この絵はパリのルーブル美術館に展示されている
「メデューサ号の筏」という大きな絵で、
1819年にフランスの画家・ジェリコーによって描かれました。
大海の波間に漂う筏に乗った十数名の人達が、
はるか彼方を行く船に向かって必死に手を振っている姿を描いた絵画で、
これは画家のジェリコーが実話を素に描いたものです。
その実話とはいったいどんな実話だったのでしょう?
1816年・・ナポレオン戦争が終わった後、
イギリスからフランスに返還される事となった、
アフリカ西海岸のセネガルを受け取る為にフランスから、
4隻からなる小規模な戦隊が派遣されます。
旗艦はメデューサ号という全長46メートルの船でした。
戦隊の司令官はメデューサ号の艦長でもある、
ショーマレーという中佐でした。
しかし、彼の人選がフランス海軍にとって大きな誤算となったのです。
彼の海軍士官としての能力は訓練された初級の士官にも劣るもので、
彼が海軍中佐の地位にいる事自体が不思議だったのです。
船が船団を組んで航海する時は、
最も遅い船のスピードに合わせて進むのが常識であるにも係わらず、
ショーマレーは最も速い自分の乗る船だけで、
スタコラサッサと勝手に行ってしまい、
残された船は司令官(ショーマレー)から何の命令も受けずに、
独自でアフリカを目指すしかありませんでした。
アフリカ西海岸のその一帯は危険な航路であり、
船は沖合を迂回して航海するのに、
ショーマレーは何の知識もなく、何の下調べもせずに、
そこに乗り入れ座礁するという事態を招きます。
その時、ショーマレーは操艦の全てを部下に任せ、
自分は船長室でワインを飲んでいたのです。
経験豊かな船長であれば、船内の重量物を海に投げ捨てるのに、
ショーマレーは、時間が経てば船は離礁すると、結局なにもしなかったのです。
船体は時間と共に破壊がはじまり、もう船を救う手立てはありません。
他の3隻の船とは離れ離れで救援を求める手段もありません。
メデューサ号の沈没が避けられないと判断した、
ショーマレーは船にある6隻の救命艇の用意をさせます。
しかし、彼はその内の1隻を自分用の救命艇に指定し、
食料や飲料水やワインなどを積み込ませると、
側近の部下10名ほどとさっさとメデューサ号を離れ脱出してしまうのです。
6隻の救命艇に乗れなかった人達は大きな筏を作ります。
それは20メートル×7メートルほどの筏です。
そこに146名の人々が乗り込みましたが、
筏は一応浮く事は出来ましたが、
重さの為に半没状態で、乗っている人達は、
眠る事も座っている事も出来ずただ立っているしかありませんでした。
筏がメデューサ号を離れたのは7月5日でしたが、
6日の夜が明けた時、筏の人は126名になっていました。
一夜にして20名が失われていたのです。
漂流2日目に早くも、筏に積み込まれていた飲料水とワインは空になった。
喉の渇きに苦しみ、またワインを飲んだ者は余計に喉が渇き、
人々は錯乱状態、狂気となってナイフを振り回し、
誰彼かまわず海の中に投げ入る者さえいたのです。
7月7日になると、
数名の士官の管理がまだ残っていて、前日の狂気を防ごうとしていた。
7月8日には55人の生存者となっていた。
この頃になると筏の上は、完全な生き地獄となっていた。
つまりカニバリズム(食人)が始まったのです。
7月9日は、僅か37人だった。
7月10日・・27人生存。
この日、新たに12人が死んで、残ったのは15人だった。
そして7月17日、
メデューサ号の捜索に当たっていた船が、この筏を発見し、
15人は救われたのでした。
これらの人は強靭な体力と海を知り尽くした、メデューサ号の水夫たちでした。
それは、まさに奇跡的な救出で、
この時の状況がジェリコーの絵に描かれたのです。
しかし、助かった15人の内5人が力尽きて死んでしまいます。
結局助かったのは10人だけでした。
メデューサ号の遭難によって死んだ者は160名になり、
その全てが無能な指揮官ショーマレーに集中し非難を浴びせました。
ショーマレーは誰より速くに陸地に上陸していたのです。
事件発生から7ヶ月後の、
1817年2月にフランスで軍事法廷が開催されました。
ショーマレーは法廷においても海軍軍人として、
あまりにも無責任と態度を繰り返し、
彼の全ての反論は虚偽と弁解に終始しました。
ショーマレーに対する処罰は、
海軍軍人からの永久追放。
彼が受けた勲章のはく奪と禁錮3年という刑罰でした。
しかし、フランス国民はフランス海軍に対し、
死刑にすべきだと猛烈な批判を浴びせたのです。
ショーマレーはこの時51歳。
彼は刑期を終えて出所してから国民から無視された中で、
14年間も生き続け、68歳でこの世を去りました。
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