高尚は言います。よき歌とは“きく人のあはれとおもはする歌なり”と。
広沢長孝と云う人の桂雲集に出ている
“年も今つれなくのこるあり明の月よりかすむ春は来にけり”
を取り上げています。
「たくみににああれども、歌のさまにはあらず」と。その理由として、春賀過ぎようとしてるとき、どうして、あり明の月がかすむでしょうか。実際、深夜の月がかすむのは3月の頃です。かのように見た目にはあわれを催すようには作られてはいるが、実際とは随分かけ離れていて、古今集や後拾遺集と比べてみてもよく分かる随分と見劣りのする歌だのだ。俊成卿や頓阿法師の歌をも参考にして、歌の決まりを知らなくてはならない。この二人の歌も、人麻呂や赤人の歌の心を熟知している人ですから。どうしてかと云うと、これ等の人は
“あはれなる情を、うつきしき詞して、しめやかにいへるものにて、かかるはかのふたりの大人の歌のこころにはあらずや。いほとせ千とせをふるあひだに、歌のすがた詞のふり、いささかづつはかはれども、まことの歌のさまをしりて、事のこころをえたらんには、同じ事ぞ”
と。そして、このような先人の歌よみの心を知らない人は
“いたづらごとせんよりは、歌よむ事をやめて、いますこし、なしてかいのある事をせんぞよかるべき”
と、手厳しく言い放った居ります。