私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

今朝の光

2013-05-12 20:05:11 | Weblog

 生まれたばかりのまぶしい朝の光が辺り一面に射しこんで、緑をいっぱにに広げ、辺りを際立てさせております。緑が目を痛く刺します。私の住む吉備の中山には、そんな今が照り輝いております。そして、そんな風景の中に、5月のウグイスが完璧の音色を立てながら辺りにとよめかしております。

 「緑が目に突き刺さる」。そんな感じを経験されたことありますか??。この吉備の中山の5月の朝の光景です。“そんな大げさな”とお思いでしょうが、本当にあたりの緑が目に突き刺さる様に思われます。そこら辺りに生えている名もない小さな雑草の一本の緑にも、大いなる山々にある木立の大いなる緑にも、今、朝の光がそれらの生き物たちの命を一斉に奮い立たせているようにも思われます。本当に、緑が人の目に突き刺さるのです。
 それらは、5月の朝の光が辺りの緑を追いたてるようにして生ました、瞬時の、しかも、永遠なる時の神秘の世界への誘いもあるようです。

 緑が目に突き刺さります。
 
 昨日は「テッペンカケタカ」の初音がはやばやと我が郷に届き、夏が確実にやってきました。年の暮れではないのですが、「明朝また一年」と高適の感慨に耽りながら、77歳の老いとは何ぞやと、溢れる光と緑に問い掛けております。


“なまなびならいそ”

2013-05-11 11:23:30 | Weblog

 高尚は、また、鎌倉・室町二期の勅撰和歌集にもその論を展開しております。玉葉・風雅和歌集です。一般に此の集については、伝統を踏襲するを良とせず、斬新を表現する大胆な技法が重んじられ清新自然な風体を大切にしたのですが、この作風に付いても言及しております。
 なお、玉葉集は鎌倉期、風雅集は室町期の勅撰集です。

 これ等の歌集について高尚は、
 “こはむかしよりいやしみて歌によまざりしものさへ、情をさへとり出ていふからに、事のこころしらぬ人は、めずらしくおもしろくおもひてほめやはしよみあへり。これなんとるかたなくくちおしききはなりける。”
 と。こなん歌がもてはやされているとは、甚だ、情けない限りだと嘆いております。そして、“いずれもまことの歌のさまにはあらねば、なまなびならいそ。”「決して、こんな歌に付いて学んだり習ったりするでないぞ」と、警告を発しております。
 

 この玉葉風雅の二集だけでも、およそ5千首の歌がありますが。それを彼は総て読んでいたのでしょうか。これだけ大胆にもこれ等の歌集を評しているのですから、総てにわたって読破しているものとしか言いようがありません。前の雪玉集などを入れれば、日本古来からの和歌に付いて、一万首を優に超す、大変な数の歌に付いて目を通うしていたことに成ります。こんな人がこの人を除いていたと思われますか。有史以来の最大の和歌の研究家だと云っても過言ではないように思われるのですが?どうおもわれますか。
 しかし、この高尚の「歌のしるべ」についてかの正岡子規は目を通していたとは思われません。こんな意味からも、此の二人の対談が実現したとするならば、たいそう面白い論戦に成っていたと思われるのですが。


雪玉集ってご存知?・?

2013-05-10 09:20:45 | Weblog

 高尚の読書量の豊富さに改めて敬意を表すとともに、何処からそのような本を引っ張り出したのか、それもまた関心がある所です。このような、今までに聞いたことも見たこともないような本の名前が、この「歌のしるべ」には方々に散らばるようにして出てまいります。今日取り上げる「雪玉集」もそうです。

 この雪玉集と云うのは室町時代の歌壇を知るための大切な資料となる三條西実隆の私家集で、約8000首の歌を集めた歌集です(インタネットからの情報です)。

 この歌集に付いて、
 “雪玉集の歌のめづらしきふしを、詞たくみにいひて、しめやかならず情のあさきをよしと思ひてまなびたるふりあり。三百年のむかしよりこなた、しもざまの歌よみのまべてこころざすはこれなり”
 要するに、げすの者たちが情が余り込められてないこれ等歌をよしと思って、その詞のあやだけを捉えって真似して歌を作っいるが、この作風はあまり感心されたものではないが、まんざら賤しいだけの歌でもない、と、評しております。
 


ちょっと寄り道します

2013-05-09 09:34:25 | Weblog

 私は一枚の写真を持っております。犬養木堂を囲む何かの会での記念写真です。犬養木堂の左隣にいる人が義母の父親、戦前の福知山市長を務めた「岸本熊太郎」です。
 この写真に映っている場所は勿論、どんなん催しの会だったかも不明です。どなたかこの写真に映っている人物の名前をご存じのお方はいませんか。教え願えないでしょうか。もうすぐ5・15記念日です。私の長年の思いを出来れば、此の期に、解明したいと思いますので宜しくお頼み申します。
           


宣長の古風について

2013-05-08 15:39:22 | Weblog

 高尚の師である本居宣長は、万葉集を古風であるとして、其の論を展開している。これは、宣長が古学をする時、万葉集は、その時代の世の中を深く心にしみて学べるからだとして、それぞれの歌を大変古めいた詞としてとらえていた。これは万葉集を学問上に捉えて研究していたからであって、歌を読む心とはまた違った意味からの古風を捉えていたのだと云う。

 ご自分の師である「宣長」の古風と云う言葉の意味が、同じ古風で有ってもその捉え方が違うから問題ではないと自分の言う古風との違いを、先ず、一番に論じております。


万葉集と古今集

2013-05-07 07:15:41 | Weblog

 高尚は万葉集と古今集を比べて述べております。万葉集の歌人である人麻呂等のこころが古今集の歌人に相通じるゆえに古今集の歌が優れているのである、と述べております。
 
 “さるは古今集は、さきにもいへるごとく、此大人たちの歌のさまなる歌をえらびあつめたる集なればなり。その後、俊成卿なども、此心をおもひてよみたゆゑにおなじさまなり”

 また、今のよの歌よみが、万葉集の歌が「古風」であると定家卿が評してから、“いみじげにいいて”<たいへんひど言って>人を惑わしているが、それは大変な誤りである。奈良の都の時に作られた人麻呂たちの歌を京の都の人々が“世々にしたひまなびたるものゆへに、その歌ども大かた同じさまに見えて、古風といふべくもあらねば”と云っています。

 


歌のさまを学ぶとは

2013-05-06 11:30:10 | Weblog

 高名は人麻呂や赤人の歌がいいかと云うその理由について次のように言っています。

 この二人の歌は”あはれなる情深く、詞をかしくしめやかにして、きく人のふかくあはれとおもふべくよまれつる”と。

 此の二人のようには情深く細やかに読む事は出来ないのだが、その足元にでも近づくためにも、二人の歌を学ばなくてはならない。そして、人があはれと感じるような歌を造るためには、自分も常に情を大切にした生活をしていく必要がある。そうすることによって読む人があはれと感じるような歌が作れるのだと云っています。いい加減な心「あだしふりは歌のこころ」では、上手な歌は読めない。「たくみにおもしろく」読めたとしても、そんな歌は本当の歌ではない、と。


高尚のよき歌とは

2013-05-04 08:52:57 | Weblog

 人の情を歌の本隋と説く高尚先生はその大本は万葉集にあるといわれます。その中で、特に、紀貫之と同じで、柿本人麻呂と山部赤人を読む事を進めてあります。

 “・・・万葉集の読み人なれども、此大人たちの歌、古今集のうちにいるとも同じふるにて、ことにすぐれてよき歌なるべし。・・・・此大人たちの歌のさまなる歌をえらびあつめたる集なればなり。その後、俊成卿なども、此心をおもいてよみたまえるゆゑにおなじさまなり・・・・”
 と。


いにしへのよき歌のみやびて、

2013-05-03 12:05:33 | Weblog

 続けて、高尚先生は、古い洗練されたもののあわれが込められた歌を習うと、おのずからもののあわれにつて深く感じられるようになって上手な歌が詠めるようになるのだと云っています。 このもののあわれさの分かるようになると、誰でもその情が細やかになって、それがひいては親孝行にも、指導者としての立場にある人も友達との交わりにも大変良い影響を与えることともなりうる。古きよき歌を読むことは、人の道を教えている書物よりよほど人間的な成長に効果があるとも言っています。そのことは中国の古い書物「論語」等にも見えると。そして

 “ものはかなげなる此歌ぞ、よきすじをまなびえては、なかなかに身のため世のためともなりぬべき”

 よき歌を学ぶことば自分の為にも、また、世のためにもなると、述べています


うちおもふじょうをただにいひてよからめや

2013-05-01 16:27:58 | Weblog

 歌は「あはれとめずべきこころ」、普通と違ってしみじみと感動したことを詞で言い表すことであるとして、その例へに
 
 「さき竹を革をもてつつめる刀しろは、人をきるものにはあらざれども、うちふるわざをならはすには、まことの刀として、きるこころにてものせずては、其わざのなりがたきがごとく」
 竹刀は人を切るものではないのだが、この打ち切る技を練習しなくては、本当の技を身に付けることはできないと同じように、月花の歌は、直接生活と関わりないものだけれど、深く心をいれて習っていなければ、いざと云う時には、深く感動できるような歌は創れないものだ。と、さらに、人の情は浅くさとび勝ちになりやすいのだが、その思いをそのままに詠むのであったら「つねの情ももののあはれしるよき情にはならじかし」