観光客の行方不明者が多数出た)、屋外での活動は午前6時から正午まで、昼食後17時ごろまでは屋内の美術館で過ごし、17時以降再び屋外へ観光に...
夜間は調べ物や読書でキャッチアップ。
毎日、早起きし、夜ヘトヘトになるまで歩きまわる、遺跡観光ブートキャンプのような状態、まるでスパルタ教育! と笑ったのであった。
レオニダスと300の兵士は、当時から現代までその勇気と強さ、祖国愛で語り継がれ、血を沸かせ肉を踊らせる。
そしてついにスパルタへ来た。
古代ギリシャ、ペロポネソス半島の雄、スパルタ。
アテネとツートップのスパルタ。
優れた戦士を安定して供給するためだけに全振りした国、スパルタ教育のスパルタ。
スパルタ市民として誕生した男子は、7歳で母親を離れ、戦闘の訓練を受け始める。
20歳に達すると、非常に過酷な通過儀礼を受け、一人前の兵士に。
その後、家族を持っても一緒に住めるわけでもない。
質実剛健の彼らに唯一許されていた贅沢は、戦闘前夜の長髪の手入れだったという。
「敵には絶対に背を見せてはならない
戦場では勝つか、死ぬか、しかない」
スパルタ考古学博物館で
社会内に格差やカリスマを生まないよう、貨幣は鉄製(誰も欲しがらないから輸入品が入ってこない、例えばアテネは金貨)、家屋は木製、食事は粗末、ヒーローなど出る杭は打つ...
その精神の犠牲になったヒーローとして、悲しみなくしては回想できないのが、第二次ペルシャ戦役時、プラタイアの戦いでギリシャ連合軍に圧勝をもたらしたスパルタ将軍パウサニアスである。
ペルシャ帝国軍の4割の兵力で圧勝したパウサニアスは、その後テルモピュレーで玉砕したレオニダスと300の仇を討つためテーバイを攻略。
次にテルモピュレー向かい「300」の遺骨を拾う。
スパルタへの帰路でアポローン神殿のあるデルフォイに立ち寄り、銅板を奉納した。
「パウサニアス、ギリシャ全軍の総司令官。敵ペルシャ軍を壊滅したことを記念して、感謝の心とともにこれを奉納する」
これが出る杭を打つことにかけては熱心な「五人のエフォロス」(監督官)が咎めた。
そしてパウサニアスに謹慎を強い、別の職務を与えた。
が、しかし名将はここでも大活躍してしまう(戦略の重要地点ビザンチン攻略など)。
カリスマを出さないことに命を賭ける監督官をさらに刺激してしまい...
最終的にはやれペルシャと共謀しただの、全ギリシャの王になろうとしただの、奴隷の反乱を扇動しただの、さまざまな濡れ衣を着せられて本国へ召喚される。
そしてついに逮捕状が出された。
パウサニウスはとっさに神殿内に逃げ込み、立てこもる。神殿の扉は塗り込められ、瓦は外され、結果、彼は飢えと渇きによる死を迎える...
それがこちら(すぐ上の写真)であったというのだ。
パウサニウスが死を迎えた神殿跡...
スパルタでは多くの建物が質素堅実であったこと、その後ペロポネソス戦争(紀元前431-404年)で国力を失い、やがて衰退した。ローマ時代やビザンティン時代には、スパルタの重要性は完全に低下、建築物の維持や再建が行われなくなる。
また、古い石材などは別の建築現場で使いまわされたりもした。
そんな中で残る神殿跡から、なかなか離れられなかった。
主にアジアで生産されたものだという。
アテネ考古学博物館にて撮影。
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英国、昨日今日そして明日
英国の各地で先週から連続して起きている暴動に関連して、イングランドと北アイルランドでは昨日5日までに400人近くが逮捕された。
警官や移民や外国人への威嚇や暴力、宿泊施設、商店、車両の破壊、放火など、日本では考えられないような凄まじい暴動で、スターマー首相の発言のとおり「暴力であり犯罪であって抗議行動ではな」かった。
わたしが最も驚いたのは、赤ちゃんや幼い子供連れが、野次馬や扇動的な集団に混ざり、草野球でも観戦するような様子だったことだ。
この暴動は、イングランド北西部サウスポートで先月末起こった事件が引き金になっている。
子供のダンス教室が刃物を持ったアフリカにルーツを持つ少年によって襲撃され、少女3人が死亡し、多数が負傷した痛ましい事件だ。
犯人に関する誤った情報は瞬く間に拡散され、全く関係のない集団に属する人たちが攻撃され、情報が修正された後も続いている。
スターマー首相は4日にTVで演説を行い、「極右の暴徒」には「法律の全威力」をもって厳正に対応すると約束した。
彼は「肌の色で差別をするのは極右だ」と言ったが、わたしは彼の踏み込み方は、現段階では一面的だと感じている。
英国はもともと階級差が激しい(世界で最も?)社会である。
大英帝国として、植民地と奴隷の搾取によって栄華を極めたものの、次第に経済的な低迷と社会の分断が明らかになり、その傷はいまだに癒やされていない。
産業革命以降、特に20世紀から21世紀にかけての新自由主義的やグローバリゼーション、産業構造の変化、金融危機、政治の迷走などが組み合わさることで、問題はより深刻化し、その皺寄せは社会の最も弱い人々を直撃している。
特に英国北部では、産業の衰退、失業率の上昇、教育の不備などから生じる経済的困窮が、飲酒やドラッグの乱用、家庭内暴力、差別、コミュニティの荒廃、社会的サービスの劣化などの社会問題を引き起こしている。
その現実には、ほんとうに同情する。しかし当然、より弱い人々や特定のグループを攻撃する言い訳にはならない。
BBCを見ていると、極右の暴徒は、アメリカでトランプ元大統領を熱烈に支持している、例えばProud Boysに似ている。
ホワイトハウス襲撃事件で有名になったProud Boysには、アメリカの中部で経済的に取り残され、社会的な変化に対応できず、不満を抱く層が多いとされている。
これは単なる人種差別や移民受け入れの問題ではなく、社会に深く根を張った格差と困窮の問題であり、彼らは自分たちが社会の成長から忘れ去られ、不当に見捨てられた存在だと声をあげているのだ。
しかし、その怒りや批判や絶望は、感情ベースで集団を形成し、なぜか政治や経済のリーダー、グローバリストの資本家に向かわず、命からがら逃げてきた亡命者や移民に向けられる。
なぜなのか。
スケープゴートを仕立ててガス抜きをさせるのは支配層の常套手段だとしても。
帰属感や、自他、他者の認識というのはこのようなものにすぎないのである...
上:アメリカ人がイメージする英国人
下:ヨーロッパ人がイメージする英国人
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エピダウロスで医術の神に参る
ペロポネソス半島東側、エピダウロスは、現代では最も保存状態の良い円形劇場で知られている。
世界遺産には1988年に登録されたとか。
円形劇場のサイズは、そのまま都市の規模を反映しており、一万5千人を収容できる巨大さと美しさ、計算された音響の良さは、かつてのエピダウロスの繁栄を今に伝える。
はて、何が繁栄をもたらしたのか...
エピダウロスは、アスクレーピオスが生まれた場所である。
彼は、医術の祖にして神、またアポローンの息子(アポローンは医学の神としての一面も持つ)である。
現代でも通用する医師の職業倫理として「ヒポクラテスの誓い」はよく知られている。
それは「医の神アポローン、アスクレーピオス、ヒュギエイア、パナケイア、および全ての神々よ。私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを誓う。」という出だしで始まる。
医療のシンボルとしてしばしば見られる「杖に巻き付いた蛇」の意匠も、これまた「アスクレピオースの杖」と呼ばれる。
蛇の描く螺旋(らせん)は、生命力や再生、権威、超自然などを表すという。
この地では主にアポローン・マレアタス (アポローンと英雄マレアタスが習合された神格)が崇拝されており、聖域の神殿もアポローン・マレアタスに捧げられたものである(2枚目3枚目の写真)。
その他にも複数の神が崇拝され、アスクレピオースはもちろん、アスクレーピオスの妻へピオーネー(鎮痛の女神)娘ヒュギエイア(衛生の女神)、あるいは「男を征服し眠らせ再生させる」、武装した美の女神アフロディテーなども...
アクロポリス博物館にて撮影
エピダウロスはそういうわけで古典期のギリシャ世界では医療の中心地であり、治癒を願う巡礼が集まったという。
患者がエンコイメテリアいう部屋で一夜を過ごすと、夢の中で神が正しい治療法を告げてくれるのである。
アテネ考古学博物館にて撮影
遺跡内では、160部屋あるエンコイメテリア(患者が宿泊する施設)が発掘されており、周辺には鉱泉もある。
医療はエピダウロスに繁栄をもたらし、紀元前4世紀~紀元前3世紀には、記念碑的建築物の建設や拡張などが行われ、円形劇場の建設もこのころ建設された。
紀元前87年、ローマの将軍、(悪)名高きあのスッラに略奪されるまで...
娘がこの夏ジュニア・ドクターとしてロンドンで働き始める。
英国では研修医という身分はなく(これ、英国内でもしばしば認識に誤りがあり、数ヶ月前には英国保守党の議員が「ジュニア・ドクターは研修中の医師にすぎない」という発言をして大大バッシングを受けた)、「ジュニア」でも、フルカウントの「医師」である。
人生の意味とは、他人の人生に意味を与えることだ。
「ヒポクラテスの誓い」を胸に、そう尽くしてほしい。
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14世紀の納屋で見る、昼間の星空
ブルージュの旧市街から約10キロほど北海の方向にある Lissewegeという村には、14世紀ごろに建てられた巨大な納屋がある。
ブルージュの人は誰でも知っていて、サイクリングの途中に飲み食いに立ち寄ったりするところだ。
今回、久しぶりに英国へ帰宅途中に寄ってみた。
軽く食べてから、ユーロトンネルへ向かうつもりが、そうだ、ベルギーのバアには軽食というものがないのだった...バアは飲むだけの場所である。
こちら、Abdijschuur Ter Doest (テル・ドーストの修道院の納屋)という。
納屋といっても、かなり大きな建物で、学校の講堂くらいのサイズ感。
12世紀に、ベネディクト会がここに領地を与えられて修道院を建て、のちにシトー会に引き継がれた。
納屋が建てられたのは14世紀末、今では唯一の修道院の名残である。
この納屋は外側こそ煉瓦づくりだが、内部の梁は木造...美しい。
屋根の穴から光が漏れて、星のよう、パドヴァのジョットのスクロヴェーニ礼拝堂の天井のようではないか(褒めずぎ)。
ベルギーはオランダとお隣の低地で、特にフランダースはこのようにどこまで行ってもはるかに真っ平である。悲しくなるくらい真っ平。
だから、ブルージュにお越しになった際は、お天気が良ければ自転車をレンタルして、近隣の村を走り回るのがおすすめ。
自転車でオランダ国境越えだってできちゃうよ!!
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