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スパルタでスパルタ教育



あまりにも有名なスパルタ王レオニダス(ということになっている像)。
第一次ペルシャ戦役時のテルモピュレーの戦い(紀元前480年)は、ギリシャ連合軍とペルシャ帝国軍との戦闘。
スパルタ王レオニダス率いる300人のスパルタ重装歩兵は、20万のペルシャ軍に敗れ全滅。
スパルタの考古学博物館にて撮影。


今年の夏休み第一弾で訪れたギリシャでは、とにかく観光に励んだ。

どちらかというと、好みのホテルに宿泊して何もせずに何週間も過ごすのが好きなものの、久しぶりにギリシャ本土へ来たので...
古代ギリシャの遺跡、戦跡は全部見たい! となる。

昼間は暑すぎて活動ができないため(実際今年は夏も早くから観光客の行方不明者が多数出た)、屋外での活動は午前6時から正午まで、昼食後17時ごろまでは屋内の美術館で過ごし、17時以降再び屋外へ観光に...

夜間は調べ物や読書でキャッチアップ。

毎日、早起きし、夜ヘトヘトになるまで歩きまわる、遺跡観光ブートキャンプのような状態、まるでスパルタ教育! と笑ったのであった。



現代の競技場の前に立つレオニダス。
レオニダスと300の兵士は、当時から現代までその勇気と強さ、祖国愛で語り継がれ、血を沸かせ肉を踊らせる。


そしてついにスパルタへ来た。

古代ギリシャ、ペロポネソス半島の雄、スパルタ。
アテネとツートップのスパルタ。

優れた戦士を安定して供給するためだけに全振りした国、スパルタ教育のスパルタ。

スパルタ市民として誕生した男子は、7歳で母親を離れ、戦闘の訓練を受け始める。
20歳に達すると、非常に過酷な通過儀礼を受け、一人前の兵士に。
その後、家族を持っても一緒に住めるわけでもない。


スパルタの誇る重装歩兵。
質実剛健の彼らに唯一許されていた贅沢は、戦闘前夜の長髪の手入れだったという。
「敵には絶対に背を見せてはならない
戦場では勝つか、死ぬか、しかない」
スパルタ考古学博物館で


社会内に格差やカリスマを生まないよう、貨幣は鉄製(誰も欲しがらないから輸入品が入ってこない、例えばアテネは金貨)、家屋は木製、食事は粗末、ヒーローなど出る杭は打つ...

その精神の犠牲になったヒーローとして、悲しみなくしては回想できないのが、第二次ペルシャ戦役時、プラタイアの戦いでギリシャ連合軍に圧勝をもたらしたスパルタ将軍パウサニアスである。


ペルシャ帝国軍の4割の兵力で圧勝したパウサニアスは、その後テルモピュレーで玉砕したレオニダスと300の仇を討つためテーバイを攻略。
次にテルモピュレー向かい「300」の遺骨を拾う。
スパルタへの帰路でアポローン神殿のあるデルフォイに立ち寄り、銅板を奉納した。

「パウサニアス、ギリシャ全軍の総司令官。敵ペルシャ軍を壊滅したことを記念して、感謝の心とともにこれを奉納する」


これが出る杭を打つことにかけては熱心な「五人のエフォロス」(監督官)が咎めた。
そしてパウサニアスに謹慎を強い、別の職務を与えた。
が、しかし名将はここでも大活躍してしまう(戦略の重要地点ビザンチン攻略など)。

カリスマを出さないことに命を賭ける監督官をさらに刺激してしまい...

最終的にはやれペルシャと共謀しただの、全ギリシャの王になろうとしただの、奴隷の反乱を扇動しただの、さまざまな濡れ衣を着せられて本国へ召喚される。

そしてついに逮捕状が出された。




パウサニウスはとっさに神殿内に逃げ込み、立てこもる。神殿の扉は塗り込められ、瓦は外され、結果、彼は飢えと渇きによる死を迎える...

それがこちら(すぐ上の写真)であったというのだ。

パウサニウスが死を迎えた神殿跡...



野外劇場跡


スパルタでは多くの建物が質素堅実であったこと、その後ペロポネソス戦争(紀元前431-404年)で国力を失い、やがて衰退した。ローマ時代やビザンティン時代には、スパルタの重要性は完全に低下、建築物の維持や再建が行われなくなる。

また、古い石材などは別の建築現場で使いまわされたりもした。


そんな中で残る神殿跡から、なかなか離れられなかった。



テルモピュレーで発掘された、ペルシャ戦役期のブロンズと鉄の矢尻。
主にアジアで生産されたものだという。
アテネ考古学博物館にて撮影。
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