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するかしないか
日本の少年犯罪と少年法の話をしていた結論として、わたしが大変尊敬する方はこうおっしゃった。
「とにかく世間さまに迷惑をかけない人になってくれたらそれでいいのよ」
ほんと、その通りだと思う。
その会話の内容を夫と娘に聞かせようとして困った。
「世間さまに迷惑」
うむ、これは英語で何と言おう。
まず「世間さま」(<常に最適訳を迷う単語のひとつ)。
日本人が言う意味での「迷惑をかける」。邪魔をするとか、問題を起こすとかとはニュアンスが全然違う。
ああ、また日本人の社会や考え方から話さなければならないのか...
単語がなければそれに該当するモノ・コトも存在しないように、欧米では自分の子供に「世間さまに迷惑をかけない人になってほしい」などという消極的期待をかけるケースはほとんどないように思う。
他にも、日本人はよく「健康でさえあれば」「平凡でいいから」と控えめな言挙げをするが、少なくともわたしの欧米日常生活範囲内では、子供にこの類の期待をかける人を知らない。もちろん欧米人の多くは積極的に「やりたいことをどんどん」「世の中の役に立ってほしい」と願うのだ。
儒教的な教えになじんだ日本型の社会では、公の場所では、ひとりひとりが少しずつ我慢し、少しずつ譲り合い、「和」を保つ方が、社会が安定し共同体が存続するという知恵が共有されてきた。
少しずつ違った価値観を持ついろいろなタイプの人間同士が摩擦を起こして集団がぎくしゃくするよりも、お互いが気を使いつつ、お互いの迷惑を最小限にとどめつつ、空気を読み、口の端に笑みをたたえ「不快ではありません」(<これが日本人のニヤニヤ笑いと時に揶揄される笑みである。どこがいけないのかっ!・笑)と周囲に伝達する努力がされてきた。
実際われわれはそうやって困難を乗り越え、栄えてきたのだ。
社会は常に変化するものだが、今後もしばらくの間はわれわれがこのやり方を手放すことはないだろうと思う。
そういえば去年エボラ出血熱が流行したとき、某国でエボラに感染した(疑いのある)人が行方不明になったり、勝手に外出したりしたという話を聞いた。
たぶん日本人はどんなに正義的な理由があったとしても、こういう自分勝手な行動を一番嫌う。まさに「世間に迷惑をかける・かけない」である。
一方で欧米では(欧米にもいろいろあるがここでは話をシンプルにしてしまう)、公の場でひとりひとりが個性を強く主張し合うことがデフォ。どうせ他人なんぞお互い迷惑な存在なのだから、多少声の大きい人がいても、わがままな人がいても、変わった人がいても、それが「人間だもの」。
主張の強い人や無茶をする人は何か大きなことをするかもしれないし、役に立つかもしれないという考えが共有されている。
もちろん彼らはこのやり方で繁栄してきたと学習しているから、彼らにとってはこのやり方が「普遍的」なのだ。
東アジア儒教圏に対して、こちらは西ヨーロッパキリスト教圏だ。
話が脱線するが、キリスト教的な考えとは、肯定の命令形が好まれる考えであるそうだ。
モーセの十戒が「何々するな」という禁止の命令形なのに対し、キリストはほとんど常に「何々せよ」と肯定の命令形で説教をしたから。ちなみにユダヤ教は「何々するな」形で示された10の戒めをさえ守れば他は何をしてもよいという点で、キリスト教よりも自由であるとのユダヤ教アゲの趣旨だったと記憶している。
この伝でいくと、キリスト教世界では「何々せよ」という形の規範があたりまえ...ってこじつけすぎる?
儒教型かキリスト教型かどちらが優れているかの問題ではないと思う。
どの社会のどの考え方に多く染められているかいないか、その社会でどんな規範がより共同体存続のためになってきたかの違いだけだ。
わたしが思うのは、たいていの価値観はどんなに普遍的に見えても、ローカルな価値観にすぎないことが多いから気をつけようということだ。ローカルだからダメなのではなく、ローカルかもと自覚しておこうと。
だから日本人のその控えめな価値観が欧米のデカい声にかき消される必要もないと思うし、欧米人にもっと控えめに、とアドバイスする必要もない。
大切なのはやはり考え方の違いを説明できて、お互いの価値を尊重し合えることか。
つまり、今後の世界では両方併せ持つ人や社会が最強?
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