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学童疎開船、対馬丸の悲劇

2023-08-27 08:25:52 | 軍事


1944年(昭和19年)8月22日。
沖縄から九州への学童疎開船、対馬丸がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。



戦争が激しくなり今後、激戦が予想される沖縄から、
一般婦女子、学童らを安全な内地へと避難させる事を政府は決定します。
学童の家族たちは、一般の貨物船ではなく、
防御力もあり、スピードの速い軍艦での避難を望んでいましたが、
そんな軍艦などあろうはずもなく、一般貨物船での疎開になりました。
疎開船は3隻で、いずれも6800トンクラスの旧式で低速な貨物船でしたが、
700トンクラスの小型護衛艦が2隻が彼らを護っていました。

対馬丸には、一般人、疎開児童の1800人が乗っていました。
和浦丸には、学童のみが、1500人。
暁空丸には、一般人1400人。
学童には、初めて沖縄以外の地、内地に行く者も多数いました。
彼等は初めて見る本土に期待に胸をワクワクさせていました。



1800人中、生存者は300人。
死者1500人中、学童は約800人でした。
これが、学童のみが乗っていた和浦丸だったら、学童の死者はもっと多かったのかもしれません。

8月22日、午後10時頃、対馬丸はアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で沈没。
対馬丸以外の2隻の船も護衛艦も、潜水艦からの攻撃を恐れ、
救助活動をする事なく、退避行動を取った為に、生き残った人達は見捨てられた形でした。
また、ようやく助けられて内地などに帰った人達には、
日本軍から対馬丸沈没の悲劇を語ってはならないという緘口令(かんこうれい)が敷かれました。
そんな悲劇が伝わると、疎開命令に従わない家族などが出て、支障が出るからです。
ですから、対馬丸の事実が調査される事もなく、生存者たちの苦悩は解決されないままでした。

1942年(昭和17年)6月。ハワイ真珠湾攻撃の開戦からたった7か月後。
日本海軍はミッドウェー海戦で、歴史的大敗北を喫しました。
海軍が誇る虎の子の正規空母4隻全部を失ってしまったのでした。
それは、これからの戦争継続を優位に進めるのが難しくなってしまったという事実に、日本軍は色を失います。
海軍は、ミッドウェーで生き延びた兵士たちを集め、
彼らを更なる激戦の最前線に送り込み、死に追い詰めるのです。
それは敗戦の事実を隠す為の、体のいい緘口令です。
日本軍というのは、そういった事を平気でする軍隊なのです。



先日行われた沖縄の、対馬丸慰霊碑での式典も、
年々生き残った人の数は減り、またそれを後世に伝える語り部も、殆ど居なくなっています。
そういったニュースが流れていました。

アメリカ潜水艦の艦長は戦後、「乗っているのが学童だと知っていたら、攻撃はしなかった」
と述べています。
私はそれは本当の言葉だと思います。



潜水艦映画として有名だった「Uボート」
ドイツの潜水艦は、イギリスの輸送船団を発見して魚雷攻撃をします。
しかし、敵から猛烈な爆雷反撃を受けて、逃げ回ります。
やっと敵の攻撃を回避して海面に浮上すると、
そこにはまだ沈んでいなかった貨物船の燃える姿がありました。
艦長は「まだ沈んでいなかったか、しぶとい奴だ」ととどめの魚雷を打ち込みます。
激しく爆発し炎上する貨物船ですが、そこにはまだ生存者が残っていました。
潜水艦の艦長は「まだ彼らを救助していなかったのか、時間はいっぱいあったのに」と驚きます。
貨物船から海に飛び込んだ生存者たちは、助けを求めて潜水艦めざして泳いできます。
しかし、彼らを助ける物理的余裕など狭い潜水艦にはありません。
潜水艦は彼らを見捨てて後退します。
潜水艦のドイツ兵たちは、その残酷さに泣きだします。
それしか出来ないと分かっているのが、人間として耐えられなかったのです。

潜水艦の任務が敵の船を沈める事であっても、
何も敵という人間が憎いという訳ではないのです。
ただ、船という(物)を失くしてしまえばいいのです。
艦長が、そこに乗っているのが学童たちであると知っていたら、
やはり人としてそこまでしたくはなかったというのは、本心でしょう。



第二次世界大戦末期、
ドイツはかつて占領していたソ連領からドイツ兵や一般人を、
本国に帰国させる為に、グストロフ号といった大型客船や、
ゴヤ号といった貨物船に乗せられるだけ乗せて避難行動に入りました。
しかしソ連潜水艦からの魚雷攻撃を受けて、
グストロフ号は9300人、ゴヤ号は6000人という、
いずれも空前の大量死者を出して沈没しました。

それはアメリカ潜水艦艦長の「学童と分かっていたら攻撃しなかった」のとは違います。
ソ連はそれまで散々痛めつけられ酷い目に遭わされてきたドイツ人に深い恨みを持っていたのです。
この潜水艦による攻撃は、ソ連の陰湿で卑劣な復讐だったのです。


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