雪玉集、玉葉集、風雅集について高尚は「なまなびならひそ」と、まことのさまでないと言っております。そして柿本人麻呂と山部赤人の歌について
“あはれなる情ふかく、詞をかしくしめやかにして、きく人のふかくあはれとおもふべくよまれつる、そのさまによまんとこころざすほかなし。”としてそのようなふかいこころ迄には現代人は到底及ばないのだけれども、その足元ぐらいまでには近づくことができる。だから、常に、此の二人の歌を読んで、その中にある“もののあはれ”の情を会得する様にしなくてはならないと云っております。歌を巧みに面白く詠っても、そんなものは、所詮、“わらわべのたわぶれあそぶわざにおなじきぞかし”と、こき下ろしております。
要するに形だけを真似て上手に作っても心が、情ですが、入ってない歌など和歌としての何の意味があろうかと云っているのです。