河童の歌声

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ヨーゼフ・ゲッベルス

2017-02-18 04:18:45 | 軍事


ヨーゼフ・ゲッベルスはナチスの宣伝相でした。

ヒトラーを取り巻く側近は何人か居ました。



副総理・・ルドルフ・ヘス



親衛隊長官・ハインリッヒ・ヒムラー。



空軍相・ヘルマン・ゲーリング



海軍元帥・カール・デーニッツ



こういった側近の中で、最後までヒトラーに忠誠を貫いたのは、
ヨーゼフ・ゲッベルス、ただ一人でした。

1897~1945(47歳)
ヒトラーより8歳年下。
母親はオランダ人でしたが、彼はこれをひた隠しにしていました。
純然たるゲルマン系ナチス・ドイツ人であるべき自分が、
ドイツ人以外の血である事など許されるべきではなかったのでしょう。

ちなみにヒトラー自身も、ユダヤの血が入っていたとの情報もあり、
ヒトラーはそれ故に(何でよりによって俺がユダヤなんだ)という無念さがあり、
徹底的にユダヤ人を憎み、排斥したのかもしれません。

4歳で小児麻痺を患い、手術。
その後、発育が著しく遅れ身体障碍者になります。
いわゆるビッコ(放送禁止用語)
その為に身長が165センチというドイツ人の中では極めて小男でした。
ちなみにヒトラーも身長175センチという、あまり大きくはない男でした。

頭脳は優れていましたが、
ビッコでチビの彼が人より上に行くのは大変で、
自分を大きく見せる為にその頭脳を使いましたが、
それ故に同級生からも教師からも嫌われ者だった様です。

1914年、第一次世界大戦・・
彼は軍隊に志願しますが、勿論、不合格。
そういった事は、男としてのプライドをひどく傷つけます。

1923年(26歳)頃より、貧困に苦しみ、
反ユダヤ主義を芽生えさせます。
(それ以前は、ユダヤ人に同調的だったのですが)

1924年(27歳)頃より政治活動に踏み出します。
翌、1925年にヒトラーと初めての会見をし、
ヒトラーに魅了されます。
この事が彼の運命を決定ずける事になります。

ヒトラーは演説の天才と言われました。
初めは、ヒトラーに反対派の人であっても、
演説の最後になると、ヒトラーに心酔してしまう程、演説の天才でした。
そのヒトラーには及ばないまでも、
ゲッベルスも演説が上手かったのです。
ヒトラーはその才能を買います。
そしてナチス権力者への階段を登っていったのです。

ゲッベルスというビッコの小男は、
ヒトラーという天才の元で、その才能が花開いていったのです。
その事はゲッベルスも充分に承知していました。
自分は、自分だけの力では何も出来ない、
ヒトラーという大輪に寄り添う事で、花開くのだと承知していたのです。



ゲッベルスはマクダという女性と結婚します。
彼女は再婚のバツイチでした。
ゲッベルスは、その権力を下に、恋多き男でもありました。
また、妻のマクダも彼一人だけの女ではなかったみたいです。
しかし、彼等の間には一人の男の子と5人の女の子が生まれます。

生涯独身だった(最後は結婚しましたが)ヒトラーには、
彼等夫婦が、ナチスとしての鏡みたいな夫婦に感じます。
ゲッベルスもそういった事を感じ、
真相は仮面夫婦であっても、ナチスとして理想的な鏡となる夫婦を演じます。
彼等、家族はプロパガンダになり理想像を映画に撮らせるのでした。



しかし、戦争は悲劇的な結末を迎え、
とうとうヒトラーは愛人と共に自ら命を絶ちます。
その翌日、
ゲッベルス夫妻は、6人の子供に毒を飲ませます。
長女は13歳であったので、それを飲むという事がどういう事かを悟り抵抗します。
その為に彼女の顔は殴られて傷を負っていました。

彼等の子供6人は、
自分たちの両親が、どういった地位に在る親かも知らず、
自分たちが映画に撮られ、それが当時のドイツ人達にどういった影響を及ぼすかなんて、
知る筈もなく、すくすくと育っていきました。



子供って、本当に可愛い。
子供には、何の罪もありません。
子供を泣かせる奴って許せませんね。
子供は親を選べない・・そこが可哀想。

あくまでもヒトラーに忠誠を貫いて彼は逝きました。
彼だけが、最後の最後まで忠実だったのです。
しかし、彼の家族にとっては、はた迷惑な父親でした。

権力というのは本当に怖いものですね。
それが故に極楽浄土の夢を見たのでもあるし、
それが故に、地獄も見なければならなかった人生。

戦争というやつは・・人生というやつは・・・


私達、歌声の人生は、それほどの夢ではないかも知れませんが、
そこそこ、いい人生でありたいですよね。


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北朝鮮で何が起こっているの?

2017-02-15 06:33:28 | 日記
北朝鮮の現・最高指導者である、金正恩の異母兄・金正男が、
マレーシアで暗殺されました。
今、北朝鮮で何が起こっているのでしょか?



この金正男という男は、
2001年に日本のディズニーランドに遊びに来た時に、
(大の大人がディズニーランド・・馬鹿かお前は)
日本政府に一時、拘束され、結局国外追放されたというバカタレです。



金正男といい、金正恩といい、
その顔をまずよ~く見て頂きたい。
この二人の顔は、単なるバカの顔です。
こんなバカヅラは仮にも一国を預かる顔などではないのです。
そこらに転がっている、ゴロツキと何の変りもありません。

「顔」という看板は、
一朝一夕に出来上がる事はできない、本心なのです。
嘘偽りが通用する事などできない「看板」なのです。

さて、2001年に金正男が拘束され、
その挙句に国外追放された時、
私は、日本の政治家には「本物」は居ないと感じました。
あのバカタレこそ(飛んで火にいる夏の虫)
彼を拘束して、北朝鮮拉致被害者と人質交換すれば良かったのです。

大体、私が以前言っていたのですが、
拉致被害者など、お金持ちの日本は「金」で解決すればいいんです。
それを大上段に「正義」などと子供じみた理屈を振り回すから、
いつまで経っても彼等は日本に帰れないじゃありませんか。
一人10億円・・?
全部で仮に100人居たら・・1000億円。
日本だったら払えるじゃないですか。
今の北朝鮮には、喉から手が出るほど欲しい(お金)じゃないですか。

とに角、帰ってきさえすれば「正義」なんてどうだっていいのです。
大体、国家間に「正義」なんて理屈が通用した試しがありますか?
そんな子供の理屈が通用するなら戦争なんて起こらないのです。
「力」が全て、北朝鮮みたいな貧困国には「金」しかありません。

日本の政治家なんて、本当に子供みたいでイヤになります。
と言うか、拉致被害者たちが可哀想です。
政治家(政治屋でしょ)は本気になった事などあるんですか?
そんな事ないでしょう。

学校における(いじめ)被害と同じで、
校長先生は、自分が校長である時だけは、
穏やかに穏健に済めばそれでいい、という感覚。
自分さえ波風立たずに引退できればそれでいい感覚。

日本には「政治家」などは居ません。
「政治屋」しか居ません。

つまり「政治に生きるか」「政治で生きるか」

この「に」と「で」の差。
死ぬ気で政治をやってる政治家など、今の日本に居ますか?
誰も居ないじゃないですか!

北朝鮮が、何か波風が立ち始めているのはいいですが、
でも拉致被害者たちの運命や如何に?
本当に彼等の悲しみを私達は、自分の事として捉えなければ。

もう、被害者家族に残された時間は殆どありません。
「日本の政治家」よ、
あんたらは、いったい何をやってるの?
単に税金を無駄に消費してるだけではないですかッ!




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憂鬱な日

2017-02-12 19:39:52 | 日記


また、あの憂鬱な日が来ます。

私は出来る事なら何処かへ雲隠れしたいッ!
そ~思ってるんですね。

だってね、アナタ。
家中の部屋という部屋がチョコレートで埋め尽くされちゃう状況。
そんな光景・・アナタは信じられますか?



私の家は部屋数がたった30しか無い貧しい家だというのに、
その部屋数30の全部がチョコレートで埋め尽くされちゃうなんて・・・
あ、違った、一昨年はそんな状況に耐えきれず、
部屋を5つ増築したんだった。つまり部屋数35。
あ~~~~、もうイヤッ!

(聖バレンタインデー)
いったい、こんな迷惑な日を誰がこしらえたんでしょう。
日本は仏教国でしょう、
それが何でバレンタインなんだッ!
いい加減にしろってんだ、ヤイ。

世の菓子メーカーさんよ、
あなた方は、私の家の床が抜けたなら、
いったいその保証をする算段は出来ているんでしょうか?
私の家がチョコレート倒壊に至った暁には、
その責任をどう取って頂けるんでしょうか?



家中が甘ったるいチョコレートの匂いで充満し、
私がマスクをしようが、何をしようが逃げる事もままならず、
酸素ボンベを背負って生活している状況を何と見ますか?
あなた方は・・・

私の何が悪いんですか?
私はな~んも悪い事などしてないじゃないですか。
単に他の男連中より、チョッとだけ女性にモテるというだけじゃないですか。
アナタね~、それのどこが悪いって言うんですか?
妬いてるんですかアナタは。

妬くんなら庭で焚火でもして焼き芋でも焼いてなさ~いッ。
あ、そ~でしたね、昨今は庭での焚火が確か禁止になっているとか・・・
女性にモテないってのも、考えてみりゃ結構、大変なのかも知れませんね。



私はね、言いたくないんですが、
本気でバレンタインデーってやつを禁止にしてほしいと思うのです。
だってねアナタ。
チョコレートの重みで家が倒壊したり、
はたまた酸素ボンベで家中を歩き回っていたり、
そんなのってイヤでしょ、アナタ。

いっつもこの時期になると、私は気が滅入るは、頭痛はするは・・・
死んでしまいた~いッって思ったりするんです。
あ~、なんてこった。
たかがチョコレートで、この私がこれほど悩む事となるなんて・・・

どうしようかな~?
まさか貴女からのチョコレートは受け取れません、とか、
貴女のその愛が、私を殺す事になるんですよ、とか、
もう貴女とは絶交です、とか、
私達の愛は永遠不滅ですから、ど~ぞご心配なく、とか、
貴女だけが私の心を悩ませているんですよ、とか、

私は「心にも無い」という事が出来ない性質(たち)なもんで、
本当に、ど~すべきか?
心は千々に乱れ、日々の生活にも支障をきたしているんです。

これだけは言いたくなかったんですが・・・

モテるって本当に罪だな~、も~イヤッ!


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似てる

2017-02-12 07:57:57 | 日記






この人、俺に似てる・・・


子供の頃、近所の大人から、似てる子が居ると聞いていた。
ある日、親戚のその子がやって来たというので、
イヤイヤながら、その家に連れていかれた。
で、俺に似てるという、そいつを見たら、
な~んだ、全然似てないじゃんかッ!だった。


30代半ば、丹沢の山小屋の常連客をやってる頃、
小屋の仲間達から、俺に似てる奴がいると聞いていた。
ある日、いつも通りに山小屋に行くと、(まるで通勤みたい)
「あら~、貴方に似ている人が来てるわよ」と言われ、
前から少しは気にしていたので、
どんな奴かと初めての(ごたいめ~ん。)

アレッ・・ホントに似てた。
「お~、こいつ生意気に俺にホントに似てるじゃんか」
彼の方でも、やはり自分に似ている男が居ると聞かされていたみたいでした。
それで彼も、俺を眺めて・・
「俺達って似てる」と思ったのでした。
その彼は私より少し年下でしたが、
いつも会社の同僚たちと3人くらいで登ってきていました。
その彼とはその後数回会いましたが、今はどうしているのかな~?


最近、俺に似ている男を発見しました。

その男は(島尾伸三)という写真家です。
彼は作家の島尾敏雄(代表作に「死の棘」があります)の長男です。
歳は私より少し若いのですが。

実は私はこの彼に若い時に一度会っているのです。
それは写真学校のロビーでした。
彼はその学校の生徒ではありませんから、
いったい何で学校に来たのかは分かりません。
私は他の誰かと3人か4人で車座になって話していました。

高校生くらいの時だったか、
彼は友達と一緒にバイクで並んで走りながら話していたら、
突然、フッと友達が居なくなってしまった。
エッと思ったら、友達は停まっていたトラックの荷台に激突し、
死んでしまったという話をしていました。
その事をよく覚えているのです。

「神戸学校・島尾伸三」で検索すると、
彼が話しているところが動画で観られるのですが、
その動画を観ると、やっぱり俺に似ていると思うのです。

でも、妻は「全然似てない」と言ってますが。

違うよ、似てるよ、って俺は思っています。
人間は似てる奴が3人は居るって言いますから、
まだ、あと一人は似てる奴が居るんだよね。


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残念、39度8分だった

2017-02-11 05:36:35 | 日記
飛騨高山の雪景色を撮りたいと出かけていったのは、20代半ばでした。

新横浜から新幹線で名古屋経由で行きました。
高山本線は岐阜から富山までですが、
私は岐阜で電車を乗り換えた記憶がありません。
調べたら、名古屋で一回乗り換えるとそのまま高山本線に乗り入れるのですね。
岐阜駅で進行方向が前後逆になって進行するのです。

初めて行く場所というのは、実に興奮するものです。
高山市内の観光ルートにある古い民宿に宿を取りました。
その頃はまだ観光客も立て込んでいなく、
私は全くの出たとこ勝負での宿泊でした。
飛騨地方の名物に朴葉(ほうば)味噌という郷土料理があり、
何となく押しつけがましく食べさせられましたが、
あまり美味しいとは言えず、はっきり言って辟易しました。



翌日も近くの民宿に泊まったのですが、
そこでも恩着せがましく朴葉味噌が出てきて、食傷気味。

さて、高山の雪景色ですが・・・





私は大体こんな写真をイメージして行ったのです。
2泊目に待望の雪が降り始めました。
民宿に泊まる私の心はもう、はやりにはやって夜明けが待ちきれません。
時々灯りを点けては腕時計で時間ばかりを見ていました。
もう我慢が出来ず、
布団を抜け出して行動を起こしたのは、まだ午前4時くらいだったか・・・

表に出ると、予想通りに雪がありました。
私は嬉しくなってシャッターを切りまくり・・たかったのですが、
ダメ・・だってまだ表は真っ暗な真夜中なのでした。
それでも諦められずに真っ暗な雪景色の中をしばし歩き回りました。

しかし、その内に身体が冷え切ってしまい、ガタガタと胴震いがします。
仕方なく、一旦宿に戻り、すぐに風呂で冷え切った身体を温めました。
やっと身体が温まり胴震いも収まりました。

しばらくは観たくもないテレビなどで時間を潰し、
再び出陣と相成りました。
まだ薄暗いとはいえ、写真を撮れなくはない明るさ。
しかし、イメージした状態にはまだなっていません。



こんなのが撮れるかと期待感は強烈にあったんですが・・・
でも、身体はやっぱり寒くて寒くてガタガタと震えながら写真を撮っていました。
私のイメージは「人の居ない高山冬景色」だったので、
朝早くには撮影をやめて宿に戻りました。
そこでも、まずは風呂。
そして朝食を摂り、その後もしばらくは写真を撮ったのです。

でも「寒い」という感覚はいつまで経っても残っていました。
名古屋に着いたのは昼頃だったので、
9時頃には宿を引き払ったのだと思います。

新幹線に乗り換える為に名古屋駅構内を歩いていると、
な~んか身体が変。
それでも横浜の家に着いたのですが、
その頃になると、も~身体が(変)だらけ。
アレッって思いベッドに横になり熱を測ったら・・・



39,8度!(チョッと写真とは違うけど)

アッレ~ッ!・・・
俺、完全に風邪ひいてるじゃんか。
で、それから2日間は完全にダウンしてました。
俺が医者なんか行く訳ないじゃんか・・

しかしだね~、
今にして思うと、あと0,2度あれば、憧れの40度だったのに・・
そ~なんです、だって人間、体温が40度なんてまず無いからね~。

もう一回やろうかな~?
憧れの40度の世界をさ迷うなんて、カッコイイじゃんかね~。(バ~カ)


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